反証と眼鏡

「……仮にお前の推理通り、五年前の交通事故が人為的に起こされたものだったとしても、だ」


 ガマ警部が重々しく口を開いた。


「雨宮は一命を取り留めて屋敷に移り住み、藍沢は秘書の仕事を解雇された。事故の後、藍沢が雨宮に近づくチャンスはなかったはずだ。そうだな? 松田」


「……そうですね。旦那様が屋敷に移られてから、藍沢様がこちらに来られたことは一度もございません」松田が頷いた。

「旦那様が外出される機会も週に一度の通院程度で、その際は霧香様が付き添っておられますから、お一人になる機会はなかったかと……」


「つまり、たとえ藍沢に動機があったとしても、奴には雨宮を殺す機会はなかった」ガマ警部が後を引き取った。

「雨宮が昨日の晩、外に行きたいと言い出したことも、娘が雨宮を残して屋敷に戻ったのも偶然だ。屋敷に出入りしていなかった藍沢が、たまたまその機会を捕まえて犯行に及んだとは考えにくい」


「それは……確かに」


 木場は窓の前で立ち止まった。そのまま外の景色を見やる。屋敷の周りには海と崖、後は例の鬱蒼とした森しかなく、目に見える範囲に建物は一軒もない。家族の一員でもない藍沢が、こんな辺鄙な場所に引っ込んでいる被害者の行動パターンを把握することは困難だ。森に潜んで屋敷を監視していた可能性もなくはないが、毎日そんな生活を続けていたとも考えにくい。


「屋敷の中にいる人間と手紙のやり取りをしていた可能性はないでしょうか? それで被害者の行動パターンを教えてもらっていたとか」


「少なくとも、家人との間ではないはずだ。雨宮は家人の手紙を監視していた。解雇した男からの手紙に気づかないはずがない」


「灰塚先生や、使用人の人はどうでしょうか?」


「それは何とも言えんが……それよりも木場、お前はなぜそこまで藍沢にこだわるんだ?」


 ガマ警部が疑わしげな視線を向けてきた。木場が振り返ってガマ警部の方を見た。


「どうもお前は、あの霧香という娘の無実を証明するために躍起になっているように思える。自殺の件で藍沢に動機があることは確かだが、それはそのままあの娘にも当てはまる。一関係者に肩入れするのは、刑事として正しい姿勢とは言えんな」


「違いますよ! 自分はただ、いろんな可能性を検討したいだけで……!」


「警部殿! こちらにいらっしゃいましたか!」


 一触即発の空気を漂わせた室内に、突如として別の声が飛び込んできた。

 木場とガマ警部は一斉に入口の方を振り返った。泥だらけのスーツに身を包んだ男が、背中に針金を差し込まれたようにぴんと背筋を伸ばして敬礼している。


「あれ、あなたは確か……」


 木場が呟いた。つい最近どこかで会った気がするのだが、いかんせん顔の印象が薄すぎて思い出せない。


「渕川であります! つい先ほど、事件現場で足跡の件をお話いたしました!」


 男が声を張り上げた。そこでようやく木場も合点がいった。つい数時間前に話を聞いたはずなのに、なぜかすっかり存在を忘れていた。


「……一瞬誰かわからんかったな。眼鏡はどうしたんだ?」


 ガマ警部が首を捻りながら尋ねた。どうやら警部も顔を忘れていたらしい。


「はっ! それが、現場の捜査をしている間に落として踏んでしまいまして……。いやはや、今回の捜査はついていません。スーツは汚れるわ、眼鏡は割れるわ」渕川が愚痴っぽく言った。


「そっか。だから顔が思い出せなかったんだ」木場が一人で納得して頷いた。「でも、眼鏡がなくて見えるんですか?」


「いいえ、視力は両目とも0.1しかありませんから、ほとんど見えません。ですから万が一に備えて、いつもスペアを持ち歩いているのです」


 渕川はそう言うと、慣れた手つきでスーツのポケットから黒縁眼鏡を取り出して装着した。その瞬間、現場で会った渕川の顔と、目の前の男の人相とがぴたりと一致した。相貌以上に雄弁に彼らしさを語る眼鏡。これではどちらが本体かわからない。

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