第3話


 ある日曜日の昼下がり。


 奥沢の一等地に居を構える邸宅へ清と八重、美代子、実は訪れた。


「ようこそいらっしゃいました」


 出迎えてくれたのは身なりの良い老夫妻。


「美代子さんですね。私が青谷正雄と申します。こちらは家内のフミ」

「よ、よろしくお願いします」


 美代子の声が上擦っている。

 華美な装飾などはないものの、立派な門がまえからして明らかに自分たちとは住む世界の違う相手に美代子達が緊張しているのが分かった。


 青谷は目線を合わせるようにしゃがんで、実に優しく話し掛けた。


「初めまして。お名前を教えてくれるかな?」

「・・・平野実です」


 実は美代子の陰に半分隠れていた。


「実くんは、車は好き?」

「・・・うん」

「実はね、君が来ると知って玩具をいくつか用意したんだが、見てくれるかい? 気に入ってくれるといいんだが・・・」


 青谷に車の模型玩具を差し出された実は、目を輝かせて美代子の陰から出た。


「いいよ!」


 玩具を片手に青谷に手を引かれて室内へ上がった実を美代子は注意したが、フミが留めた。


「さあ、皆さんもどうぞお上がりになって」

 

 フミに促されて八重達は一礼し、ようやく履物を脱いだ。

 





 今回の訪問は、美代子の覚悟を聞いた清が提案したことだった。


「私の大学時代の恩師の知り合いにね、戦争で子供を亡くして長らく塞ぎ込んでいた老夫妻がいらっしゃるんだけど、最近ようやく元気になり始めて、良い縁があれば子供を育てたいと仰っているそうなんだ」


 だから会ってみないか、と言う。


「向こうさんは無理に親子を引き離す事はしない、とにかく一度母子で家に来てくれと仰ってくれてるんだ。実くんを引き取ってもらったとして、面会が一週に一度になるか二週に一度になるかはこちらの交渉次第。上手くいくかは分からない。・・・お前さん、それでも構わないかい?」


 清の話を一語一句漏らさぬように慎重に聞いていた美代子はすぐに決意した。


「それで構いません」







「楽しそうで良かった」


 青谷夫婦は玩具ではしゃぐ実を見て、とても嬉しそうだ。


「あの玩具は全て持ち帰ってもらって構いませんからね」

「そ、そんな訳には参りませんわ」


 美代子はずっと萎縮しているらしく、青谷の提案に首を振った。


「良いんですよ。うちに置いといても誰が使ってくれる訳じゃない」

「ですが・・・」

「物は使ってやるのが一番です。ぜひ」


 青谷に説得された美代子は「はあ、」とか「でも」とか繰り返していたが、最終的に押し切られたようで、


「ありがとうございます・・・」


 と渋々了承した。




「突然のお願いでしたのに、手厚く歓迎して下さり、なんとお礼を申し上げたらいいか・・・」


 清がそう言うと、青谷はやめてくださいと首を振った。


「こちらこそ、いいご縁があればと思って方々に話を振っていたんですが、まさか立野君の教え子で伊佐木先生からのお話となれば願ってもみないことです」


 立野とは清の大学時代の恩師のことだ。


「・・・それで、ここからは込み入った話になりますので、」


 チラと清から視線を向けられた八重は頷き、立ち上がった。

 車の玩具をひっくり返して熱心に観察していた実に話し掛けた。


「実くん、おばちゃんと向こうで遊びましょうか」


 八重がそう言うと、実は不思議そうに一度見上げて、それから硬い表情で周囲を見渡した。

 すぐに玩具を離して美代子の元へ駆け寄る。


「おれ、どこにも行かないよ」


 そう言って美代子の腕にしがみついた。


「大人の大事な話なの。アンタがいちゃ出来ないんだよ」

「嫌だ。母ちゃんの側を離れない」


 美代子は実に言い聞かせようと説得を試みたが、実は頑として離れなかった。


「おれ、もう子供じゃない」


 美代子は困ったように実の頭を撫でた。


「いや、実くんは間違ってない。大事なお母さんを守る君は立派な男だ」


 青谷は感心したように頷く。


 結局、実を引き離す事に失敗したが、清が予定通り、美代子と実の事情を話した。

 子供に聞かれたくない部分は言葉を濁し、掻い摘んで一通り語った。

 話を聞き終えた青谷夫妻は、心底美代子達に同情したように見えた。


 そして夫妻は少し話し合いたいと席を外した。




 五分ほどですぐに戻って来て、青谷はこう提案してみせた。


「私達は立野くんから話を聞いた時、お母さんに何か事情があってお子さんを手放したいのだと考えていた。でもそうじゃないなら、美代子さんさえ構わなければ、二人でうちの養子になりませんか?」


