第32話 『 執務室での一幕 』


 私の専用部屋は二つある。一つは自部屋と、それともう一つは魔王執務室と呼ばれる、いわゆる書類仕事とかする部屋だ。


 しかし私はまだ生まれて数日の子ども。当然異界語なんて分かるはずもなく、今は習得中の身にある。しかし私の肉体は身体能力、魔法適正だけではなく知識の習得の速さも尋常ではないようで、殆ど言語を理解していた。あと数日も経てば、おそらく完璧にバルハラの言語を習得可能だろう。

 言語習得がてらに書物を読むのも役立った。おかげで、言語だけでなく歴史の変遷も知ることができた。


「……お父さんが残した書物らしいけど、人間に関する本ばかりね」


 おそらく、父――アシュトは詩を読むのが好きだったようだ。この部屋に最初に訪れた時、リズは「我ら魔物で詩を読む者はほとんどおられません」と言っていた。

 リズは秘書として知識を得る必要があったからバルハラの歴史について記された本を読んだらしいが、内容が人間に偏ってよっていたせいで何度も吐き気を催したとか。


「まぁ、魔物からしたら人間の勝利の歴史なんて不快でしかないでしょうね」


 私は一冊の本――『バルハラ大全』を読みながら呟く。

 拝読すれば、なるほどリズが吐き気を催す訳だ。内容は人間族がかつて災害の化身と呼ばれていた邪竜を討った話や英雄の誕生秘話、王族の記録に革命など……魔物側にとっては見る価値もない正に『人間大正義!』な内容だった。

 これを擦り切れるほど読んでいた父が謎だ。


「――はい?」


 と不意に扉をノックする音が聞こえて、私は視線を文字から一度離した。

 私の応答に扉越しから「ミィリス」と銀嶺の鳴るような声が聞こえて、それがメルルアお母様の声だと分かった私は入室を促す。


「ごめんなさい、読書している最中だったかしら」

「いえ。ちょうど読み終わった所です」


 パタンと本を閉じて、私は執務室に入ってきたメルルアお母様に微笑を浮かべる。

 あの日の添い寝以降、私は眼前の女性を完全に自身の母親だと認識した。それはメルルアお母様も同様なようで、私たちには以前のような少し空いた距離感はもうなかった。


「何を読んでいたの?」

「『バルハラ大全』という本です」


 と答えると、メルルアお母様は「あぁ」とどこか憧憬に浸るような吐息をこぼした。


「その本、アシュトもよくこの部屋で読んでいたのよ」

「そうみたいですね。表紙が欠けていて、ページの端にシワができるほど読み込んでいた痕がありました」


 近づいてくるメルルアお母様は視線を下げると、懐かしそうに本に触れた。


「お母様もこの本を読んだことがあるのですか?」

「勿論。アシュトと一緒に……まるで子どもが童話に耽るようにね」

「リズは読むだけで吐き気がすると言っていましたよ」


 私の言葉にメルルアお母様は可笑しそうにくすくすと笑った。


「他の者にとってはそうでしょうね。……しかし、私とアシュトにとっては、大切な思い出なの」


 あぁ、と私はメルルアお母様の慈愛に満ち溢れたような双眸になんとなく察した。

 だから思わずニヤニヤしてしまった私に、メルルアお母様は照れたように頬を膨らませた。


「何ですかミィリス。その意味深な笑みは」

「別になんでもありませんよ。ただ、この本がきっかけでお母様とお父様が出会ったのかなー、と想像すると娘としては微笑ましい限りだなーと思いまして」

「アナタは時々、何でも見通したかのような達観した発言をしますね」


 メルルアお母様は頬を朱に染めながら嘆息する。

 彼女の言葉は間違ってない。この世界では私は生後一週間にも満たない赤子であれど、その実情は幾度も人生を辿ってきた〝転生者〟なのだから。この世界ではメルルアは私の母親であれど、私より長く生きてはいない。生きた年数でいえば、私は数百年生きると言われる竜と同等だろう。


「娘の成長が早くて寂しいですか」

「何を言うのかと思ったら……アナタは『魔王』なのだから、早く立派になってもらわなければ困ります」

「はーい」


 呆れた風に言うメルルアお母様に、私はくすくすと笑いながら返事する。

 こういう一時が、いい息抜きになる。

 私は明日に向けて、もう少しメルルアお母様に雑談に付き合ってもらうのだった。


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