第28話
それからの日々は、何も変わらなかった
次第に夜斗と弥生の間で交わされる会話が減っていき、今では挨拶を除けば日に2往復程度
互いの思考をある程度読めるようになり、何をしてほしいのかを察して動く
そんな生活が、2年ほど続いたある日
「異動命令…?」
「そうだよ。来月から静岡ね」
「えー…なぜですか」
夜斗の目の前にいるのは上司だ
上司が夜斗に渡したのは異動命令書
つまり、次の4月から夜斗はここには来れない
「なぜって、向こうの上がほしいって言うからいいっすよーって」
「ノリが軽すぎる!私の人生かかってるのに!」
「とはいっても今同棲してるらしいじゃん。墓場は決まってるから大丈夫」
「墓場じゃないです結婚する気はお互いにないんで」
「だとすれば同棲してる意味が理解できないね」
「私もそう思います」
出てしまったものは受け入れるしかない
向こうで家を探す必要がある
そしてそれは、必然的に終わりを告げるチャイムだ
(同棲も、終わりか。弥生が俺を好きになることは、なかった)
「悩みがあるなら聞くよ?」
「今まさに悩みを増やされたところです」
「給料1.2倍」
「上司の命令とあらば」
「手のひらくるっくるだね」
「人間なんてそんなものです」
そう言って席に戻り、書類を広げる
管理部門への異動が決まったということと、引っ越しを要するということが書かれていた
(…今日話すか)
弥生は今年で高校を卒業することになっている
専門学校の試験に合格した、ということだけは聞いていた
(…神はいないな。俺が何したってんだ)
強いて言うなら何人か女の子を泣かせたという悪事(?)があるのだから、この程度の天罰は許されるだろう
(憂鬱だ…)
この日はそのテンションのまま仕事を終え、重い足取りで家へと帰った
「ただいま」
「おかえり。…何かあった?」
「まぁ…。なんでわかった?」
「音を聞いたから。…何か飲む?」
「ああ…そうだな」
出された紅茶を飲み、大きくため息をついた
そして異動命令が出たことを伝えるため、覚悟を決める
「4月から、静岡市に転勤することになったんだ」
「そう。引っ越しするの?」
「異動命令書には引っ越しするように、って書かれてた。費用は会社持ちだ」
「なら、すぐにでも動いた方がいい。家を探すなら知ってる先輩が不動産屋だから力を貸してくれるはず」
淡々と言い放つ弥生。取り付く島もない状況だ
そう、夜斗だけが思っていた
「私が合格した学校も静岡市だから都合がいい。ここから通うつもりだったけど、電車は嫌いだから。近くに住めるほうが楽」
「…来てくれるのか?」
「うん。飽きるまでという約束だから」
またしても渡りに船だった
そして、事前にしておいた「約束」が弥生を縛っているのではないかという新たな疑念が頭を巡る
「…無理に来る必要はない。終わりでも仕方ないだろう」
「夜斗は、この生活に飽きたの?」
「…いや、飽きてない」
「私も飽きてない。だから、一緒に行く。今同棲終わったとしても実家に帰りたくないから静岡市に引っ越すし」
そう言って夕飯をテーブルに並べる弥生
夜斗からすれば何故わざわざ同棲を継続するのかはわからなかったが、それを問いかけて「やっぱやめる」となるのが怖くて聞けなかった
「引っ越しはいつするの?」
「異動は4月だから3月末だな。今が2月だし、再来週には家を探したい」
「なら先輩の都合を聞いて相談しに行こう。その人が勤めてるのは沼津だから、夜斗の都合が良い日に行ける」
「ああ。…すまんな、俺にはそういうツテがないんだ」
「適材適所。工業科の人がそういう道に進むことは少ないって聞いてるから、仕方ない」
「ありがとさん」
食事を終え、自室で寛いでいたその時。普段は鳴らない着信音が響いた
夜斗は個人別に着信音を使い分けており、この音は今までに鳴ったことがない
そのため誰からなのかパッと思い出すことができなかったほどだ
「…叔父さんか」
『夜斗君今良いかな』
「珍しいっすね、叔父さん」
電話をかけてきた事自体珍しいというのに、普段の冷静沈着な様子からは伺えないほど焦った声をしていた
そしてその叔父が重々しく言い放ったのは、夜斗にとって信じがたい事実だ
『弟が事故にあって病院にいるんだ。すぐ来れるかな』
「親父が!?どこの病院ですか!」
『伊豆長岡病院だよ。今が峠らしい。紗奈ちゃんも連れてこれるかい?』
「なんとかします!」
電話を切り、すぐに紗奈へと発信する
そして通話しながら服を引っ張り出し、着替え始めた
『お兄様?どうかされましたか?』
「叔父さんから電話があった!親父が事故で重体らしいんだ!」
『お父さんが!?ど、どうしましょう…』
「今から迎えに行くから準備しててくれ!車で向かうから!」
『わ、わかりました!』
電話を切ると同時に着替え終わり、鍵を掴んだ
話を聞いて着替えを終わらせていた弥生と共に部屋を出て車に向かった
「煉河!」
『話は聞いた。僕が行っていいのか?』
「親父に恩を感じてるならな!」
『その言い方をされては行くしかない。すぐ準備を済ませる』
煉河に電話をかけて短く要件を伝え、最近買ったばかりの車を発進させた
法定速度ギリギリの速度で天津風家へ向かい、到着すると同時に出てきた2人を後ろへ乗せて走り出す
「お兄様、叔父はなんと仰っていましたか…?」
「詳細は聞いてない。ただ、今日は夫婦旅行だって言ってたから母親もいるはずだ。親父は今峠だって話だから、なるべく急ぐぞ」
「承知いたしました」
冷静なように見えて震えているのがミラー越しにわかる
煉河がその手を取り、なんとか落ち着かせているが
夜斗も紗奈と同じく、焦りと動揺が体中を駆け巡っていた
「夜斗」
「なんだ」
「落ち着いて。今私たちが事故したら、あの人たちが悲しむ。無事つくことを考えないと」
「わかってる。わかっては、いるんだ」
そうはいっても焦ってしまうのが人間というものだ
信号で止まり、ハンドルから離れた夜斗の手を弥生が握った
「…落ち着いた?」
「…少しは、な。ありがとう」
「…今なにか声をかけるべきじゃないと思う。だけど、焦ったら普段しないミスをする。急ぎながら安全に」
「ああ。煉河、紗奈を頼むぞ」
「任せろ」
サムズアップを見せる煉河を見て小さく笑う
不思議と心は冷静になり、震えも止まっていた
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