第25話 私はもう忙しくない

 今、信州の松本に来ている。国宝松本城に行くには東のお城口を降りるのだが、西のアルプス口では駅舎から北アルプスの山なみが…雪をかぶる槍ヶ岳がみえる。

登山は我が人生には無いワードであるが、けぶる山なみを見上げながら、ただただ街を歩くだけでなんとも心地が良い。大きな川を渡る。奈良井川とある。山があって川が滔々とうとうと流れている。なぜか懐かしさがある。ずっとここにいたいと思う。こんな自然のなかで育ったわけではないのに懐かしい。これが原風景というものなのか。


 私はもう忙しくない。久し振りの旅行に舞い上がり忙しく準備をしてきた。宿泊先の予約は3か月前に、1か月前に確認の電話、3日前に先に荷物を送る旨の連絡、列車の切符は…と忘れないように工程管理表のごとく書き込んだ。出発の朝はゴミを出し、洗濯、雨戸を閉める…指差確認をしてバタバタと出てきた。


 そして今、今は旅の宿からぼぅーと山をみている。何時にどこへ行くから間に合うように身支度をして、との予定はない。なんならどこにも行かなくてもいい。仕事の電話も友人からの電話もない。病いや老いの肉親を気遣う日々は終わってしまった。私はもう忙しくない。


 「忙しい」は心を亡くすと書く。忙しくなくなったのだから、これからは心豊かに丁寧に暮らしたいと思っている。日々の暮らしで感じたことや半生を振り返って思うことを書いていきたいと思っている。だが、それは簡単なようで難しい。やることが、やらねばならぬことが決まっていて、時間に支配されていたほうが楽なような気がする。辛かったはずなのになぜ楽なのか、それは目の前のことを追いかけていれば、考えなくとも感じなくともいいからかも知れない。


 「忙しくない」日々は自分の心と向き合わざるを得ない。この書くという作業もしかり。自分が何を見て何を感じたかを書き続けていくことは、自分をさらけ出していくこと。「文は人なり」という言葉がある。文は人なり、書き手の思想や人柄、暮らし、人生までもが鮮やかに現わされる。怖いと思う。だが、それが自分の老後の姿…人生のあかしなのである。幸運なことに人生はまだ続きそうだ。旅はまだ終わらない。ならば未熟な自分と向き合って歩いていこう。


 「特急しなの」に乗って長野へ行った。沿線のあぜ道に人影がみえる。白い割烹着を着たおばあちゃんに寄り添う小さな男の子が必死に手を振っている。唐突に思い出す。60年もの時が戻る。かつて私も祖母に手をひかれながら、もう片方の手で山の手線に手を振っていた。車内から手を振る人はいなかったが、車掌さんはたいてい手を振ってくれた。幼心おさなごころに灯りが灯った。そして今はわかる。時間に追われている車掌さんにも小さな手が小さな灯りになったであろうことを。

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