12:浴衣
椿と会話を続けていくうちに、どんどん相手の目が狂気じみてきているように感じはじめた。
相手の瞳の異様なギラつきがそう感じさせるのかもしれないが、薬が切れた禁断症状なのかもしれない。
「紗里さんは、どこですか」
椿は唇の端を吊り上げ、おもしろそうに笑う。
「お前、おかしな奴だな。紗里が死んだ? そんなわけないだろう、紗里は生きている。その本に書いてあるだろう。時々事務所に遊びに来るんだ」
相手の表情に嘘はないように見える。
やはり椿はそう思い込んでいるのだ。
「椿さん。何度も言うようですが、あなた以外に紗里さんを見たものはいません。最初の事件に紗里さんが同行していたということですが、依頼人の旦那さんは紗里さんを見ていません」
「俺をかつごうたってそうはいかないぜ、探偵さん」
「いいえ、残念ですが真実です。紗里さんの母親は心を病んでいる、いない紗里さんが今でも部屋に居るとそう信じているんです。こともあろうに、その紗里さんを誘拐したあなたを信頼している。おぞましいことです」
「あんたはどうやっても俺を誘拐犯にしたいようだが、そうはいかない。紗里は怯えていたんだ、兄が自分に恋愛感情を抱いていることを悍ましがっていた。だから助けてやったんだ」
椿が本気でそう思い込んでいることがやっかいだ。話の通じない相手と会話することが、これほど苦痛だとは思いもよらなかった。
「だったら、紗里さんはどこにいるんです。あなたは紗里さんを家にかくまった、その後、紗里さんはどうやって家に帰ったんです」
「本に書いてるだろ、2年経って家に帰ったよ。紗里は俺の家に居たことは誰にも言わなかった、俺に迷惑がかかると思ってな。あいつの心は兄に壊されてしまったんだよ、今じゃ言葉も発せない状態だ。そっとしといてやってくれ」
どうやってこの男を正気に戻せるのだろう……私はそればかりを考えていた。
椿に理解してもらう必要がある、自分が見ていたものが薬による幻覚だったのだと。
「椿さん、あなたの物語で不自然な部分があるんです。それは物語の最後です」
「最後?」
「はい。紗里さんに関する記述でこんな文章があるんです。『浴衣を着た紗里が庭を横切りながら、トコトコと歩いてくるところだった』と」
「それの何がおかしい」
椿は面倒くさそうにため息をついた。
「あなたの書いた本の中に季節感が分かる文章は少ないですが、紗里さんが浴衣を着ていることから、なんとなく暖かい時期なのかと想像しました。でも、最後の話ではつじつまが合わないんです」
「何が」
「あの事件は冬に起きましたよね、天堂さんが住む地方では雪が降っているという記述もありましたし。三宅さんにも確認済みですが、12月頃の出来事だそうです」
天堂家のある辺りはN県という風にぼやかしてあるが、新潟県のことだ。
椿が紗里と久しぶりに会ったのは、その事件が起きた数週間後のこと。
本の中の記述はこうだ。
――天堂家から帰り着いて2週間、いまだに紗里は姿を現さない。
「あなたが紗里さんと会ったのは天堂家の事件から2週間後のこと。雪こそ降りはしないものの、このあたりも凍えるほど寒い日が続きました」
その言葉を聞いた途端、椿ははっとしたように目を丸めた。
「どうしてそんな寒い時期に紗里さんは浴衣だったんでしょう?」
「…………」
「心を病んでいるから、事件のあった日の服装をずっと着ている。そう言ってしまえばそれまでの話ですが、紗里さんがそのような状態であったとして、あなたはなぜ羽織1枚も着せてあげなかったのでしょう? あれだけ紗里さんを気遣っていたのに」
「…………紗里は……」
ここにきて明白に椿の様子に変化が現れた。
瞳をきょろきょろ彷徨わせ、額に皺を寄せて何事かブツブツ呟いている。
ここは、もう少し後押しする必要があるだろう。
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