22話 「あとで、一口」

 今夜は温泉同好会と平梓葉の為に個室の食堂が押さえられている。

 利玖は早めに部屋を出て、ぶらぶらと館内を遠回りして歩きながら食堂に向かった。


 鶴真は「虫」という言葉を使っていたが、彼らは姿形も昆虫に似ているのだろうか。それとも、花に惹かれて集まってくる不定形のもうりょう十把じっぱひとからげに「虫」と総称しているのだろうか。

 出来れば後者であってほしいものである。

 実体を持たない幻ならまだしも、さなぎへの変態を間近に控えてはちきれんばかりの食欲を持て余したイモムシが、団子状になって目の前に押し寄せてきたりしたら……。

 想像しただけで、ぎゅんっと音を立てて食欲が何割か失せた気がした。



 食堂前に着くと、すでに坂城清史と廣岡充の姿があった。扉は開いているのに二人とも入り口の手前で待っている。

 時計を確かめると、もう集合時刻の五分前になっていた。一番乗りで到着するつもりで部屋を出たのに、儀式の事で気の進まない想像をあれこれと巡らしているうちに、いつの間にか歩みまでのろくなっていたらしい。

 遅れた事を詫びながら利玖が駆け寄ると、清史は微笑んで首を振った。

「大丈夫。今着いた所だよ」そう言って、首をひねって背後を覗き込む。「平さんはまだ来ていないけど、僕らだけでも先に入ろうか」

 清史に続いて、充と利玖も食堂に入っていくと、ワゴンからテーブルに料理の皿を移していた能見正二郎がぱっと笑顔を向けて席に案内してくれた。

 夕食は伝統的な日本料理だが、食堂の内装は西洋風だ。真っ白なクロスが引かれた長方形のテーブルに、クッション付きのダイニング・チェアが収まっている。使い込まれたシルバーの骨組みと、爽やかなミント・グリーンの布張りの調和が取れていて美しい。うすうちだけで泊まり込みのフィールドワークを終えて下山する時、途中で渡った吊り橋の下を、こんな風に透きとおった翠色の川が流れていたのを利玖は思い出した。もしも、春の名残を残した薫風を目に見えるかたちにして残そうとしたら、こんな風になるのだろうか。

 温泉同好会の席は、上座から順に清史、充、利玖が横並びで、テーブルを挟んで向かい側にはさらにもう一人分の席が用意されている。おそらく梓葉の為のものだろう。

「廣岡さんは味噌鍋ですか?」

 席に着くなり、利玖は隣の充に訊ねた。

 夕食は、主菜が二通り用意されていて、鶏の山椒焼きか牛肉の味噌鍋か、どちらか好きな方を選べるようになっている。

 充は無言で頷いた。

「そうですか」利玖は嘆息する。「わたしは山椒焼きにしましたが、味噌鍋も美味しそうですよねえ……」

 彼女は山椒の風味が好きだが、体が芯から温まる鍋料理も大好きだ。夕食前にこの二択を迫られた時には、本当に悩んだ。

「あとで、一口」

「え?」

「僕もそっちの味が気になる。両方の記事が書きたいって言えば、能見さんも皿を分けてくれると思う」

 つまり、選ばなかった方のメニューが気になっているのは充も同じで、自分で味わった体験をもとに記事を書き起こしたいのだと言えば能見も嫌な顔はしないだろうから、それぞれの主菜が運ばれて来たら一口ずつ皿に取り分けて交換しよう、と提案されているのだと利玖が理解した時、ちょうど梓葉が入り口をくぐって食堂に入ってきた。

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