第87話 呂雁の想い

「呂鴈、そなた当主としての利権を全て弟に譲り渡したと言ったな?」


 蒼子はよく通る声で呂鴈に訊ねる。


「その通りです。全て……私の持っているもの全てを差し出しました」


「紅玉」


「はい、蒼子様。こちらです」


 蒼子は呂鴈に確認を取り、紅玉から一枚の書類を受け取り、一度目を通してから呂鄭の前に掲げて見せた。


「何だそれは?」


「これは貴族名簿の写しだ。ここにはその一族の代表者、つまりは当主としての利権を持ち、当主として振舞える者の名前が記されている。見ろ」


 呂鄭は蒼子の指した場所を視線で追う。


「そんな……何故、私の名が……? それに、こんな書類に印をした覚えもないぞ!」


 そこには呂鴈の名前を訂正線で消し、新たに呂鄭の名前が書かれ、印も押されていた。

 受理されたのは今から八年ほど前だ。

 それは呂鴈が追い出された頃と重なる。


「これは呂鴈が貴様に当主の座を正式に譲り渡した証明だ。届け出る前に当主が死亡した場合は新たに作り直すが、当主が生前新たな当主を指名する際はこうして訂正印をもって受理される。貴様は八年前から既に呂家の正式な当主」


 蒼子は前もって紅玉に頼んで手に入れたものだ。

 普通では部外者が手に入れるのは難しいが呂鴈に同行を頼んだらすぐに出してもらえたと言う。


「そんな、そんな馬鹿な……本当に当主の座を放棄したというのか? 当主でいるだけでこの町と女と莫大な金が手に入るんだぞ? それを本気で放棄したというのか⁉」


 呂鄭は兄を馬鹿にするような口調で言った。

 まるで物の価値を分かっていない子供に呆れるような言い方だった。


 呂一族が作り上げた欲望の箱庭は呂鄭にとって何よりも魅力的で価値のあるものだったったのだろう。


「貴様には分からぬだろう。呂鴈はこの町の利権などよりも守りたいものがあったのだ」


 蒼子は白燕と白陽に視線を向ける。


「特例はあるが基本的にこの国では余計な諍いが起こることを避けるために一度貴族名簿に記された代表者の名が消されると同じ名は二度と記されることはない。つまりは呂鴈は当主になることはできない。それでも白燕と白陽を守りたかったのだ」


 白燕と白陽は唖然としながらぽろぽろと涙を零す。

 

 きっと何としても二人だけは守りたかった呂鴈は当主の座を捨てることに何の躊躇もしなかっただろう。

 自分の穢れた欲望のために地位を欲した呂鄭にはきっとその気持ちは永久に理解できない。


「貴様は呂鴈の想いの強さを見誤った」


 蒼子の言葉に呂鄭はギリギリと歯噛みする。

 

「だが! 兄も一族の直系子孫であることに違いない! 私だけの責任じゃない! 兄上も同じ罰を受けるべきだ!!」


 呂鄭はせめてもの抵抗に兄である呂鴈も巻き添えにしようとする発言をする。


「呂鴈は国に琉清の実態調査を過去に何度も依頼している。しかし、この町に関わりのある者に依頼を握り潰され、今まで調査に繋がらなかった。そこで私が相談を受け、陛下に掛け合った。呂鴈は一族の者として沙汰はあるが、首が飛ぶようなことにはならない。それは私が保障しよう」


 鳳珠は白燕と白陽に向かって告げる。


 せっかく三人のわだかまりが解けたというのに、呂鄭が不穏な発言を繰り返すため、白燕と白陽が露骨に顔色を悪くしていたためだ。


 姉弟は鳳珠の言葉に安堵の表情を浮かべた。


「くそっ! 何故だ!! 何で私がこんな屈辱を受けなければならない!!」


 この言葉に蒼子は眉をピクリと跳ね上げた。


「女は大人しく男の言うことを聞いていれば良いものを! この世は絶対的な男社会だ! 生物として優れた男が女を支配する社会だ! ならば女は男に服従し、男に傅き、男のために子を産み育てるのが当然の義務。それが女に与えられた役割ではないか! 女が男の領分を犯し、しゃしゃり出てくるなど本来あってはなならないことだ! 私はそれを正している! 女とはどうあるべきかを教え示しているだけ――――――」


