第14話

その頃になると長安でも異変が起き、劉弁や袁紹らが逃げ去り、丁原軍の残党も姿を消していった。

おそらく丁原軍と共に長安に向かったと思われる。

これで天下の三分の二を掌握したと言って良いが、それは逆に言えば残った三分一の勢力と、これから戦わなければならないと言う事である。西涼軍は李儒が掌握したとは言え、未だ曹操の勢力が健在であり、荊州軍はまだ動きを見せていない。

そして東平府にいる丁原の軍も健在で、しかもその中には華雄がいる。

さらに、天下人と言われる三人の王允、司徒王佐の二人はまだ姿を見せておらず、黄巾党の乱において大活躍した許攸、郭奉孝、蔡沢、荀爽、徐質、韓胤なども所在不明である。

これらに対して呂布、高遠の連合軍だけで対処出来るかどうか、不安はある。

が、呂布が恐れているのはそんな些細な事ではない。むしろ、高遠の方が怖かった。


今の高遠が何を考えているのか、全く分からない。呂布を救ってくれた事も、娘との関係を改善してくれた事も、呂布には感謝しても仕切れないほどの恩義があり、高遠の為に命を投げ出すつもりでも呂布は迷い無く行動出来た。

ただ、あの華雄だけはダメだった。

これまで高遠には幾度も助けられてきた。華雄についても高遠から聞いていた為、呂布も華雄に対する警戒感はあったのだが、実際に会ってみると、とても父である高遠と似ていなかった。外見的なものではなく、その中身である。

華雄は、父親である高遠の事が嫌いであると公言し、父から教えられた武芸は自分から拒絶して、高遠の知らないうちに勝手に独自の剣技を身につけ、それが父の言うところの邪道だとまで言っていた。

また、父と違って高遠は女を戦場に連れて歩く軟弱者だと言うので、高遠の娘である呂布にも冷たい目線しか向けて来ない様な人物だった。

華雄も華雄なりに色々と考えている事は分かったのだが、それでも華雄に呂布を守る事が出来るとは思えなかった。華雄では守り切れない事が分かりきっていると言うのに、華雄はその役目を全て自分に任せてくれと言い出した。華雄の実力では、確かに無理かも知れない。しかし、それでも華雄一人に背負わせる訳にはいかない。高遠は娘の事を本当に愛しているし、大切に育てて来たのだから。それは娘を守る為に自らの死を選んだ高遠の行動を見れば分かる。

その思いは、娘の華雄も同じはずだと思っていたのだが、現実は違ったらしい。その華雄が、今、目の前に現れた。

華雄は相変わらず呂布に対し冷たく接してきたが、その態度を不快に思う事はなかった。

それよりも、この出会いが高遠との再会の機会になると呂布は考えていた。もし、呂布の願い通りに高遠に会う事が出来るのであれば、高遠がどんなに変わっていても構わない。いや、変わっている事は当然で、むしろ今まで高遠が自分の側にいて、何くれとなく面倒を見てくれていた事に驚きすら覚えているくらいである。

それに呂布はもう知っている。高遠は変わっていない。見た目が変わっただけの事なのだ。それさえ元に戻れば以前と同じ高遠が戻ってくるはずなのだ。

その為なら自分は何でもしよう。そう呂布は思っていた。

高遠と華雄が合流した後、董卓軍と決戦に及ぶ。

数においては劣るものの、その戦力差を埋めるだけの軍勢が董卓軍には無く、しかも高遠の指揮により董卓軍は次々と撃破されていった。

そんな中、高遠の娘の武勲も目立つもので、張遼と並び董卓軍の猛将である李粛を討ち取ったと言う噂まで聞こえてくる。

「……呂布将軍?」

戦況を見つめていた呂布に、声をかける武将がいた。

高遠の娘の呂布への呼び名は、そのまま『呂布』になったらしい。

もっとも呂布自身も自分が改名した自覚は薄いので、そう言われても仕方がないと諦めるしかなかった。

高遠は呂布に華雄を紹介した時、『お前の子じゃないのか?』と訊ねたが、もちろんそれは冗談であり、華雄もまたその質問に対して怒りを見せていた程である。

それとは別に高遠も娘から聞いたらしく、呂布には興味を持っていた。

ただ、それはあくまでも純粋なものに過ぎず下心の様なものは皆無であり、ただ単に武勇を好むと言うだけで、それも孫がどうこうと言う話ではない。

ちなみに呂布の子供と言うのは高遠にとって禁句なので口に出さぬ様にと、娘に注意された事もある。

だが、それとは別の意味で呂布と高遠は似た境遇にあり、高遠にしてみれば同じ状況で戦ってきた同士として親近感を抱く存在だった。

そんな事もあってか、戦いが終わった後も高遠は呂布に対して好意的に接し、何かと便宜を図ってくれる様になる。

そして呂布も、そんな高遠の親切心に甘えるだけでなく、高遠の望みに応える事にした。

高遠が欲したのは、西涼兵。

呂布の率いていた漢軍の兵士はほとんどが徐州出身だったが、曹操が侵攻した際、ほとんどの兵士が逃げ去り今ではほとんど残っていない。特に新参者ほど多く逃げた事もあり、古参と言える呂布の部隊でも半分程度の人数しかいないのだ。

