第40話 戦後――アメリカ合衆国にて

 一九四六年。戦後という時代になり僕は今、アメリカで新たな生活をしている。


 イタリアのファシスタ党の崩壊に続いて、一九四五年の五月には遂にベルリンが陥落。ヒトラーの自殺と共にドイツが降伏すると、八月には日本も降伏し――此処に人類史上、稀に見る犠牲者を出した大戦争は終結した。



 終戦後、僕は白い兎で共に闘った同胞の若夫婦の元に、養子として迎えられた。同時に二歳年下の可愛い義妹も出来た。

 彼等はポーランドの出身であるが、僕と同じ様に母国で散々な目に遭ったそうで、もうポーランドに戻る気は無いと云うので、ならばいっその事、違う国に移住しようとの事で話が纏まった。

 僕達は全員、英会話と読み書きがある程度出来るので、行先はアメリカにする事にしたのだが、理由は他にも有る。

 ソビエト国内での異常な迄の反体制派への大量粛清や、ドイツ軍版のポグロム(ユダヤ民族の大虐殺)『ホロコースト』等が明るみに出た事も、ドイツやソビエトのみならず、欧州の幾つかの国へ対しての嫌悪感を増大させた大きな要因だ。

 もう共産主義も独裁主義も懲り懲りだ。だからと云って資本主義が良いとは思わぬが、今の欧州よりはマシだろうとの結論から、僕達はアメリカ行きを決めたのである。



 終戦直後の混乱も伴って、通常なら厳しい出国審査の網の目を掻い潜り、パルチザン仲間の伝手を辿って多少金は掛ったものの、オデッサ港から出航するアメリカ行きの便に何とか乗船する事が出来た。ギリギリの線だけど一応、密出国では無い。

 僕等を手引きしてくれた手配師はフランツと名乗る一寸、独特な喋り方をする如何にも御調子者という感じの若者だったが、以外にも仕事は誠実に行ってくれた。

「与えられた仕事は確実にこなすのが俺の信条すっからね、任せてくれっす!」と調子良く笑いながら云っていた。

 国籍等は判らないが如何もドイツ軍の――其れも親衛隊からの脱走兵との噂も有る様な胡散臭げな若者だったが、何処か憎めない男でもあった。


 養父母は流石にユダヤの同胞らしく、資産を持ち運びやすい様に貴金属に変えていた為に渡航代は何とか捻出出来たが、新天地では殆ど無一文に近い状態であった。

 僕の持っていた金時計も売る事にした。

 養父母は其れは形見として取っておきなさいと云ってくれたが、生きて行く為ならば実父も許してくれるだろうと、換金して幾らかの生活の足しに充てる事にした。

 始めの内は食うや食わずの生活が続いたが、戦後特需に沸くアメリカ経済の好景気に伴い大工である義父も、割と実入りの良い仕事に有り付ける事ができた。義母も家事の合間に縫製の内職をしており、僕も義父の現場の雑工人足で日銭を稼いだりしながら其れなりに生活も立ち行く様になり、僕も義妹も来年からは学校に通える事になった。

 アメリカにもユダヤ人同士の問題はあるが、何かと援助してくれる同胞達も多く居り、僕達家族も此の新天地で新たな生活の基盤を築き始める事が出来そうである。

 今は唯、只管に毎日を頑張って生きている――生きているという事を感じられる。

 不思議なモノだ。戦場では毎日、死を間近に感じ――明日死ぬ事も已むなしと思っていた僕が、こんな風に思えるなんて――生きていくという事は其れだけで結構、大変な事である。其れはきっと戦時でも平時でも同じだろう。でも今は唯、生きている事が愛おしく、生きているだけで嬉しい。

 死んでしまった多くの同胞達も、父も母も黒い鼬の皆も――そして僕が屠った者達も、『死』が訪れる瞬間迄は必死に『生』きていたのだ。だから僕も簡単に死を求めたりせず、新たな家族と共に、どんなに困難でも生きてみようと思っている。

