第9話 誰がために声をかける

 朝が訪れて支度を済ませ、食堂に入るとそこにセナの姿はなかった。


 当然だ。昨夜彼女はわざわざ私の部屋にまで来て明日からは普段通りの生活を、と言ったのだ。7時過ぎに朝食を摂って、1コマ目から講義を受けるために8時30分を回る前に下宿を出る生活は、セナの普段通りの生活からは大きくかけ離れている。昨日はただ私の生活リズムに合わせていただけなのだ。


 席に着き、アンドロイドが焼いてくれていたトーストをかじる。視線をテーブルの上から正面に移動させる。きれいに整頓された調味料や調理器具が調理台の上で、透明な朝陽を浴びて白っぽく輝いている。ああ、いつもはこんな景色だったっけ、とふと空虚な微風が心臓を撫でた。昨日だけとは言え、存在していたものがなくなっている状況はどこか物足りなさを感じさせる。頭の重みが枕にその形のへこみを残すようにセナの作ったへこみのようなものを、向かいの空席の向こうに感じた。


 コーヒーにミルクを入れる。目分量だが、少しだけ4対1を意識する。口に含むと、昨日の朝よりはおいしく、セナの部屋で飲んだものよりはいくらかミルクが多い気がした。


 朝食を済ませて下宿を後にした。ことのほか支度がスムーズに終えられたことと、どうにもぼんやりしてうまくスイッチが入りきらない頭のせいで、アカデミーへ向かう歩幅が無意識のうちに狭くゆっくりになった。昨日は隣にあった考えるべきことを失い、休息を強いられた思考から浮遊感を拭いきれないのだ。


 昨日より前の私はこの道を歩きながら何を考えていたのだろう。講義の課題のこと、クレー射撃のこと、友人のこと、アルバイトのこと。その他もろもろ。あるいは、何も考えずに歩いていたような気もする。昨日より前ならそれでも満足していたのに。


 ぐるぐる似たような道を行ったり来たりする思考を、深い溜息のような一発の深呼吸で強制的に追い払った。


 まったく、隣にいてもいなくても私の心の安定を欠いてくるなんて!


 昨日よりも今朝よりも幾分かまともな集中力で1コマ目を終えて、次の講義のために隣の学部棟へ移動する途中、セナが学生控室で誰かと並んで座り、いつもの何も読めないような表情で話しているのを見かけた。霧が晴れるような感覚とともに、背中から冷汗が噴き出した。作り笑いを浮かべているときのセナはある程度セーブができている状態だが、表情がないときの彼女はリラックスしている――つまり、誰かに気を遣おうなどとは頭の片隅にもない状態だ。


「セナ」


 少し大きめの声で呼びかけ、早足だがあくまで自然に映るように彼女たちのいるカウンターテーブルに近づいた。喫茶店風にデザインされた学生控室は人気のある場所であり、今日も作業や雑談に時間を消費する学生たちで混み合っていた。騒がしい周囲の楽し気な声にかき消されて届かなかったのか、セナにリアクションがなかった。すれ違う学生をよけながらもう一度名前を呼ぶと、ようやく気付いてセナとその隣に座っている少女が振り向いた。


「今日も2コマ目は受けないのか、ジュリ?」


 セナは顔を上げて特に驚いた様子も見せずに言った。隣にいる少女の顔をちらと盗み見たが、私の知っている顔ではなかった。目が合うと、気の弱そうな少女は居心地が悪そうに照れ笑いを浮かべて会釈した。私は軽く笑ってそれに応じた。


「今日は受けるよ、サボりに来たんじゃない。廊下から君たちが話しているのが見えて、セナが無神経なことを言ってその子を困らせてるんじゃないかと心配で来たんだよ」


「困らせてなどいない。ただ、ハチとアリではどちらが社会性により優れているのかについて意見を交換していただけだ」


「その話題は明らかに選択ミスだよ」私はため息をついた。「どうしてもしたいならその話は私が聞くよ。とにかく、他人と話すときは自分本位にならないように気をつけて」


「い、いえ、私は別に……」少女は口を挟んだ。「セナの話はおもしろいですから……」


「ホントに?」私は少女に視線を振った。


「ええ」


 少女は優しく微笑んだ。どうやら嘘ではないようだ。セナにも話の合うような友人がいることがわかって喜ばしいはずだが、どこか釈然としない。もやもやする違和感の原因を少女に見出そうと彼女を眺めていると、


