鬼人至る処青山を築く

 ふと鼻先をかすめた薫香に、天雄ティエンシオンは眼を細める。

 花が見頃を迎えている証だ。ひいては愛する妹が、花園にわを一望できる窓辺で瑶琴ことを弾いているだろう。

 案の定、門を越えると風の中に柔らかな音色が混じっていた。


 心を蕩けさせる甘い韻律と幽かな歌声。若き武人は愛馬の上から、その音の主へと手を振った。


ジン

「……哥哥にいさま!」


 風にひらりと翻る、兄妹で揃いの亜麻色の髪。

 そこに花を挿したらさぞ似合うだろうと思い、天雄は手近な枝を手折る。濃い桃色の花がふっくら開いて愛らしいそれを手に、馬を降りて中に入ると、ぱたぱた忙しない沓音くつおとが近づいてきた。


 あの大人しい子がはしゃいでいるのは珍しいが、妹も花の香にやられたのだろうか。

 口端に浮かんだ笑みを隠しもせず、上着を脱ぐのもそこそこに、駆け寄ってきた菫を抱き寄せる。


 頬を擦り合わせるのは昔からの癖だ。

 菫は幼いころ虚弱だったので、寒い夜には兄は一晩じゅう妹を腕に抱き、その身体を温めてやっていた。月明りに照らされた庭木の影をなぞりながら、詩歌を詠んだものだった。

 あれからもう何十年と経つが、兄妹の情は少しも変わっていない。


「お帰りなさいませ」

「機嫌がいいな。何か好いことでもあったか?」

「ええ、哥哥がご無事でお戻りになられるのは、菫にとって何よりも好いことです。それとも……どこかにお怪我を隠しておいでではありませんね?」

「もちろんだとも」


 これまで天雄が派手に負傷したのは一度だけ、それだって何年も前の話なのだが、菫は些か心配性だ。代々武官を輩出してきた家の娘にしては気性が優しすぎるが、きっと病弱を理由に武芸を習わせなかったためだろう。

 天雄は宥めるように妹の髪を掬い上げると、花枝に巻き付け、蓮灰色の角の横に差し込んだ。


「まあ。綺麗……」

「よく似合う。ところで菫よ、そろそろ生日たんじょうびだろう」

「はい。……あら、それでは、これはその贈り物ですか?」

「まさか、そこまでわたしは朴念仁ではないつもりだぞ。だが何が良いかもわからない。だから直に聞こうと思ったんだ、おまえの欲しい物を」

「……何も。哥哥さえ居てくだされば、小女子わたくしは幸せです」


 そう言って菫は天雄の胸に顔を埋めた。挿してやった枝が襟元に擦れて、取れた花弁がひらひらと床に舞い落ちる。

 甘い匂いがした。花のそれではない。妹の髪や衣から、妙香が漂っていた。

 同年の男に比べてその手のことに鈍いと言われる天雄も、それが家族を出迎えるための薫りではないことくらいは、理解できる。


 優しく名を呼べば、が上気した顔でこちらを見た。自分と同じ、柘榴の色をした瞳を潤ませている恋人に、天雄はそっと唇を落とす。

 腰と頭のうしろに手を添えて、ゆっくりと鮮藍色るりいろの花を食んだ。

 首筋に絡みつくようにして接吻に応えた妹は、そのまま天雄の肩口に顔を寄せる。


「哥哥……。実を申しますと、本当は一つ……でも、難しいことですし、そもそも生日にねだるものでは」

「構うものか。言ってみなさい」

「その、……」


 青い頬を鳳仙紫むらさきに染めながら、菫はつま先立ちになり、兄の耳元にそっと息を吹き込むように囁いた。

 ――哥哥にいさまの子が、欲しいのです……。



 鬼人は数が少ない。貴族ともなれば尚更に。その色と血とを守り継ぐため、兄妹で契りを結ぶことはごく当たり前に行われる。

 ただ、どれほど愛し合ったとしても、夫婦にはなれない。

 菫はどんな想いで兄を慕うのだろうか。決して妻にはなれないと知りながら、あるいは時世によっては他人に嫁がされることにもなるだろう身を、何を思って兄に差し出すのだろうか。


 天雄には女人の心など、たとえ血の繋がった妹のそれとしても計りえない。ただ菫の望みをいじらしいと思った。彼女に己の子を産んでほしいのは兄も同じ、ともすれば、妹以上に強く願っていたほどだ。

