第3話 悔しくないのか
職員室から出ると、外はすっかり夕暮れだった。コソコソと噂話をしていたクラスメイトももう帰ったらしくて、ゆうこも帰らなくちゃいけない時間。
帰らなくちゃ。お母さんが心配しちゃう。
……そう思うのに、ゆうこは職員室の重たい引き戸を閉めた後、離れの図書室へ向かっていた。
(帰りたく、ないな……)
離れの、屋根の下にある図書室はいつも少し薄暗い。一人ぽっちになった時から、ここがゆうこの一番安心できる場所だった。
いつも通り、大好きな本を読もう。探偵ロジャーの大冒険。ロジャーは勇敢で、言葉が難しいけど多分いい人で、とっても頭が良いのだ。
「こんにちはゆうこちゃん。今日は遅かったね」
「ぁ……うん。ちょっと、先生に呼ばれてたの」
「そっか。お疲れ様」
司書の穏やかな先生が、ゆうこを出迎えてくれた。何も聞かなかった先生に感謝しながら図書室の奥へ進む。
薄暗い図書室のさらに奥、蛍光灯が切れていて暗い端っこの席に座った。席には一つ一つライトスタンドがついているけれど、ゆうこは決まって外から漏れる明かりで本を読むのだ。
(ページ……まっかっか)
夕暮れの光が反射して真っ赤なページを撫でる。その中では、探偵ロジャーがニヒルな笑みを浮かべて死地に飛び込んでいた。
(「どうして謎を解くのに、そんな労力をかけるんだ。君は死んでしまうかもしれないんだぞ」)
臆病な新聞記者が、ロジャーに語りかける。このときばかりはゆうこも彼に同意で、どうしてこんなに危ないことをするんだろうと決まってヤキモキするのだ。
でもロジャーは笑みを崩さず、簡単なことだよとパイプを燻らせるのだ。ゆうこは、彼のこのセリフが大好きだった。
(──「勇気を持たなければ、何もしなければ、何も変わりはしないからさ」)
この言葉はいつも、ゆうこの心をじんっと熱くさせてくれる。寂しくて、辛くて、引っ込み思案で何も出来ないゆうこでも──勇気を持てば、何かができるのだと信じることができたから。
それなのに。
いつも通り、勇気づけられたはずなのに。
「……ぅ、ふ、うぅっ……」
鼻の奥がジンとして熱い。気づけば涙がポロポロこぼれ落ちていて、視界が滲んでクリアになった頃には、はたはたと涙の跡が大好きなロジャーのセリフに落ちていた。
「うぅ、ううううう……!」
じわりと滲んでいく涙が不甲斐なさを現してるみたいで、ゆうこは顔を思いきり俯かせた。
(何も……変えられなかったよ。ロジャー……!)
泣いちゃダメ。泣いちゃダメだ。惨めになるだけ。なるだけなのに。
ゆうこの目からはどんどん涙が溢れてきていて、止まらなかった。
そうやって。図書室の奥で、たった一人静かに泣くゆうこに、影が落ちた。
「なんだお前。泣いてんの?」
司書の先生ではない、ゆうこと同い年くらいの声が、明らかにゆうこに対して言葉を発していた。
「っぇ」
「本、めっちゃ濡れてるじゃん」
そうして差し出されたハンカチを、慌てて受け取る。人がいたことに驚いて涙がぴたりと止まり、ぐじゅっと鼻水を啜る音が響いた。
青と紺のチェックのハンカチ。思わず握りしめたそれを渡したのは、目の前の人物らしい。
お腹の辺りから顔を見上げたゆうこは、思わず目を見開いた。
「……なん、で……?」
「や。今日お前、すげー酷いこと言われてたから」
そうなんでもないことかの様に言う彼の名前は、ゆうこもよく知っているものだった。
「マサト、くん……?」
「ん」
男の子にしては長い黒髪が、夕暮れの光に照らされて少しだけ赤く染まる。キラキラと輝いた瞳の色が明るい青だったのは、ゆうこも初めて知ったけど。
いつも通りの顔で、彼は首を傾げた。
「お前、悔しくないのか」
「っえ」
「あんだけ言われたんだぞ。俺はあんなの言われたらぶん殴るけどね」
普通のことみたいにマサトくんは言う。それで普通の顔して隣に腰掛けて、頬杖をついてゆうこを覗き込んだ。