 その言葉に美代子は驚いて口を抑えている。


 八重と清は困惑したように顔を見合わせた。

 確かにそれは魅力的な提案だが、もし聞き漏らしや行き違いがあってのことなら後が大変だ。


 八重は、今度は美代子と実を連れて別室に移った。


 美代子はこれ以上ないほど動揺していて、不安がっていた。

 実はそんな母の手をぎゅっと握り締めた。




 暫くして、フミが終わりましたよと三人を呼び寄せた。


「清さんから、美代子さんの身の上についてより詳細なお話を聞きました」


 青谷の言葉に美代子は顔を強張らせていた。

 次に続く言葉を待っている。




「ですが、私達の言葉は変わりません」 




 青谷の優しい声音に美代子は顔を上げた。


「何も自分勝手に人様を傷付けた訳じゃない。生きる為に一生懸命働いた。ただ、それだけですよ」



 美代子は目をこれ以上なく見開いて、言葉を失くした。


 その内に俯いて、肩を震わせる美代子を実は心配した。


「母ちゃん、どうしたの? 大丈夫? 辛い?」


 止めどなく溢れる涙を拭って、美代子はこう言った。


「違うの、嬉しいんだよ・・・。母ちゃんね、これまでで一等、嬉しいの・・・」








 夕食をご馳走となりすっかり暗くなった頃、八重達は青谷邸を後にした。

 貰った玩具を大事そうに抱き締めて眠る実の靴を脱がせてやり、美代子もタクシーに乗り込んだ。



「奥様、やはり気付かれていたんですね?」

「え?」

「最初から、この子が清さんの子供じゃないってこと」


 包んでもらった他の玩具を渡しつつ、八重は苦笑した。


「・・・実君はどう見積もっても、10歳くらいにしか見えませんでしたから」


 美代子は泣きそうに顔を歪めて、実の頭を愛おしそうに撫でた。













「美代子はね、私が15の時に出会った」


 美代子達と別れた後の帰り道、清がポツリと口にした。


「実くんの気持ちは痛いほど分かる。私には最初、母とおばさんと八重がいた。だが母を亡くして、お前さんがいなくなって、そしておばさんも死んで・・・私は自分の足元がなくなったかのような喪失感に襲われた」


 八重はきゅっと手袋を嵌めた自身の手を握った。

 その頃の清の心情を聞くのは初めてだった。


「美代子は私の話を黙って聞いて、私が話し終えると、自分の話をして、私はそれを聞いて・・・その繰り返し。それ以外は何もない。・・・あの頃の私たちは、ただ誰かと生き辛さを分かち合いたかった」



 八重は15の清を思い浮かべた。

 夜も眠らないあの町で、子供から青年へ変わろうとする美しい少年。

 目を離せば、泡沫に消えてしまいそうな危うさを秘めた少年が、ただ息を吐く場所を必要としていた。


 きっとそれは、美代子も同じだった。




「・・・八重の話もした」

「・・・私の?」


 隣を歩く夫を見上げると、彼は珍しく照れたように眉を下げた。


「苛烈で芯があって・・・可愛い、私がずっと好きな女の子」


「・・・は、」


 八重は暫し固まり、それから赤くなった。

 八重を見下ろす清は、悪戯が成功した子供のように笑った。


「今、揶揄ったんですか?」


 八重が怒ると清は「違う」と否定した。


「本当の事だ。嘘はひとつもないよ」


 その目は八重だけを真っ直ぐ見ていた。


















「御免ください」



 あれから暫くして、再び家を訪れた美代子は以前より健康そうだった。


 今は仕事を辞め、療養していると言う。

 あのあと青谷の知り合いで専門医に診てもらうようになり、現在も治療中だ。


 青谷夫妻は、美代子も実も変わらぬ愛情で大事にしてくれている。


 美代子の病は完治が出来ない病には違いないが、適切な食事療法と運動療法によって苦しみを和らげて延命出来るという。


「それを知った時、あの子が大人になる姿を見届けられるかもしれないと思って喜んだんです。けど、すぐに不安になりました」


 八重は首を傾げた。

 美代子は困ったように笑う。


「だって治療を続けるにもお金が掛かるし、すぐいなくなると思ったから私の事まで引き受けてくれたんだろうと思ったからです。・・・でも、勇気を出して話したら、お二人は喜んで下さって」


