第110話 孫と祖母
蒼子達は呂家の壊れかけの旧邸ではなく、街中にある本邸へと戻って来た。
蛇神、雪那との交渉を無事に終え、聖域から出てきた頃には日が暮れていた。
新たな町の統治者として任命された白陽と呂鴈は少しだけ身体を休めた後、騒動の処理に追われながら慌ただしく動き回っている。
町の住民達も未だに混乱しているようだが、ほとんどの者の表情は晴れやかだ。
この町は男手を多く失うことになるので、特に農作物で生計を立てていた者達の混乱は大きい。
町全体である程度の生計が維持できるように莉玖と呂鴈が国に掛け合う予定だ。
農作物を育てるのに適した土壌と広い面積があるこの町の田畑を政府は腐らせるような真似はしないだろう。
莉玖は力を使い過ぎて回復が必要なので、借りた部屋で休んでいるが、その分の仕事を取り仕切っている部下の馬亮は白陽達と同様に忙しく動き回り、椋と柊も鳳珠の世話の妨げにならない程度に手伝っていた。
「いい加減、起きてもいい頃なんだが」
大人の姿の蒼子は眠る鳳珠の顔を見つめながら呟く。
鳳珠は丸三日眠りについたまま目を覚まさない。
顔色も良く、蒼子の気を流したので蛇神の毒気は抜けている。
「やはり……あの時の感覚は…………」
雪那が作り出した聖域の中で、天に返る光を皆で見上げていた時、一瞬だけ王印の力を感じたのだ。
どうして王印の力を感じたのかは分からないが、あの時、鳳珠はきっと何かお理由で力を使ったのだ。
王印の力は鳳珠の身体に負担が掛かる。
ただでさえ、弱っていた状態でそんなものを使えばとてつもない負担を強いることになる。
「一体、何に使ったのか……」
蒼子は眠る鳳珠の顔を眺めながら呟くが返事はない。
目覚めるまでもう少しかかりそうだと、判断する。
それにしても無駄に綺麗な顔をしているな……。
男のくせに、無駄過ぎじゃないか?
大人の姿であればこうして寝ている鳳珠の顔を覗き込むことができる。
寝ている鳳珠の顔を無遠慮に観察しながら、心の中でぼやく。
女神も恥じらう絶世の美貌だ。
濡れ羽色の髪が白い肌を映えさせ、色気を滲ませている。
「顔だけは本当によく似ている」
蒼子の中の記憶の箱が蓋を開けた。
過ぎ去ったはずの遠い記憶が部分的に蘇る。
憎らしいあの男と、目の前の鳳珠。
別人であることは分かっている。
だが、こうにも過去を彷彿させるとなると、距離を置いた方が良いだろう。
蒼子は眠る鳳珠の額にかかる髪をそっと撫で上げた。
形の良い額にそっと唇を落とす。
「どうか冷酷で残忍であれ」
蒼子は願うように呟いた。
そうすれば、あの男と同じ。心がざわつくこともない。
蒼子は胸の中に感情をしまい込み、部屋を出た。
部屋を出ると待っていたのは朱里である。
「まだ目は覚めない。側にいるなら今のうちだ」
蒼子が言うと朱里は何とも言えない表情になる。
「縁とは不思議なものです。まさか、失った娘の忘れ形見にこんな形で出会えるとは思いませんでした」
朱里は呟くように言った。
「気から…………娘の気配を感じるのです」
そう言って朱里は静かに涙を零す。
しわしわになった手で顔を覆い、小さく震えていた。
朱里の娘は恐らく高級妓楼へと売られた。
そしてその妓楼に足を運んだ皇帝の愛妾となり、鳳珠が生まれた。
蛇神が鳳珠を求めたこともそこに理由がある。
鳳珠からは王印の特別な気を感じるが、呂家の血も混ざっている。
特別な気と待ち望んだ男の気配を纏う鳳珠は蛇神にとって選ばずにいられない男だったのだと思う。
「火の神力使いは気の性質を分析するのが得意な者が多いと言うが、実際にそれができる者は少ない。今からでも神殿に来る気はあるか?」
蒼子が言うと朱里は首を振る。
「孫の側にいられるぞ?」
「孫……などと口が裂けても言えません。私は娘を守れなかった」
妓楼に売られ、皇帝の愛妾になった娘の人生は過酷なものだったに違いない。
「娘を守れなかった私に、祖母を名乗る資格はありません」
朱里は過去を強く悔やむ。
しかし、娘が売られたのは朱里のせいではない。
「私が鳳珠様と出会った時、質の悪い女に絡まれていた」
蒼子の唐突な語りに、朱里は一瞬目を見開く。
「しかし、女問題を抜かせばとても生き生きと知人に囲まれ、楽しそうに生活をしている青年だと感じた。町の人からも慕われていた。人生の中で沢山の物を得ていると感じた」
そんな人生があるのは母親がいてその母がいたからだ。
命は繋がっている。
「彼の今があるのは貴女という存在がいたからこそだということは忘れないで欲しい。貴女の娘がきっと他の者にはない壮絶な人生を歩んだと思う。けれど、その中で少しも幸福がなかったわけじゃない。それに貴女の娘は貴女に似て強かったと思う。自分の運命に抗いながら人生を切り開いていったと思う」
その結果、皇帝の目に留まり、妓女から妃にまでなり、王印を持つ皇子を産み落としたのだ。
本当に弱ければ皇子を産む前に死んでいる。
死しても尚、皇帝に過去を振り返らせるだけの存在感と強さが彼女にはあったのだ。
「きっと、貴女の娘は母を恨んではいないと思う」
蒼子はそう言い残して歩き出す。
しばらくの間、小さな嗚咽が静かな廊下に響いていた。
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