6. 庭掃除(千秋)

 時計を見ると十一時半。本日は凪はリモート授業ということで、隣の和室にこもって大人しく講義を受けている。あまりの静かさに、そっと襖を開けて覗いてみたが、普段見慣れないほど真剣な顔でディスプレイを見つめている。油断するとすぐ昼寝するのは相変わらずだが、さすがに授業は真面目に受けているらしい。


 そのまま気づかれないように襖を閉じて、昼食の準備でもするかと台所に向かう。フライパンに胡麻油を熱して、豚バラ薄切り肉を炒める。火が通ったら、いったん皿に取り出して、溶き卵を流し込んで緩く固まったところで豚肉を戻し、白米と粗く刻んだキムチを入れてパラパラになるように炒める。

 小鍋に湯を沸かして、中華スープの素とチンゲンサイを入れて、さっと煮る。柔らかくなったところでこちらにも溶き卵を流し入れ、菜箸でかき回す。最後に火を止めてから、水で溶いた片栗粉を流し込んで完成。


 盛り付けてちゃぶ台に並べたところで襖が開いた。

「なんかいい匂い!」

「鼻がいいな。もう授業は終わったのか?」

「はい。頭いっぱい使ったんでお腹減りました」

 子供のように腹をさすりながらそう言う顔を引き寄せて、ほんの少しだけ触れて離れる。離れた顔は、いまだに慣れないのか目が泳いでいる。

「……千秋さんて、意外と欧米ですよね」

「そうか? これくらい普通だろ」

「へー、そうなんですか」

 平坦な声に何だか微妙なニュアンスを聞きとって、改めて目を向ければ視線を逸らされる。いつになく寡黙に炒飯チャーハンをかきこむ様子に首を傾げたが、凪の視線は逸らされたままだ。


 ようやくその理由に思い当たって、思わず千秋の頬が緩む。勘はよくても察しが悪いと散々言われていたのに。

「へえ」

 ちゃぶ台に肘をついてニヤニヤ笑っていると、凪の顔が真っ赤になって、あっという間に残りの炒飯をかきこむと、スープも一気に飲み干そうとする。

っち……!」

「馬鹿、何やってんだ」

 水を差し出すと、ごくごくと飲んで、涙目で舌を出す。

「あふはつかったです」

「片栗粉でとろみをつけてあるからな。なかなか冷めないんだ。大丈夫か?」

「大丈夫です。大体そんな顔するからですよ」

「はいはい、悪かったよ。それに普通ってのはってことだ」

 熱そうに出した舌をべろりと舐めてやると、しばらく固まって、それから慌てたように身を引いて立ち上がった。

「庭掃除でもしてきます!」

「はあ? 何だ藪から棒に」

 呆気に取られてそう問いかけたが、凪は構わず食器を流しに片づけると、そのまま廊下を駆け出していく。カラカラと玄関の引き戸が開いて、また閉じた後、庭を見れば、その背中が見えたからホッと息を吐く。どこかへ飛び出していくことはまあないだろうけれど、危なっかしいと思ってしまうのは、そもそもの出会い方が特殊だったせいだろう。


 後片づけを終えて庭に出ると、凪がぼんやりと立ち竦んでいた。その背中が頼りなげに見えて、そのまま後ろから抱き竦めると、驚いたように千秋を見上げる。


「ど、どうしたんです?」

「冷えるぞ、そんな格好でいると」

「平気ですよ、結構日差しはあったかいですし」

 そう言って笑う顔は拍子抜けするほど屈託がない。

「そうなのか? 俺はまたてっきり——」

「てっきり?」

「……泣いてるのかと」

「心配性ですねえ」

 呆れたように笑いながら、向き直って顔を寄せてくる。穏やかな紺がかった瞳がまっすぐに千秋を見つめて、柔らかく笑んで深く触れる。まるで、宥めるように。

「大丈夫だって、何回言えばいいんですかね?」

「実績が足りねえな」

「一年経っても、ですか?」

「ああ」

 笑って頷くと、凪は苦笑しながら千秋の腕からするりと抜け出した。

「別にセンチメンタルになってたわけじゃなくて、ただ単に途方に暮れてたんですよ」

 そう言って指差した庭の一角に視線を移して、なるほどと、今度こそ千秋も苦笑する。


 それだけ見ればきらきらと淡い金色の穂先が揺れて美しい、ススキの群生が庭の三分の一ほどを埋め尽くしていた。


「風情がありますねえ」

「だな」

「風情どころじゃないよ、ちょっとは手入れしないとそのうち廃屋じゃないかって疑われるよ」

 気風のいい声に二人揃って振り返ると、向かいの隣人の幸代が呆れたような顔で立っていた。腕には何やら風呂敷包みを抱えている。

「さ、さちさん……! いつから見てました⁉︎」

「いつって、あんたがぼうぼうのススキを見て立ち竦んでるところからかねえ。おはぎを作ったから分けてやろうかと持ってきたんだけど、千秋が来て……」

「全部じゃないですか!」

「二人の邪魔をする気はなかったんだけどねえ」

 全く動じずニコニコして言う幸代に、凪が顔を両手でおおってあああとうめき声を上げている。幸代が呆れたように視線を向けてきたが、千秋はポケットから煙草を出して火を点け、肩を竦める。

「煙草はほどほどにするんだよ。こんなに可愛い子がいるんだから。長生きしなきゃ」

「はいはい」

「あと、庭掃除はちゃんとやっとくこと。草刈りが終わったらお茶でも入れてやるからしっかりおやり」

「え、おはぎ持ってきてくれたんじゃないんですか?」

「やることやってからだよ」

 そう言って、本当に包みを持って自宅の方に帰っていってしまった。


「……おはぎ食べたいし、やりますか」

「そうだな」


 荒れ放題の庭にややうんざりしながらも、気のいい隣人と、彼女がつくってくれるおはぎと、そんなものに凪が馴染んでいることに、どこかでホッとする自分を自覚する。

「何です?」

 薄く笑った彼の気配に気づいたのか、凪が怪訝そうに振り返る。

「いいや、意外と、積み重なっていっているもんだな、と思っただけだ」

「……そうですね」


 言わなかった言葉の裏も、さすがに読み解いて笑った顔に触れようと手を伸ばしたけれど、するりと身をかわされる。

「おはぎが先です」

「そっちかよ。授業はいいのか?」

「午後は休講になったんで」

「じゃあ、みっちりやるか」

「はい」

「ずいぶんやる気に満ちてるな?」

 つけたばかりだった煙草の火を携帯灰皿で消しながらそう言った千秋に、だって、と凪がススキに目を向けたまま、小さく呟く。

「——僕らの家、ですからね」

 ふわりと笑った顔に、また手が伸びそうになって、けれどぎりぎりで抑える。

 何しろ、興味津々といった視線を――それも一つでなく――感じたので。

「まったく、理解のあるご近所さんでありがたいな」

「ですねえ」

 二人で顔を見合わせて笑いながら、盛大に茂ったススキの草刈りを開始する。


 そんなふうにして、冬の一日は過ぎて行いった。

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