これは単純に徴兵するのが難しいと言う問題もあったが、最大の理由は曹操との戦いの際、新参の兵が次々に裏切った為である。

それは西涼の風土柄とも言えるのかもしれない。西涼の兵達は戦う理由を持たない者が殆どだった。呂布のいる部隊はその中でも例外的に忠誠心の強い者たちが集まったのであって、西涼兵の全てが強い忠誠心を持っている訳ではないのだ。

しかし西涼兵を補充しなければ曹操軍と戦う事も出来ないのは確かであり、その為にはどうしても曹操軍から略奪を行わなければならなかったのだが、そこで高遠が申し出たのが、捕虜にした西涼の将兵の引き渡しだった。

降伏した敵とは言え、高遠にはその価値が分からなかった。

高遠が欲しいのは、呂布と共に戦場を駆けた勇将であり、それ以外には何の価値もないと考えているからである。

しかし呂布としては違う。呂布も高遠同様、投降兵は助命し解放してやりたいと考えていた。

呂布の考えを察してくれた高遠は、西涼軍を自分の元に引き渡すと約束してくれ、その見返りが、華雄だった。

呂布は華雄を、高遠に差し出したのである。

高遠はこの申し出に乗り気ではあったが、華雄本人がこの話を了承する事はなく、最終的には武力衝突にまで発展する事になった。

結果として華雄は呂布の部隊に討ち取られ、それを確認してから高遠は改めて華雄を呂布に渡し、呂布は華雄を部下とした。

華雄は最後まで呂布に対し良い感情を抱いていなかったらしいが、それでも呂布の命令に従う事は拒まなかったので、華雄は高遠に言われた通り呂布の部下となった事になる。これで当面、華雄に対する心配事はなくなったのであるが、華雄の存在はこれから先の大きな悩みとなりそうな気がしていた。

高遠は、変わった。少なくとも呂布にはそう見える。

華雄は呂布の見立てでは、相当な剣の腕の持ち主である事は間違いないのだが、やはり父親に比べるとまだまだ未熟で経験も浅い。華雄の剣の腕前は呂布も認めるところなのだが、それは高遠には及ばないものだった。

それでも華雄は高遠の元で鍛えられる事となったのだが、その訓練は想像を絶するものらしい。

これまで呂布は何度か高遠の元に遊びに行った事があるのだが、その時は特別に厳しく感じたりはしなかったのだが、それが甘い見方であった事を思い知らされた。華雄は毎日の様に泣き叫びながら高遠から逃げ出し、捕まっては連れ戻されを繰り返しているそうだ。

華雄にとっては高遠は絶対で、それに逆らう事は考えられないらしく、必死になって高遠のしごきに堪えていたと言う。

それはまるでかつての自分を見るようで、呂布自身も辛かった。だが、それは仕方のない事である。

高遠の指導法が正しいか間違っているかなど、呂布にも分からない。高遠の言う事が分かるとすれば、それこそ華雄本人だけである。

ただ一つだけはっきりしている事は、あの高遠ですら手を焼く様な猛特訓を乗り越えなければ、高遠を超える実力を身に付ける事は無いと言う事だ。

董卓軍はその後、長安を放棄して許昌へと戻った。

張遼の進言による行動であったが、それに異を唱える者はいない。李儒や賈駆にしても、高遠との戦いの後処理を考えれば今更城に戻って防衛をするよりも、少しでも兵達を休ませて次の攻撃に備えるべきだと考えるのは自然な流れだった。

しかし問題は、それを指揮する者がいないと言う点にある。

呂布と陳宮は軍師としての任を解かれたが、高遠の討伐で手柄を立てた事もあり二人は正式に官職を与えられる事になり、その為の人事や引き継ぎ作業を行う必要があり、また董卓自身が李儒と賈駆から受けた報告を元に最終的な判断を下さなければならない。