「実験は終了だ」


 突然、セナは周囲の声に溶けないぎりぎりの声量でつぶやくと、ふらりと椅子から立ち上がって私の両手を強く握った。彼女の予測不能な行動に状況が理解できずに驚き固まっていると、ひらめきに輝いた灰色の虹彩に覗き込まれた。


「実験なんかしなくてもジュリは私が求めているものの正体を知っていたんだ。まったくの盲点だ、気づかなかった。私はただ確かめるだけでよかったんだ!」


「セナ」私は言外に落ち着けと強調して言った。「1人で盛り上がっているところに悪いんだけど、話が見えないよ。ちゃんとわかるように説明して」


「ジュリは無意識だったのかもしれないが、彼女と話しているときに襟元を少し広げた」セナは私の手を解放し、自由に胸の前で彷徨わせた。「それは彼女に感情的な不快を感じたためだろう。襟元を広げるのはストレスを和らげるための一般的なしぐさだ。

 私の知る限り2人は初対面だし、彼女の第一印象は非常に良いはずだ。だとすれば、君の感情の原因は私にあると考えるのが自然だ。

 私に原因があって彼女に不快を向けさせる感情は――少し大胆に発想を展開させたが――私に対する独占欲、あるいは執着心。私がジュリに対して感じているのと同じものだ」


「独占欲……私がセナに対して?」

 

「そうだ」


 いくら頭の中を引っかき回してもセナに独占欲を向ける理由が見つからず、思わず乾いた笑いが漏れる。しかしそれと同時に、隣の無害そうな少女にが微笑んだときに覚えた正体不明のもやもやにピッタリ当てはまるラベルが付けられたような気がした。


 友人を作ればいいのにと考えながらも、いざセナの友人らしい人物が現れたら不快に感じただなんて、独占欲の例え話に相応しい。


 セナは話を続けた。


「私がそれに気付いたのは、実験がもたらした副産物的な結果であって本来の目的ではないが、関連性があることは予想できている。

 実験の目的は、ジュリ、君といるときに感じる心地良い奇妙な高揚感の正体を探ることだ。そのために君以外の人とも会話をしたり、君と会うことが多い下宿の階段以外の場所に移ったりした。

 その結果、場所に関係なく君といるときにだけその高揚感が得られることがわかり、君が他人と話しているのを目にしたことで、私が君に強く執着していることもわかった。ただ、どうして君だけなのか、ジュリと他人との違いだけがわからなかった。

 当てはまらない仮説をすべて消していったら、そこには何も残っていなかった。全て間違っていたんだ。

 しかし今、君が同じように私に独占欲を向けていることがわかった。ならば、君も私といるとあの奇妙な高揚を感じるはずだ。

 私に比べればはるかに人間の感情に明るいジュリならその正体を知っているだろう? 私に教えてくれ」


 煙を閉じ込めたガラス玉のような双眸がより一層輝いた。


 ああ、神様!


 信仰心のかけらもない私は本心から心の中で叫んだ。


 私はその高揚感と独占欲をもたらす愚かしい感情の名前を知っている。ときにその高揚感は全能感にすら匹敵し、その独占欲は鎖に繋いで永遠に閉じ込めておきたいと願わせるほど残酷なものになる。


 セナが結論に至らなかったのは、ホワイダニットを軽視してきたツケだろう。


「いいよ、わかった」私は言った。「でも、1つ大きなヒントをあげるから、最後にもう一度だけ考えてみて」


 身体の横で固く握られていたセナの左手を右手で触れ、「緩めて」指を絡めて握った。セナはぴくりと震えて後ずさろうとしたが、手に力をこめてそれを許さなかった。


「そのまま、空いている手で自分の脈を確認して」


 私に言われるがまま、セナは首元に人差し指と中指を当てがった。


「……少し速い」


「どうかな、そのことから何がわかる?」


 思案するために伏せていたセナの瞼が徐々に開かれ、再びひらめきに、しかし随分と穏やかに目を輝かせた。


「私は君が好きだ」セナは自分に言い聞かせるように言った。「これは深い愛情だ」


 心づもりはしていたが、この上なくストレートな言葉に熱が上がる。


「それならば、ジュリも私に対して深い愛情を?」


 感情が共鳴していることよりも自分の考えが正しかったかどうかの方が気になるようで、灰色の目の奥で好奇心が疼いて見えた。彼女らしい優先順位に気が抜けてふっと思わず笑った。


「それはどうかな」私は意図的に襟元を少しくつろげた。「セナは自分で確かめないと気が済まないでしょ?」


 セナの冷たくて薄い精密機械のような手が首にそっと触れた。


「絞め殺さないでね」

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消去法の落とし穴 佐熊カズサ @cloudy00

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