 その時の事を思い出したのだろう。

 美代子は涙ぐみ、けれど明るく笑った。


 美代子のことは、最後の時まで青谷夫妻が面倒を看てくれる。


 「碌でもない人生だったけど、あの子のお陰で案外悪くない最期になりそう」


 美代子は八重と清に感謝した。








「これで良かったかい?」




 美代子が帰り、清が八重に問う。

 八重は「はい」と答えたが、続けてこう言った。



「でも、美代子さん達が暮らしてたあの場所には、彼女達と同じような事情抱えた人がごまんといました。その全てを助けることは出来ないんだと思うと・・・所詮、自分のしたことは自己満足に過ぎないと考えて気持ちは晴れません」


 八重の言葉に清はそうだねえ、と遠くを見るように視線を投げた。


「仕方ないさ。一人の人間が背負えるのは、本来一人分だけなんだから」



 清の言葉に八重は重たく頷く。

 二人は暫く沈黙した。




 「それよりお前さん、もっと私に言いたいことがあるんじゃないかい?」




 清が口を開いたかと思うと、突然そんな事を聞いた。


「なんのことですか?」

「お前さん、私に他所で子供がいないと知って残念だと思ったろう?」


 聞き返した八重に返ってきたのはそんな言葉だった。

 なんでそれを、と思ったのが顔に出た。


「図星か」


 八重は慌てて顔に手を当てたが、もう遅い。


「・・・なんで、わかったんですか」

「何年お前さんと一緒にいると思ってんだ」


 清は呆れたように返した。


「何故残念がった? え? 普通は怒るものだろう?」


 清は苛立ちを露わに八重に尋ねた。

 唇を食んでいた八重だったが、清の鋭い視線についに折れた。


「・・・見たいと、思って。貴方の子供なら見たいと思ったんです。・・・たとえそれが、私との間の子じゃないとしても」




 八重の答えを聞いて暫く沈黙していた清。

 だが、やおら口を開く。


「それがお前さんの本心かい?」


 清の纏う雰囲気が冷たくなった。


「・・・だとしたら、随分と聞き分けの良い女房だな」


 限りなく低くなった声音。

 そこで八重は、初めて気がついた。



 清がずっと静かに、深く怒っていたことに。




「そんなつまらない女は、私にはいらないよ」




 その一言で、八重の時が止まった。



 目を見開いて、美しく、ともすれば冷たい夫の顔を見つめる。

 躰の感覚がどんどん掻き消えていく。


 清は苦しそうに顔を歪めて、八重に手を伸ばした。


「頼むから、諦めないでくれ。誰の人生も」


 いらないと言ったそばから強く抱き締められた。

 八重を掻き抱く清の手が熱い。


「たとえ私たちに子供が出来なくたって、もう私はお前さん以外とどうこうなろうとは思わない」


 八重の躰が震える。 


「私には、お前さん。八重だけなんだよ」


 その一言で、ついに八重の目から次々と熱い涙が溢れた。



「・・・あたし、分からなくなっちゃった」

「うん」


 抑えきれない嗚咽とともに話す八重の言葉を、清は優しく拾い上げた。


「だって・・・アンタが、アンタがっ」

「うん」


 抱き締める夫の腕に、胸から伝わる夫の優しい声音に、八重は喉を震わせて長年秘めてきた本音を吐露した。


「あたしのことを大事にしてくれるから・・・それに、応えたかった」


 それを聞いた清は、八重の背中をさすりながらもこう言った。


「応えようと思って赤ん坊は出来ないよ」


 その返しに八重は怒ったように言い返す。


「知ってるわよっ、そのくらい! でもっ、でも欲しかったの・・・! アンタがその腕に抱く子供は・・・あたしとの子供が良かった」

「そうだね」

「でも、出来なくて。誰に何を言われても、あたしは平気さ。でも・・・自分に負けてしまいそうなんだよ」




 子供がいない夫婦だって、いてもいい。

 義父母にせがまれたって、八重達は跡取りなんて必要としていない。

 ましてや他人に後ろ指を差されたって痛くも痒くもない。