そんなこんなで二人の天下無双は、未だに忙しく働いているのである。

「奉先、少しいいかな?」

ある日、そんな呂布の元へやって来たのは曹操だった。

かつて反曹操の動きを見せたものの、今は和解しており親しい友人となっている。

ただ、その付き合い方は多少なりとも変化があった。

以前であれば頻繁に互いの家を行き来する仲だったのだが、ここ最近で曹操は呂布の館へ訪れる事は無くなっていた。呂布としても仕事に追われていて暇が無い事もあったが、何より曹操が袁紹の屋敷に入り浸っていると聞いていたので、こちらから出向かない様にしたのである。

その曹操が突然現れた事に、呂布は何となく警戒する。別に何か企んでいるとか、そういう事ではないと思う。

ただ、以前の曹操とはどこか変わってきた様に感じるのだ。

その一番の違いとして上げられるのは女性関係なのだろうが、曹操の女性関係の奔放さは有名だったので、呂布としては驚くほどのものではない。

むしろ驚かされたのは、曹操の後ろに控える人物だった。男物の官服に身を包んだ曹操とは違い、女性の装いをしているにも関わらず男の印象を受ける美女である。ただ曹操の様な妖艶さとは無縁で、凛々しい美しさを持っていると言った方が分かりやすいかもしれない。

その美貌もさることながら、曹操と同じく堂々とした振る舞いのせいもあって存在感が強い。

その女性は、呂布に向かって頭を下げる。

呂布も知らない人間ではなかった。呂布は曹操との交友関係が深い為、曹操軍の将帥についても一通りの知識はある。その中でも有名なのが、この荀イク、程イク姉妹だった。

曹操が男性だった場合、あるいは曹操軍の武将達がもっと女性に近ければ、おそらく曹操軍の軍師達は曹操の妻になっただろうとまで言われている名将であり軍略家の才女である。

そして何と言っても目を引くのはその服装だった。本来女性が身につけるべき衣装を身に纏ってはいるが、その胸元ははち切れんばかりに主張されていて明らかに不自然だし、下半身は脚線美を強調するように腰に布を巻き付けているが丈が極端に短く見えてしまっている。何が言いたいのかと言えば、かなり際どい恰好をしていた。

ただ、その格好を全く気にかける様子もなく毅然と立っている姿は、見る者を圧倒せずにはいられないものがあった。

ただそれだけ目立つと言う事は、当然人目を惹くと言う事でもある。呂布は慌てて席を勧めると、まずはお茶を出す。

「あぁ、お構いなさらなくて結構ですよ」

相変わらずの上から口調だが、そう言われる事で呂布は余計に気を遣ってしまう。

そもそも呂布には、この姉妹がどんな意図を持ってやって来たのかさっぱり分からなかった。

これまでなら呂布の武勇を聞きつけて会いに来たと言う事だったが、今の呂布は戦場に立つ事も出来ない身だ。

もちろん客人を迎え入れるには問題無い程度の歓迎はするが、それ以上は何も用意出来ていない。

呂布もかつては名門と言われる生まれではあったが、すでに呂布には妻も子もいる。この二人がそれを知らず呂布に会いに来ているとは思えない。だとすると、目的は呂布の子か? しかし、呂布には娘が二人しかいないはずだ。となると息子か? それはそれで呂布が想像していたものと違う。

呂布の息子はまだ幼児なので来られる訳がないのだが、それでも誰か一人くらい来ても良いのではと思ったりする。

呂布は、ちらりと陳宮の方を見る。

陳宮もこの姉妹と面識がある。

陳宮は陳宮で、彼女達に良い感情を持っていない様に見える。それはどちらかと言うと敵視しているといった感じなのだが、それもある意味当然と言えた。元々陳宮はこの二人に対して良いイメージを持っていたはずもないのだが、董卓の死後に袁紹の元へ身を寄せていた時期がありその時にいろいろあったらしい。

その辺の話は、以前に董卓に聞かせてもらった事があった。その時の事を思い出してみると、確かにあの時陳宮と会ったのは曹操ではなく袁紹だった気がする。その時の事が影響しているのだろうか。どちらにせよ、この状況において最も頼れる人物は、この陳宮を置いて他にいないのだから、頼りにするしかない。

呂布が視線を送ると、すぐにそれに応えてくれる。

「……ま、曹操殿の誘いであれば、仕方あるまい。だが曹操殿よ、私の屋敷へ招いたと言う事は他の者に言わぬ様にな」

まるで秘密にしておかなければならない様な口ぶりだが、別に隠していたわけではない。

わざわざ言う必要も無いだろうと思って言っていなかっただけだし、実際言って困る事は無いのだと思う。それに今となっては曹操だけでなく他の諸侯や兵卒達にまで噂は広がっているので今更感はあるが、それについて特に何かを言うつもりは無かった。

