第三章 四合院古宅(1)

 人が死にかけた時に、歩んできた人生の走馬灯が目の前を駆け巡るらしい。

 陸子涼はそれを一度も見たことがない。

 毎回、彼の目の前に映ったのは暗闇だった。

 耳元に多くの声が聞こえたが。

 ぐちゃぐちゃで騒々しい。数えきれないほどの言葉が交わり、波のように押しのけ、嫌気がさす程だった。

 その中で一番よく聞こえるのは、女の人の叫び声だった。

「あああぁぁぁ!」

 その女の人は叫びながら泣いていた。

「ああぁぁやめて!彼らはまだ子供です!泳げません!うう、彼らは死んでしましまいます。そんなことしちゃいけません!やめてください──」

 酷く鋭い叫び声だが、一つの低い声に遮られた。

「……彼女を引き離して」

 いつも落ち着いているその低い声は、恩恵を施しているような口振りで、無慈悲な言葉をこぼした。

「溺死した奴はあなたに残す。生きている奴を連れていく」

「嫌だぁ……」

 女の人の甲高い叫び声と泣きわめく声が頭の中で繰り返し、彼も一緒に絶望の淵に連れ込むような感覚だった。陸子涼は苦しそうに首を傾げ、本能的にこの記憶から逃げようとした。身体もそれにつられてもがき始めたが、急にある力によって抑えられた。

 混乱する頭の中で、冷静さに満ちた声が全てを打破し、彼の名前を呼んだ。

小涼シャオリャン……」

「小涼」

 陸子涼はようやく目が覚めた。

 目に映ったのは鮮やかな緑色の芝生で、顔に刺さるくらいの近さにあった。

 暫くぼーっとしてから、陸子涼は自分が芝生に伏せていることに気付き、俯いて猛烈に咳をした。

「コンっ、コンコンコン……」

 冷たい湖水は刃のように気管を引っかき、胸元は息できないくらい痛かった。肺臓からふうふうという音が聞こえ、わずかな水を吐き出し、力が抜けるほどに咳をした。胸元を掴んで苦しそうにぐったりしていると、力強い両腕が横から彼をしっかりと抱き寄せた。

 その人は彼と同じようにびっしょりになって、全身が寒気に包まれていた。寒さに耐えず、震えが止まらない陸子涼にとって、とても身を任せるのにいい選択肢とは言い難いが、彼は流木にすがりついたように、無意識にその人の腕の中に寄せた。

 辺りに多くの人が集まり、ごちゃごちゃしてうるさかった。救急車の鳴り響く音がした後、二人がそばまでやってきて、彼を引き起こした。彼の体を一通り検査してから、幾つかの質問をした。

 陸子涼には自分が何を答えたのか覚えてなかった。ちゃんと答えたかどうかすら分からなかった。

 頭が張り裂けそうに痛くて、全身が冷たい水を吸い取ったように、重くて動けなかった。彼は全ての気力を使って苦痛と対抗していたから、他のことを気にする余裕がなかった。そんな時に、ある言葉が彼の耳に届いた。

「まずは担架に移して、病院に送ろう」

 陸子涼の瞳孔は一瞬にして開いた。

 病院に送る?

 だめだ。病院に行っちゃいけない!この紙紮人形の体が検査を受けたら、何らかの異常を示す可能性があるかもしれない。

 陸子涼は突然懸命にもがき始めた。「行かない……」

 救助人員は彼が急に拒み始めることを予想できず、一時的に彼を抑えきれなかった。二人の救助人員の制御から抜け出してから、彼は体を前に突き出し、さっきまで自分を抱き寄せてくれた人を掴んだ。

 あの人の薬指は赤い糸に巻き付けられ、明らかに赤い糸の法器に嵌められた人だ。

 ──この人が明石潭に飛び込んで、彼を助けてくれた。

 陸子涼は力を込めてその手を握り締め、まるで最後の希望を掴み取っているようだった。「俺は、コンっ、俺は病院に行かない……お願いだから助けて……」と陸子涼はかすれた声でそう言った。

 掴まれた男は何の反応もなく、陸子涼は心の中でかなり焦っていた。顔を上げると、氷山のように冷たい顔が目に入った。

 あの顔は非常に見覚えがあった。

 陸子涼は少し固まった。

 朝に見た殺人鬼らしき果樹園農家の人だった!

 赤い糸で繋げられた人は彼というわけ?!

 陸子涼は本能的に手を引いたが、またすぐにぎっしりとその手を握った。

 一度だけでも赤い糸を結んだ以上、対象を変えることはできない。例え相手が本当に彼を殺した殺人鬼であっても、精一杯に持ちこたえるほかなかった。それに相手が本当に殺人鬼かどうかは、未だに未知数だ。

 疑心暗鬼になってどうする!

 陸子涼は気持ちを落ち着かせ、男の人が自分の願いをはっきりと聞こえるように相手を近づこうとしたが、体があまりにも衰弱しているせいで、ちょっとした動きでバランスを崩し、そのまま彼の腕の中に倒れ込んだ。

「……」

 陸子涼はいっそ動くことをやめた。額を男の人の肩に当てて、軽く咳をした。「こうしているのも縁だし、助けてくれてありがとうございます。その……最後まで助けてくれませんか?あなたの家で着替えさせてくれませんか?あなたの果樹園がここにあるってことは、あなたの家もそう遠くはないはずです。お願いだから、本当に病院に行きたくありません。でも、寒いです。コンっ、コンコン……」

 男の人は無関心な顔をして、彼の願いに応じていなかった。

 傍にいる救助人員は毛布を陸子涼の体にかけて、「冗談を言わないでください。私たちが駆け付ける前に、一度呼吸も鼓動も止まりましたよ。病院で検査しなければなりません。万が一あなたが──」

 陸子涼は急に救助人員に向けて笑顔を見せた。「ありがとうございます。でも行くつもりはありません。俺は本当に大丈夫ですから。コンコンっ……そういえば、さっき、さっき水に落ちた女の子は?」彼は苦痛を我慢しながら背筋を伸ばした。辺りを見渡し、まるで今の彼はこのことを気にしているように振舞っていた。「彼女は?助かりましたか?」

 冷たい顔をしている男の人はようやく口を開いた。

「特に問題はなさそうでした。さっき彼女の母親が車で病院まで連れて行きました」男の人は立ち上がってから、陸子涼を引っ張り上げた。「行きましょう。このままだと、もう一度ショックを起こす可能性もあります」

 陸子涼の目には驚きが隠し切れなかった。

 本当に家まで連れ込んでくれるのか?

 この人は誰に対しても同情心にあふれているか、あるいは彼に物凄く興味を持っているかのどちらかだ。

 朝果樹園にいた時に、半醒半睡の間に彼の頬をもんだり、つねったりしていた手の存在を感じたことを思い浮かべた。

 ……明らかに後者の可能性のほうが大きい。

 陸子涼は何故か知らないけど、嫌な予感がした。でもよく考えれば、赤い糸がランダムで選んだ相手も偶々同性に興味があるのはありがたい。

 男の人が救助人員から毛布を受け取り、体にかけてそのまま振り返って、離れようとしたのが目に入った。陸子涼は急いで救助人員に、「ありがとうございます。本当にありがとうございます。あとわざわざ来てくれてすみません。でも俺は本当に、コンコンっ、本当に大丈夫です」と言った。

 そう言ってから急いで自分が岸辺に投げ捨てたバッグを拾い、男の人の後についていった。

 「ちょっと、あなた──」救助人員はどうしようもなく、こう言っただけ。

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