 八重には八重の、筋の通った価値観があり、それが揺るがない限り誰に何と言われても平気だった。


 けれど、自分の中から湧き上がる渇望とそれが叶わない深い絶望が、静かに八重の心に虚しさを降り重ねていった。


 その果てのない虚しさを思うと、八重の涙が止まった。


「八重、すまない」


 清が苦しげに、絞り出すようにそう言った。


「何でアンタが謝るの」

「口さがない連中からお前さんを守れれば、それで良いと思っていた。・・・けど、違ったね。私が向き合うべきだったのは、お前さん自身だった」


 ぐっと八重を引き寄せて清は懺悔した。


「結婚以来、“作家の良き妻”になろうと必死に頑張っていた八重を知ってる。そうして自分を押し殺してきたことも」


 清の言葉に、八重の止まっていた涙がまた溢れ出す。


「八重の不安なこと、全部話しておくれ。全部、受け止めるから」


 ーー本当にこの男は、あたしを泣かせるのが上手いんだから。


 内心、夫を恨みがましくも思った。



 そして八重は、清の耳元に唇を寄せてこう言った。




「キヨ、抱いて」




 その言葉に「八重?」と清が聞き返した。

 八重は、自ら彼の口元に細い頸を曝け出すように擦り寄り、囁いた。

 


「お願い、抱いて。激しく、いっぱい愛して。あたしが怖くなくなるまで・・・」



 清の喉が鳴る。



「・・・おいで」



 その声は優しく、だがしっかりと欲を滲ませていた。





 結婚して七年。

 初めは何も分からずただ清について行くのに精一杯だった行為も、いつの間にか余裕が生まれて。

 美貌を歪め、自分に夢中になって清を見て、八重は恍惚と笑った。


「好き・・・キヨ、好き」


 八重は初めて清にそう告げた。

 清はやや驚いたように目を見開いて、それから蕩けた笑みを浮かべた。


「私も、お前さんを愛してるよ」


 清はそう言って、八重を優しく抱き締めた。














 休日。

 いつもと変わらぬ朝。


 着替えて、居間に入った清は首をかしげた。


「どうしたんです? 早く座ってくださいな」


 八重は慌ただしく朝食の準備をしながら夫を急かした。


 今日の献立は、白米に漬物、味噌汁、以上。


 清はやっぱり不思議に思って八重に言った。


「珍しく今日は軽めだね」


 八重は視線を一瞬机に向け、それから背を向けた。


「ご不満ですか?」

「いや、そうじゃないよ。お前さん、朝はしっかり食べたいからと、いつも沢山用意するじゃないか」


 熱い茶を清の前に置いて、八重は席に着く。


「今日は外で昼食を食べるんですから、これくらいで良いんですよ」


 八重の言葉に清は目を瞬かせて黙った。

 気まずい空気が流れる。

 口火を切ったのは、八重の「まさか、お忘れですか?」と言う低い声だった。


「今日は貴方の襟巻きと私の日傘を新調しに街に行くと約束したじゃありませんか」


 清は言われてやっと思い出したようだった。

 八重はすっかり呆れたようで、先に食べ始めてしまった。


「もう知りません」


 怒りを露わにする八重。

 清は慌てて謝った。


「すまなかったよ、八重。忘れていたわけじゃないんだ。忘れていたわけじゃないんだけど・・・頭から抜けていてね」

「それを忘れたと言うんですよ」


 清はすまなかった、食べ終わったら準備するからと箸を持ち上げた。

 

「全く」


 八重はただ、文句を言って怒ってるだけなのに。


 清はそれを嬉しそうに、破顔して聞いていた。

 それが擽ったくて、照れ臭い。

 必死に笑いを堪えて、八重は怒った顔を作った。 





 【終】

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夫婦と云ふものは(全年齢向け) 千代村 若明 @chiyomura

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