「俺はお前のことも、クラスのこともどうでもいーけどさ。リンリカンってやつ? 育ってなさすぎじゃね、あいつら」
「わっ、わ、わたしが、嫌って、言わないのが……悪いから……」
「そうだろうな。あいつらもお前も似た様なもんだよ。他人に甘えすぎじゃねーの。五年にもなって」
あっさりと肯定されて驚いた。へっと声を発するゆうこに、マサトくんはやっぱり興味なさげにため息をついた。
「でも、ま、悔しくないのか? って思っただけ」
「く、くや、しい……?」
「うん。お前、普段なんも言わねーけどさ。今日はなんか、言いかけてたじゃん。相当悔しかったんかなって思った」
悔しい。悔しいのだろうか、この気持ちは。
「ご、ごめん、じ、辞書、ひかせてほしい」
「辞書ぉ?」
「わ、分かんないから」
「わかんないって……悔しいかどうか?」
呆れた顔をしたマサトくんに、こくこくと頷く。辞書を引いて、合致するか調べて、そうじゃないと確信を持って言い切れない。
「…………はぁぁぁあ〜〜〜〜……」
夕暮れの図書室に、長いため息が響き渡った。
「ゆうれいゆうこ、なんて言われてるからどんな奴かと思ったけど……お前、めちゃくちゃ変なやつだな」
「へっ、へん!?」
「うん。変。そもそもお前、そう言うのって辞書見てもわからないだろ」
不思議だ。あのクラスの人気者、みんなの憧れのマサトくんと二人で話している。
マサトくんはいつものマサトくんより少しだけ荒っぽくて、多分、とても優しい。
「腹が立つか? 惨めか? どうにかして、あいつらにやり返したいと思うか? 一つでも当てはまるのなら、それは悔しいってことだよ」
順繰りに三本、指を立てられる。わたしはそのマサトくんの気迫に押されて、ぎゅうっとハンカチを握りしめた。
「…………わたし、は……」
たらりと一筋、汗が溢れる。手汗でびしょびしょの手をハンカチで拭いて、口の中をもごもごと動かすと。
「……つーかお前、本当に体操服取ったのか?」
「え」
そんなことを、聞かれた。慌てて顔を上げると、マサトくんが呆れた様な困った様な顔をしていた。
ゆうこは慌てて違うっと叫ぶ。
今ここでゆうこのことを気にかけてくれたマサトくんにも嘘をついては、どうしてもいけないと思ったのだ。
「わ、わたし、とってない! 体育も見学してただけ、ちゃんとグラウンドの隅にずっといた!」
思い切り立ち上がって、かぶりを振る。叫ぶ様に答えたゆうこの言葉に、マサトくんは一瞬驚いて。
「……じゃ、もう一つ」
三本の指に一つ、増やした。
「疑いを、晴らしたいか?」
──胸の奥に。
暗闇の道に、光明がさしたかと思った。
わたしが惨めな理由。わたしのしたいこと。わたしの今、抱いてる感情。
目の前でニヤリと笑った男の子に、縋る様に頷いた。
「くやしい」
悔しい。悔しい。悔しい。言われない罪を着せられて、言い返せなかった自分が。こいつなら何しても良いと言われている、変われない自分が。
それで結局こんなことになっているのが、ひどく悔しい!
「悔しい、悔しい!! わたし、悔しい!」
堰を切ったように感情と涙が溢れる。綺麗な青の瞳でそれを見つめてくるマサトくんに、ゆうこは縋りついた。
「わたしは犯人じゃない! わたしはやってない! それを、証明したい!」
「……よしっ!」
マサトくんが明るく笑う。笑って、ゆうこの手を取った。涙でグジャグジャになったゆうこを連れて、図書室の明るい方へとズンズン進んでいった。
「なら、そうしよう」
「え」
「犯人を見つけるか、体操服を見つけ出す! いいな、夕姫!」
そうして図書室の扉を開けたマサトくんは、まさに探偵ロジャーみたいで。ゆうこは息を飲んで、マサトくんの手を握りしめた。
「──うん!」
そうして二人は、夕暮れの校舎へと駆け出した。
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