それに陳宮の言う通り、陳宮の屋敷で話していい様な内容でもない。

とりあえず三人とも曹操の部屋へ向かう。

その途中でも、陳宮は常に周囲を警戒するように神経質になっている。

やはり曹操の態度にも変化が見られた。

以前はいつも余裕があって隙を見せない人物だったのだが、今日はどこか覇気に欠けている。何か悩み事を抱えているとか落ち込んでいるという風ではないが、以前と比べて覇気が無い。

以前の曹操はとにかく自信に満ち溢れていて他者を寄せ付けなかったが、それが今ではどう見ても弱々しく見える。

これに関しては董卓も心配していたが、董卓も自分の体調よりも優先される仕事が多いらしく、今は多忙を極めている。

以前なら曹操の方が忙しい立場にあったにも関わらず、である。董卓がどれだけ曹操を信用しているのかが分かるが、そんな信頼されている曹操の不調に呂布も不安を感じずにはいられなかった。

曹操の部屋に着き、中へ入ると呂布は曹操と荀イクと程イクの三人を卓の前に座らせる。

さすがに陳宮もその頃には落ち着いていた。

呂布は曹操に椅子を勧め、自らも席に着く。

「奉先、単刀直入に聞こう。曹操軍は近いうちに挙兵する」

「……は?」

開口一番、曹操の言葉はあまりに予想外過ぎて、呂布はすぐに理解出来なかった。

その呂布の表情を見て、曹操はため息をつく。

「そんなに意外かね」

「い、いや、突然の事で驚いています」さっきまで覇気が無かったと思っていたのが嘘の様に、曹操は厳しい目つきをしている。

しかし、曹操にここまでハッキリと言われてしまうと、もはや疑う余地もなかった。

「私はこのところ袁紹の屋敷に入り浸っている。その理由を知っているかい?」

その問いに対し、曹操の後ろに控える荀イクが一歩前に出る。

「我が妹ながら不甲斐なく、恥ずべき行為である事は承知しておりますが、ご寛恕頂きたくお願い申し上げ…………」

そう言いかけて、いきなり平伏してしまう。

荀イクの隣に座っている程イクも同様に土下座の体勢を取っていた。おそらくこれが曹操軍の軍礼作法なんだろうと呂布が考えていると、陳宮が小さく呟く。「軍師とは思えぬ低俗な輩だ。こんな奴らがこの国で軍師を名乗っているなど恥ずかしくてたまらんわ。貴様の様な小物を相手にしている暇はないという事を、早く察してほしいものだ」

「ちょっと待って下さい、陳宮殿」

呂布は慌てて割って入る。

呂布は軍師には詳しくないが、それでも呂布なりの知識はある。少なくとも曹操の客人を侮辱するような発言をさせるわけにはいかない。

「お言葉ですけど、陳宮公台殿は軍師の常識にとらわれ過ぎてらっしゃる。むしろこの二人は、その道の玄人としての自負から発言しただけです。決して曹操殿を見下げての事ではありません。そもそも軍議の場での会話は、将軍と将軍の腹心とで行うものでしょう。それとも陳宮様には将の代わりも務められるほどの能力がおありですか? 呂布将軍は曹操軍と懇意にしている間柄とは言え、客人の扱い方としては失礼かと思いますが」

そこまで言われると、さすがの陳宮も返す言葉がなくなる。

元々あまり他人に興味の無い性分なのか、陳宮と親しいのは高順や張遼くらいのものである。しかも二人に対してはそれなりに礼儀を払っているし、特に陳宮に対してだけ粗雑な態度を取る事も無い。呂布に対しても一応敬語を使ってはいるものの、基本的には上から見下ろす様な喋り方をするので親しみにくい印象があるのだが、その程度の事だ。

だから陳宮としても呂布以外の相手からは、それなりの対応を取っているのだ。

ただそれはそれでまた面倒な性格なので、陳宮の方でも親しくしようとはしていないのかもしれない。

陳宮は何も言わなかったが、明らかに不満げな顔をしながら腕を組んで目を閉じてしまったので、それ以上反論するつもりはないらしい。

それを確認すると、曹操が話を続ける。

袁紹との不仲説と言う話は聞いてはいたが、こうして実際に見るとより説得力がある。陳宮の言う通り、陳珪の娘であるこの姉妹にとって袁紹は敵なのだが、それを曹操の方から露骨に見せ付ける事は無い。