 其れが死んでいった者達に対しての、生きている者の努めだと信じて……。



 慌ただしい毎日の中で漸く戦争の疲れを忘れ掛けた頃、僕は再び読書を始めた。

 又、本が読める喜びに生きている事の素晴らしさを禁じ得ない。既に図書館の司書と近所の数件の古本屋とは顔馴染みである。

 ある日の事、僕は行き付けの古本屋で二冊の本に目を止めた。

 一冊は『キャプテン・アメリカ』という、アメリカの漫画雑誌である。

 大怪我を負った男が改造手術を行い、超人的な力を手に入れて祖国の為に戦うという内容だ。

 昔、白い兎や他のパルチザン仲間の間で、「一番実用的な『人造強化人間』を使っているのはアメリカらしい」と実しやかな噂が流れた事が有ったが、案外此の漫画が話の出処だったのかもしれないな。虚実織り交ざった所謂、戦場伝説と言われる類の物が産まれる切欠なんて単純な事からなんだろう。

 因みに、僕の知る人造人間の話は誰も想像出来ない位に凄い物だけどね。


 もう一冊は手製のカバーを張り付けた本である。随分と古びているが其れも其の筈、何と今から七十年以上も前にイギリスで出版された物だった。

 英国の女流作家、メアリ・シェリーの処女作にして最も有名な作品。

『フランケンシュタイン、或いは現代のプロメテウス』

 フランケンシュタインの怪物と云う方が、今では一般的だろうか。

 僕にとっては感慨深い小説である。

 其の古びた本の裏表紙には恐らく幼い子供が描いたと思われる似顔絵が有った。

 面長で黒眼鏡をかけた黒髪の男性。其の横にはやはり拙い子供の字で『MY、DARLING』と綴られている。


 「ケムラーさん⁉」


 間違いない。此の顔はケムラーだ‼

 僕は何だか懐かしい人に出逢った様な気持ちになった。此の本を売った人は誰だか判りませんかと店主に尋ねたが、残念な事に他の古物商から纏めて購入した本の中の一冊との事で、何処等辺から流れた物かは全く解らないそうである。

 年代から考えて此の本の持ち主だった人は、もう生きては居ないかもしれないな。

 裏表紙に淡いメッセージを残した幼子も、何らかの形でケムラー達と拘わりを持ったのだろう。そして『愛しの貴方』と思わせる位に良い思い出となった事が想像出来るな。


 僕と彼等の思い出は決して良い事ばかりでは無く、寧ろ辛い事の方が多かったが、彼等との出逢いは僕にとっても掛替えの無い物であった。僕がパルチザンの戦士として闘った、約三年間の中で彼等と過ごしたのは、たった二日間だけなのに、今も鮮明に思い出す事が出来る。其れだけ衝撃的な出来事だった。

 彼等と出逢う事が無ければ僕は戦う意思は挫かれずとも、状況により安易な『死』を受け入れた可能性も有った筈だ。

 彼等との出逢い以降は、死ぬ事は常時において受け入れられるも、其れを前提には置かなくなった事で僕は今、『生』を謳歌する事が出来ているのだ。

 人の一生なんて精々が六十~七十年といった処だ。

 ヴィクトル・フランケンシュタイン博士の復活を夢見て、百十数年も彷徨い続けている彼等――恐らく是から先も数十年は彷徨い続けるだろう彼等からしてみれば、人間の一生なんて大した時間ではない――。   

 だから僕は寿命が尽きる其の時迄、残りの何十年かを全力で生きてみようと思う。

 何をやるか、何を成せるかは未だ分からないけれども――爆撃も無く、砲弾も飛んでこない此の世界ならば何でも出来そうな気がする。



 戦争が終わった今――僕の近くに『死』は未だ、居ない様だから。

 




 僕の体験は何と語ればよいのだろうか。

 単なる戦争体験なのか? 其れとも怪奇体験なのだろうか? 未だに解らないでいる。


 唯一云える事は――彼等は確かに其の時、其処に居て――今も何処かに居るのだろうという曖昧な事実だけである。

 

 もっと云えば彼等と接触し、其の存在を理解した人達は少ないのだろうけど――彼等は非公式な文献の中に其の痕跡を残し、多くの人々には虚構の存在として己の認識の中に有る事だろう。


 中世後期の昔より――今、此の時も……ずっと先の――未来迄も……。






                    了







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人造人間 ~パルチザンの少年戦士~ 綾杉模様 @ayasugimoyou

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