第8話 今日は終わり、明日は普段通りに

 映画は案外セナのお気に召したようで、観ている最中は一言も発しなかった。こんなことはありえない、とかなぜ主人公は最適解を取らない? とかいつ文句の弾雨が降るかとヒヤヒヤしていたが、どうやら杞憂だったようだ。彼女にある程度の選択肢を与えたのが良かったのかもしれない。私おすすめのヒューマンドラマ系の映画なんか見せた時の恐ろしい反応は想像に難くない。


 雄大なオーケストラを聴きながらスタッフロールを眺めて、守られた太陽系の平和の余韻に浸っていると、機械的なチャイムの音に一瞬で意識が地球上の狭い一室に引き戻された。


 ラップトップの隣に伏せて置いていたモバイル端末を手に取り、着信したメッセージを確認した。


「もう夜ご飯ができたって。食堂に下りようか」


 アンドロイドから送信されたメッセージをセナに見せた。彼女は神秘的な自然現象でも見るような目で液晶を見つめると、ソファから自分のモバイル端末を取り上げた。


「私にはそのメッセージは届いていない」


「不具合かな? 普段はちゃんと届く?」


「いや、そもそも今までそんなメッセージは……」セナは記憶を遡行して追うように視線を泳がせた。「……そういえば下宿に越してから最初の3日くらいは届いていた」


「君が無視するからアンドロイドも学んだんだよ。自律学習って優秀だね」


「……なるほど、確かに技術は進歩しているな」


 映画を見たせいで思考が近未来科学にスイッチしているのか、セナは満足そうに小さく口端をゆがめた。頭の中で仮説的な考えを広げるセナの気配を感じながら、ラップトップをスリープモードにして立ち上がった。


「もう下りるよ、せっかく作ってくれたのに冷めるよ」


 食堂に入るとすでにテーブルは料理と食器で埋まっていた。予想に反して、私の向かいの席にセナの食器が用意されていた。セナにはメッセージが届いていなかったので、アンドロイドに用意を頼まねばと考えていたのだ。


「どうやら、私が今晩は食事をすることと、ジュリと一緒にいることがわかっていたようだ」すぐ後ろをついてきていたセナが言った。「無駄には働かない。本当に優秀だ」


 セナと私はそれぞれの席についた。目の前の風景に違和感を感じて初めて気がついたのだが、そう言えば夕食を一緒に摂るのは初めてだ。セナは見ようによっては神妙そうにも見える無表情で、私はその表情に彼女の目的不明の実験がまだ続いていることを思い出しながら、それぞれ目の前の料理に手をつけた。


 結局セナは、スプーン2杯程度の塩茹でされたグリーンピースとトーストされたバゲット1枚しか口にしなかった。昼に食べたドーナツの残滓がまだ影響しているのかもしれない。セナが言うには「何かを考えながら食事をするのは難しい」そうだが、にしても省エネにも程がある。


 彼女の謎に満ちたエネルギーの体内配分について考えながら、私は皿の上を片付けた。さすがにセナの残した分までは入らなかったので、アンドロイドにラップをかけて冷蔵庫に保存しておくように頼んだ。命令を即座に実行し始めるアンドロイドを視界の片隅に入れつつ、コーヒーをちびちび飲んでいるセナに浴室を使う順番についての相談を持ちかけた。


 各自室には改装前は喫茶店だったおかげで小さなキッチンとトイレは付いているが、残念ながら洗面室はない。これまでは運良くタイミングがズレていたおかげでその必要はなかったが、今日はどちらが先に使うか話し合わなければならない。


「話し合う必要はない」セナは言った。「一緒に入れば――」


「良いなんて言うわけないよね?」


 私が先に浴室を使うことにした。


 シャワーを終えてひと段落し、部屋で課題を処理していると、扉を2回ノックする音が聞こえた。デスクから離れてドアを開けると、シャワーを浴びてきたばかりらしいセナが立っていた。


「ノックをどうも。髪の毛、乾かさないと風邪ひくよ?」


「ノックは君がしろと言ったから。髪の毛は放っておけばそのうち乾く。風邪ならひいても問題ない」


「問題なくはないと思うけど……まあいいや、何か用事?」


「ああ、その……今日はありがとう、助かった」セナは視線を少し下の方で泳がせ、手に覆い被さっている袖口を指先でいじった。「まだ途中だから何も教えることはできないが、おかげで知りたいものに近づいている……と思う」


 言葉尻は自信なさげに空気に溶けた。濡れて束になった癖のあるダークブラウンの髪の毛が襟元を濡らしている。


「そっか、よかったよ」


「ああ……それだけだ。では、明日からはお互いに普段通りの生活を」


 言い終えると、セナはきびすを返して階段を下りていった。


 寝る間際、ベッドの中で今日は楽しかった、と伝えなかったことをほんの少しだけ後悔した。

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