曹操の器量があればもっと巧妙に立ち回れただろうし、袁紹にそれを求める事は難しいだろう。

それを踏まえても、曹操は袁紹に敵対する事を明確に表明してきたと言う事になる。

「実は、袁紹殿のところからは去年の末頃に書状が届いた。そこには曹操軍が袁術討伐の動きを見せていて、それに備えよとあった」

曹操は淡々と、しかし重々しい口調で語る。

その内容に、呂布も陳宮も驚きを隠せない。

袁家といえば中華最大の勢力を誇る大豪族である。

だが、呂布の感覚では、どちらかと言えば袁紹の方が野心家で、曹操はそれに反発して袁紹と仲違いしたのではなかっただろうか。

もちろん、それが全てではないのだが、そのせいで袁紹を打倒して自らが天下人になろうとする曹操の行動原理も分からない事もない。

しかし、その袁家を袁紹にかわって攻め滅ぼそうとは、いかに曹操と言えども簡単に出来る事でも無いはずだ。もし本当に曹操が挙兵するのであれば、それは間違いなく天下にその名を轟かせる偉業であり、漢王朝にとっては悪夢の始まりとなる。

だが、曹操はそこで首を横に振る。

「私が動く事はあり得ない。何故なら、私は袁紹殿を好ましく思っているからだ。私は私自身の才幹によって今の境遇にあるが、袁紹殿の力量は本物だし人格者でもある。私はあの方の理想を実現する為に全力を尽くしたいと思っている。その私が、何の関係も無く袁紹軍を攻めるはずがない」

確かにそうだ。

いくら何でも、袁紹に対する曹操の信頼が厚すぎる。

こればかりは曹操が本気でそう言っている事は間違いない。でなければここまで堂々と言い切る事も出来ないはずである。

だとすると、この情報は何を意味するのか。考えられる事は二つある。

一つは曹操自身が気付いていない可能性。

もう一つは、袁紹側の密偵による謀略の可能性がある。

どちらにせよ確かな事は、曹操軍の兵が動き出している以上、何かしらの意図があって曹操軍に近づいたという証拠になる。

そうなるとやはり、袁紹軍の中で何らかの政変が起きたと見るべきだった。

あるいは曹操の離反を恐れての策とも考えられる。曹操が動けばそれに呼応する形で袁紹は動くしかないが、それを許すほど曹操は甘い男でもない。

つまり曹操が動けないと見せかける事で、曹操と内通する事なく、呂布達とも連絡を取らせずにおく事が目的と考えるべきだ。

呂布がそう考えるのには理由があった。董卓軍の中にあって、唯一と言っていい程の穏健派である李儒。

その李儒と呂布の間には秘密が隠されている。

その事を呂布はもちろん誰にも漏らすつもりはないが、その件に関して言えば呂布は確信を持っていた。だからこそ曹操の動きにも警戒するし、呂布自身も密かに身構えている。

もしもこれが罠ならば、呂布にとっても危険な事態に陥る可能性もある。それでも呂布は慎重かつ冷静に対応しなければならないのだ。それは自分だけでなく、他の仲間たちの安全を確保する事に直結している。

そして同時に、この状況において曹操の誘いに乗る事は避けるべきと判断した上での対応でもあった。曹操は袁紹との親交もありながら、反袁紹の旗幟を明らかにして袁家の敵対姿勢を見せたのだ。

これはすなわち曹操自身、この決断に至るまで葛藤があり、今も悩んでいる事を示している。

おそらく今の状況が曹操の望んだものではないと言う証左ではないかと思われるが、曹操ほどの人物でも自らの意志を押し殺す事を余儀なくされる状況というのは想像もつかない。

それでも曹操は迷いを見せず、軍師達の動揺を抑えるべく毅然とした態度で対応している。

この曹操の落ち着き払った振る舞いには呂布も感心させられた。陳宮にしても曹操の言葉には真実味があると感じ取ったらしく、それ以上の異論を唱える様な事は無かった。

「袁紹殿からの使者は?」

曹操が訊ねると、高順が応えて袁紹の使者の書状を見せる。

そこには袁術を討ったら袁紹に味方するので援軍に来てほしい旨が書かれている。

曹操は一読してから高順に返す。

「使者は袁紹殿の元に戻せ。返答は私から直接届けよう」

「かしこまりました」

高順は書状を受け取ると、呂布達に頭を下げてから退室していく。

「曹操殿」

そこで呂布は曹操に声をかける。

「袁紹殿への義理を果たすためとは言え、その行動は時期尚早かと思います。まずは呂布軍を徐州に向かわせ、守りを固めさせて下さい」

「それでは間に合わない。我々が動かないと見て、袁術は兵を動かしてしまっている」

曹操が即答するが、それに対して陳宮が言う。

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