第16話 耳が遠くなる
今は亡き義父が
義父の暮らしが気にかかり、かと言って一緒に暮らすこともできず、私たちは定期訪問の福祉サービスを契約するか、もしくは施設への入居を提案するために上京した。たしか10時頃のことだったと思う。義父の住む公団住宅は小春日和の柔らかな光のなか人通りも途絶えていた。
夫が呼び鈴を鳴らす。ドア越しにテレビの音が聞こえるが反応がない。最近、耳が遠いから聞こえないんだ、と夫は言って合鍵で開けようとした。ガチャンと鈍い音、ドアチェーンがかかっている。義父は中にいる。夫はドアのすきまから、おやじぃ俺だ、チェーン外して…と叫ぶ。テレビの音はとてつもなく大きく、通販番組をやっているのがはっきりとわかる。ドンドンドン、ドアを叩きながら夫は叫ぶ。電話をしようと言って携帯からかける。すぐそこの1メートルも離れていない下駄箱のうえの電話が、昔ながらの黒電話がリーンリーンとけたたましく鳴り響く。…出て来ない。
もしかして…もしかしたら出て来れない状態なんじゃないか。
私は裏に廻った。ベランダ側が見える。窓は閉じられカーテンが掛かっている。2階なのだが登れるだろうか。夫は子どものころ登ったって言っていた。住宅の前には児童公園、ここで遊んでいたのかな。家族の幸せの形が確かにここにあったのに義父はひとりになってしまった。夫の声がここまで聞こえてくる。近所には迷惑だろうが誰も出てこない。管理人さんはいない。チェーンカッターってどこにあるのだろう? 警察? どうしよう。もしも…もしものときは。
戻るとドアは開いていた。義父はちゃんと生きていて、ただ眠っていただけ。自らベッドから起き上がり玄関まで歩いてチェーンを外してくれたそうだ。夫はすでに疲れ果てていたが、力を奮い起こして宅配弁当から訪問介護、ボタンを押すと来てくれるサービス、ディサービスに通って気に入ったら施設にと調べてきたことを大きな声で話し通した。声は枯れ果てた。
結局、私たちができたのは新しい電話を設置したことだけ。ワンタッチボタンに登録してここを押せばつながるからと。電話がかかると新しい白い電話はパトカーみたいに赤色灯を点滅させ音量一杯に鳴り響く。義父の希望で残した黒電話もワンテンポ遅れて負けずに鳴り響く。負けるな。テレビの大音量に。
あれから3年が経つ。義父はコロナ渦で見舞いもできずに逝ってしまった。テレビの音を大きくすると義父のいた家を思い出す。最近、聞き違いも多くなった。耳が遠くなったのか、集中力がなくなったのか、テレビのコメンテーターなど高速早口でしゃべる人の話が聞き取れない。というか聞く気力がない。
ボーとしているせいか、最初の音が聞き取れない。最近、二人で笑ったのは…
夫が「今日の散歩コースは」と言ったのに、私は「えっなに、今日のホース」と頭の中でホースがぐるぐると巻いた。
テレビに背を向けて料理をしていたら、ワイドショーで熊に出会ってしまった際の対処法を話していた。熊にホィッスルが熊に恋するって聞こえて、包丁を持ったまま振り向き画面を凝視、夫にギョとされた。熊スプレーは一定の効果があると聞いて「熊スプレーはいいみたい」と言ったら、夫は「えっごまスプレー」と返してから、熊の話とわかって「あぁごめん。熊スプレーね」と言った。はたと私「ごまスプレーって言ったかも」と思った。だいじょうぶかな。私。
まぁ笑いながら仲良く暮らしていきたい。夫とは同じ齢だから同じ位に耳が遠くなったらいいな。
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