 いつか別の女を娶っても、きっと菫ほどには愛せない。


 肌の上で互いの汗を混ぜ合わせる。菫の華奢な身体で、屈強な武人の昂った熱を受け入れるのは、容易いことではなかったろう。妹の嬌声はほとんど悲鳴に近かった。

 それでも彼女は兄にすがる手を離さなかった。白い爪が何度も天雄の背を、琴でも爪弾くようにして裂く。

 歌と言うには甘く潰れた声。夜闇には刃のように尖った月が浮かび、もうそれを眺める余裕もない兄妹を、今度はあちらが黙したまま見下ろしている。


「あ……、に、さッ……にぃ、さまぁ……ッ」


 鬼人はどうしてもえにくい。宿願が叶うのはいつになるかわからないが、まじないに頼ってそれを早めたりはしなかった。

 それは妻となる女の義務で、あくまで妹でしかない菫には、責を負う資格すら与えてやれない。


 幾夜も交わった。子が生されるまで続けるつもりだった。

 互いに望むのであれば、たとえ結実を得たあとも、この関係は続いたろう。たとえ兄妹であっても。

 いや。そもそも兄妹でなければ――きっと、愛し合うこともなかったのではないかと、思えてならない。


 菫を愛していた。天雄は奥手であったから、彼女が血を分けた妹であればこそ、臆さず想いを注ぐことができたのだろう。

 幼い日の寒月夜に妹を温めるのと、春暁の焦げ付くような情交は、彼の中では地続きだった。



 ――熱した鉄のような激しい至福の時は、ある日突然に終わった。



 菫はときどき自然の美しいところに出かけて、詩歌を作る。

 いつも侍女を三人ほど連れていくだけで護衛はいない。そんなものが必要になったことなど今までなかった。

 この一帯は総て天雄らウー家の所有で、その令嬢に手出しをするような愚か者など住んではいないからだ。


 けれどその日は違った。

 おかしな色の燻りが風に乗って、すみれ色の空を無体に汚していた。


 天雄の元に届いたのはただの炭の粉である。最初は何だかわからなかった。

 黒炭を盛った陶器のさらを挟み、衣を血に染めて跪く一人の侍女と、支え合うように膝を衝いている両親とが、声の限り泣いていた。

 ただ一人の生き残りとなった女が、涙の間に途切れ途切れに語ったところでは、――菫は人間に殺されたのだという。


 下手人は蘭氏らんしという、まじないを生業にしている者たちだろう。その存在は天雄も知っていた。

 鬼人と異なり、人間は生まれつき妖力を持たない。ゆえに鬼人の角を奪い、それを生薬として服用することで、一時的に力を得るという。


 侮っていた。これまで烏家の所領にそういう輩が姿を見せたことはなかったし、奴らが襲うのは専ら僻地に住む淡色下位の鬼だからだ。

 ただし鬼国全体で見れば例外がなかったわけでもない。濃色上位の鬼の角のほうが効力に優れ、また得難いというので、珍重されて高値で取引されるからだ。

 侍女ばかりを連れた貴族の娘は、彼らにとっては恰好の獲物だったに違いない。


 ――許さぬ。


 角は鬼人の命。

 それを砕かれる苦しみは、到底言葉で言い表せるものではないという。


 妹は歌と音楽を愛し、花と緑の似合う、美しい娘だった。天雄にとっては唯一無二の愛する女だった。

 誰かを傷つけたことなどない、虫一匹すら殺さぬような、穏やかで優しい子だった。


 人間どもはそんな菫を殺したのだ。獣を狩るのと同じように、責め苛んで追い立てた。

 筆舌に尽くしがたい苦痛の中であの子を無残に嬲った。

 あまつさえ、生きたまま身体を焼いたのだ。こんな炭の塊になるまで!


 吼えるような慟哭は、兄妹の肌色に似た蒼穹を揺らがした。


 顎が砕けんばかりに歯を食いしばり、血を流しそうな眼で黒炭の盤を見つめながら、天雄は誓った。妹の仇をとることを。

 蘭氏どもを皆殺しにしてやる。この手で微塵に切り裂いてくれる。

 そして薄汚い骸は、奴らが菫にしたのと同じように、一欠片の骨も残らぬように燃やしてやる。



 ……あれから、何年経ったろう。

 誓いどおり何人もの蘭氏を屠ってきた。武功が認められて今では鬼帝玄陽の右腕、ゆえに何度も見合いや婚約の話があったが、総て断っている。

 菫よりも尊い女など、天雄にとって存在しえない。この先も永遠に。


「貴様、その見苦しき風体、蘭氏であろう――」


 蒼い鬼人の棍棒が唸る。膨れた先端さきで愚か者の頭蓋を砕き、生臭いものをまき散らせては、物言わぬ肉塊と化した亡骸をなますに刻む。

 慈悲はない。容赦もない。彼らが菫にそうしたように。


 呪符を落として踏みつける。全霊の怒りを以て、地の底へ届くようにと踏み躙る。

 この憎悪が、そこに立ち上る炎だけが、あの子への手向け。どうか地獄へ届いてほしい。きっと美しい詩を添えてくれることだろう。

 いつかは天雄もそこへ降りて、あの柔らかな瑶琴ことの音を再び聴こう。それまではこの火を絶やしてはならぬ。



 風が黒煙を巻き上げる。鬼が立ち去った後は、何の形も留めてはおらぬ灰と炭だけが残り、少しずつ吹き崩されていった。

 その光景は、地平の彼方まで続いている。

 地を埋め尽くす怨嗟の塚。墓標も供える花も、弔う者もないまま増え続ける、野ざらしの青山はか――。



・** 鬼人到処築青山 **・



古筝の音に思い出す

 情人こいびとの待つ温しいえ

詩歌の声に想い佗ぶ

 の女に似る焦げた蒼天そら


幽愁暗恨の募るに任せ

 築いた憤墓は数えること能わず

花の代わりに哀嘆を捧げ

 絶えし宿望のぞみの弔香ばかり燻る



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花鬼蝕 -融国関連短編集- 空烏 有架(カラクロアリカ) @nonentity

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