 呂鄭が言い終えるよりも前に『パアン』と乾いた音が広間に響いた。

 

 いつの間にか椅子から立ち上がり、呂鄭の前にたった蒼子が思いっきり呂鄭の頬を打った。

 呂鴈に殴られて腫れていた場所を蒼子は同じ場所を叩いた。

 何が起こったのか分からず、呂鄭はただ茫然としている。


 周囲も蒼子の思いもよらぬ行動に言葉を失っていた。


「黙れ。女を侮辱するのも大概にしろ」


 蒼子の威圧感に広間の空気が変わった。

 凍てつくような寒さと息苦しく重たい空気が広間に流れる。

 たった一言でその場の空気を支配し、誰にも発言を許さない雰囲気を纏った蒼子は子供のものとは思えない鋭い眼光で呂鄭を睨みつけた。


「女の腹から生まれた分際でよくもここまで女を侮辱できるものだ。貴様ら男が女より生物として優れているならば何故貴様ら男は女が必要なんだ? それは男の最大の欠点を補えるのが女であるから以外にない」


 男の生物としての欠点、それは子を産むことができないということだ。


「命とは尊いものだ。その尊い命を腹で育み、産み落とす女こそ尊い生き物。そんな女と生まれた子を守り、生活をしていくために男達が作ったのが社会である。決して男が女を見下し、虐げることを容認するためのものではない!」


 珍しく感情的な蒼子に鳳珠は少し驚く。



「それを貴様のような一部の男達がその意味を履き違え、顕著な男優勢の社会になったに過ぎない。女が子を産み、育てる役割を担っているのであれば男の本来の役割はその女と子の安全と生活を守ること。それが、貴様らのしてきたことはどうだ? 女や子供を暴力で支配し、本来の義務を怠っているどころか、守るべき安全も生活も脅かしている。女に役割や義務を押し付けておきながら自分達は本来の役割を放棄して許されると思っているのか?」


 蒼子の発言の通り、男は伴侶である女と生まれる子供を守る義務がある。

 この町ではその基本的な義務が破堤しているのだ。


「貴様らは自分達の義務と役割を放棄しておきながら、女や子供を自分の欲望を満たすための道具として不当な扱いを繰り返し、彼らの自由と尊厳を著しく害した! 心も身体もボロボロになるまで傷つけ、追い詰め、嘆き悲しみ、助けを請う声を握り潰して、彼らの想いを踏みつけにしてきた! 尊い命を無残にも食い荒らしてきた貴様らを神も緋王も決して許しはしない!」


 気迫に満ちた蒼子の言葉が呂鄭や町の男達に重く圧し掛かる。

 蒼子の高らかに宣言するような声は広間を突き抜けて庭先まで届いた。


 蒼子の言葉を聞き届けた女達は嬉々とした表情で目元を泣き腫らし、男達は自分達が犯した罪の重さをじわじわと受け入れ始めて項垂れていた。


「貴様らに課せられる罰は自死を選択したくなるほどの苦痛が伴う。しかしそれらは自分達が傷つけてきた者達の痛みのほんの一握りでしかないことを頭に留めておけ」


 傷つけた者達の痛みを彼らは身をもって知ることになる。

 彼女達が滝に身を投げたように、自ら死を選びたくなるような地獄の罰が待っている。

 しかし、それでも男達が傷つけた者達全員の痛みには到底足りないだろう。


「工部尚書」


「あぁ」


 蒼子が言うと莉玖は短く頷く。


「連れていけ」


 すると莉玖の部下が広間に入室し、呂鄭と翔隆を無理矢理立ち上がらせた。

 翔隆は力なく項垂れ、されるがままだが、呂鄭まで静かなことが気になった。


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