第八話 主人と衛兵
どたどた。
門番の男に比べれば何とも無様な走り姿だったが、それが彼なりの全力疾走らしい。たかが通りを一つ渡るだけで、その額にはうっすらと汗が浮いていた。その汗を首にかけた布切れでちまちまと拭きながら、店主の男は相好を崩して言った。
「何だか悪かったな。お言葉に甘えるとしよう」
そして、分厚い右手を銀次郎に差し出す。
「俺はあそこで食堂をやってるゴードン=リーってモンだ。自慢じゃねえが、他所様に味じゃ負けたこたあねえ。そのうち、ウチにも顔を出すといい。たっぷり腕を振るってやるぞ!」
「ああ、そりゃ楽しみだ」
銀次郎はその手をがっちりと握り返しながら、悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて店主の腹のあたりを、ちょいちょい、と指さしてこう付け加えた。
「そんな大層ご立派な腹してるんだものな、美味い飯が喰えそうってのは間違いねえだろう」
そのやりとりを傍から見ていた門番の男は、伝法な銀次郎の冷やかしに、思わず、ぎょっ、と肩を聳やかしたが、
「はっは! 面白い爺さんだ! 実にいい!」
ゴードンが腹を揺らして笑ったのを見て、ほっ、と胸を撫で下ろしている。
それを
「この気の小さい若造の名はスミルだ。これでも、この街を守る門番の一人でな? 一応、城お抱えの兵士ってことになってる」
「城?」
これでも? 一応? とぶつぶつ
「ほら、あそこに尖塔が二つ、見えるだろ?」
ゴードンに言われるまで気付きもしなかったが、確かに家々の遠く向こうの風景の中に、にょきりと突き出た堅牢そうな石造りの塔が二つ見える。
「何だ。知らんかったのか。どうりであんたもこの店にも見覚えがない訳だ。どっから来たね?」
「そいつは中で話すとしよう。ささ、入ってくれ」
その問いに曖昧な微笑みで応じた銀次郎はそのままカウンターの奥に引っ込み、早速支度を始める。一方の二人の男たちはきょろきょろと店内のあちらこちらを見渡しながら、しきりに感心したような吐息を漏らしていた。
「何だか……不思議な店だね?」
「いやいや。実にいい。いいに決まってる!」
不安げな表情を隠そうともしないスミルが囁くと、ゴードンは神妙な顔で満足気に
「見ろ! 清潔な店内に整然とした戸棚。床には
「そんなもんですかね」
「何? 俺の見立てを疑うってのか、スミル!!」
「おいおい、喧嘩は後だ。いいから座んな」
恐らくこの二人は始終こんな調子なのだろうとは思ったものの、一向に席につこうとしないのに痺れを切らし、そう声をかける。意外なほどあっさりと二人がカウンターの椅子に腰かけたところに、すっ、と二つの不揃いのカップを置いてやった。
「こ……こりゃ何です?」
一方、ゴードンは一つ唸ったきり黙っている。
「珈琲だ。そいつがウチの自慢の味だよ。さ、遠慮せずにやってくれ」
努めて素っ気なく言い捨てると、銀次郎はカウンターの奥で腕組みをして待つことにした。
「見たことないね?」
「……真っ黒だな」
シーノの時もそうだったが、やはりこの『ぐれいるふぉーく』には珈琲と言う飲み物自体が存在していないらしい。目の前の二人の反応を見れば嫌でもそれが分かった。門番のスミルの方はさておいても、食堂の店主だと名乗ったゴードンも初めて目にする物らしく、用心しているのかなかなか手をつけようとしない。
と――。
ぐい!
「あ! ち、ちょっと!」
スミルが慌てふためく中、ゴードンは目の前に置かれたカップを取り上げると、一気に口の中に流し込んだ。
「ど、どうです?」
ゴードンの最初の答えは、低い唸り声だった。
それから、ぱあっ、と満面の笑みを浮かべた。
「実に、いい」
ぐい。
もう一口。
「うむ。これは美味い! ええと……『こーひー』と言ったかね? 気に入った! 気に入ったよ!」
「そいつは良かった。どれ、もう一杯どうだね?」
銀次郎も厳めしい顔を崩して、釣られたように笑顔になる。
だが、少し心配そうな表情も浮かべた。
「今度はゆっくり味わってくれ。いきなりあおって火傷はせんかったのかね?」
「なあに、心配には及ばんさ」
銀次郎が差し出したコーヒーサーバーを迎えるようにカップを差し出しつつ、ゴードンは声をあげて笑い飛ばした。
「さっきも言ったろう? 俺は食堂の店主だ。これくらいで焦がすような腑抜けた舌は持ってねえのさ」
そのままカップを口元へと運ぼうとして――まだ迷っている様子の隣の門番を肘で小突く真似をする。
「おい、スミル! お前も飲め! その寝惚けた頭がしゃっきりすること請け合いだ!」
「寝惚けたって……」
ぶつぶつと溢した途端横から睨み付けられたスミルは、慌ててカップをこわごわと持ち上げた。
「ああ、はいはい、飲みます飲みますって」
ふーっ。ふーっ。
くぴ。
「――!?」
本当に寝惚けていたのかもしれない。そう銀次郎が思ってしまったくらい、珈琲を口にした直後、スミルのひょろ長い顔付きが一転
「お、おい……スミル?」
いつも見慣れている筈のゴードンですら、今起きた変化は驚愕すべきものだったらしい。恐る恐る尋ねるのだが、スミルは今口をつけたばかりのカップを見つめたきり動こうとしなかった。
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