第35話 035 凶兆


 春の小雨が降る中、霧けぶる山道を歩くその男は故郷を目指し今旅立つ所であった。


 ───結局ここも長くなかったな。


 その男、"放浪者ストレンジャー"のジャックは一か所には長く留まらず、故郷を出て以来各所の迷宮を渡り歩いていた。

 獣人の多くは人里離れた山の中に集団で居を構え暮らす。"放浪者"とはその故郷を離れる者を言い、今では特に迷宮で冒険者との死闘に愉悦ゆえつを見出す者を指す。


 己が放浪者ストレンジャーに向いてないのはわかっていた。


 『戦いにくくなっちまうな』


 先日山の酒場で会った男の言葉を思い出す。


 ───わかってんなら話かけてんじゃねえよ。


 その男と、それに応えた己を笑う。


 向いてないのはわかってる。

 迷宮で名をあげる獣人は狡猾で、貪欲で、人を全身全霊で憎みがいす者だ。

 しかし、あの男のような人間と一緒に笑うのは、存外心地良いのであるから仕方ない。


 ───あいつ、怒ってるかね。


 以前も酒場で話しかけてきた耳の長いエルフの女が居た。

 その女とはつい数時間前に殺し合い腕を斬り落とされたのだが、狼人ワーウルフの姿のまま飲んでいたジャックに何の躊躇ためらいも無く話しかけてきた。


「君!腕はもう治ったのか!?」


 自分で斬り落として、当の相手に。

 女のあまりの気の抜けた言葉と、屈託の無さに、ジャックもその場で笑ってしまった。


 女は今日旅立つ事をどこで聞きつけたのか、一方的に酒場で待ち合わせを約束してきた。ジャックは女が来る前に酒場を出立しゅったつし、霧の山道を進む。マスターには「じゃあな」とだけ、伝言を頼んでいる。


 目指すは北の故郷。何年ぶりか。

 放浪者ストレンジャーを辞めるわけではない。ほんの少しだけ、故郷の匂いが恋しくなっただけだ。自分が向いてないのはわかってる。ただ、向いてなくとも放浪者はそれなりに楽しい、それだけの話だ。



 唐突に、前方から猫人ワーキャットが駆けて来る。


「助けてください!」


 全速力で、必死の形相だ。


「先に酒場がある、駆け込め」


 ジャックはそう叫びすれ違う。


 やがて前方から、真っ黒い毛並みの、曲刀を持つ"何か"が駆けてきた。


「貴様何者だ!」


 間が抜けている。

 聞かずとも、狼人ワーウルフであるジャックは"それ"を知っている。

 何より、この世の全てを憎んでるかのようなその赤い瞳、凶兆そのものと言えるその姿、明らかに常軌を逸した"それ"が答えるはずもない。


 ジャックは戦闘態勢を取り、女の勝手な約束を袖にしたことをほんの少しだけ、後悔する。が、僅かでも時間を稼げればマスターやオーナーがこの凶兆を打ち払ってくれるだろうとすぐに思い直し、己の人生の結末に納得した。



──────────



「下がレ」


 山の酒場のマスターは魔法生物ゴーレムであるその本来の姿となり、迎撃態勢を取っていた。

 そのエルフの剣士は酒場を出ようとするが、制される。


「しかし、ジャックが」


 駆け込んだ猫人ワーキャットによりもたらされた"黒色くろいろのルガール"到来の報に、酒場はどよめいている。

 獣人にもよるが多くの獣人は武器を持たない。中型以上の獣人は己の爪で戦うことを矜持きょうじとする者が多く、とりわけ狼人は他と比べ相対的に爪が小さいため、敢えて素手で戦うを美徳とする傾向を持つ。


 曲刀使いの狼人ワーウルフルガールは人と、人と慣れ合う全ての獣人を憎む。


 大方この酒場を聞きつけてきたのであろう。この酒場は特段、積極的に人と慣れ合う場というわけでもないが、その標的にされる理由は十分にある。

 獣人が獣人らしくなく、人と慣れ合うを嫌うというその理屈は想像、理解しやすいが、それを言うなら刀を使うことだって狼人らしくないではないか。だがそんな言葉は奴には通じぬのだ。


「来たぞ!」


 血の匂いを嗅ぎ取り獣人達がより響めく。


「下がレ!」



「下がるんダ!テミス!」



 マスターが叫んだその刹那に扉が開き、テミスは首をねられた。

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