第109話 溶けていく意識の中で

 脱力し、重たくなった身体に冷たく心地より何かが入り込む。

 冷たくて、心地よく、清らかなそれは血流に乗って全身へと広がり、染み渡った。


 すると、少しだけ身体が軽くなった気がした。

 まだまだ身体は怠く、鉛のように重たいが、幾分マシになったと思う。


 鳳珠は少し軽くなった瞼を持ち上げる。

 すぐに視界に入ったのは儚い光が天に昇って行く美しい光景だった。

 例えるなら冬の雪が空へと帰っていくような、何とも神秘的な光景だ。


 そしてふと、視界の隅に長い艶やかな黒髪が揺れた。

 若い娘が皆の中心に立っている。

 手には長く、大きな濃紺の石のついた錫杖を持ち、すっと伸びた背筋から凛々しさを感じた。


 惜しいことに顔は見えない。

 しかし、何故かその後ろ姿が蒼子と重なるのだ。


 きっと蛇神の毒気にやられて思考が馬鹿になっているのだ。

 あの幼い娘と、目の前に立つ娘では何もかもが違い過ぎる。


 だが、何となく似ている気がするのだ。


 鳳珠は顔も見えない娘の後ろ姿だけでそんな風に思う自分がおかしくて仕方がなかった。


 顔が気になる。

 こっちを向いてはくれないか。


 そんなことをぼんやり考えていると肌が直感的に良くないものが近くにある気がした。

 その方向に顔だけ何とか動かすと、そこには物凄い剣幕で黒髪の娘を睨みつける呂鄭の無様な姿があった。


 頬は腫れ上がり、全身ずぶ濡れで酷い有様だった。

 

 そろそろ諦めてもいいはずなのに、呂鄭からは未だに野心が潰えていない。


 そしてその瞳には黒髪の娘に対する悪意と殺意が感じられた。


 鳳珠はそれを見て心の底から怒りを覚えた。

 

 まだ懲りないのか、貴様は。


 その娘に危害を加えるのは許さないと視線だけで命じた。

 蒼子が害されたかのような気持ちになり、鳳珠は強い怒りと苛立ちを呂鄭にぶつける。


 すると目が合った呂鄭は言葉を発する間もなく、失神した。

 呂鄭の異変に皆は気付いていない。

 だが、鳳珠が意識を取り戻したことにも誰も気づかない。


 誰か気付いても良いのではないかと少しだけ思う。

 皆が皆、天に返る光に夢中なのだ。


 まぁ、いい。あの娘に危害がないのであれば。


 儚い光の美しさに見惚れていた鳳珠も自然と意識を溶けていく。


 溶けるように狭まる視界の中で娘の黒髪が静かに揺れる。

 顔ははっきりと見えない。

 だが、黒曜石のような美しい瞳と一瞬だけ視線が交わった気がした。

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