018【またね】
「では、始めましょう。覚悟はもうできました」
セレステは毅然とした目でイヴァンの腕の中から腰を上げた。その目には迷いがなく、ただ覚悟があるのみだった。セレステは柔らかい砂の上に移動し、押し寄せてくる波に向かって這うように動き、飲み込まれようとした。
しかし、その時、セレステの体が宙に浮いてしまった。
イヴァンはセレステを抱えて、彼女の手のひらを引き上げて裏返し、昨夜コンクリートで擦りむいた傷口に砂がついていることに気が付いた。
「痛くないか?」イヴァンは慎重に傷口に息を吹きかけ、汚れを払い落とした。
セレステは初めて自分の手のひらの傷口に気付き、息を吸って、両腕を縮めた「ええ……少しだけ」
「それは良かった。まだ生きてるからな」
イヴァンは再びセレステを車いすまでに連れてきて、高い崖を指差した。「あれが見えるか?死ぬ前にフリーフォールを体験してみても悪くないだろ?もう二度とできないんだ。それと、高台からの景色は綺麗だよ。つまらない死に方はやめよう、ね?」
セレステは泣くに泣けず笑うに笑えなかった。彼女は再び車いすに乗り、イヴァンに押されて険しい丘を登った。この先は車いすでは進めないので、イヴァンがセレステを抱っこしながら歩いた。
セレステは自分を抱く手の温もりを感じ、その感触と温もりを心に刻み込もうとした。
イヴァンの言うとおり、これからは想像力を頼りに、二人の触れ合いを持ち続けるしかない。
到着後、セレステは崖の縁に腰を下ろし、感覚のない足を宙に浮かせた。 セレステは、あまりの高さと強い潮風に眩暈を覚えながら、海の景色を見下ろした。
髪が乱れているのを見て、イヴァンは前に出てひざまずき、顔から髪をかき上げた。
「風に飛ばされるなよ。事故死は自殺扱いじゃない。ウエディングベールをかぶせてやりたいつもりだよ」
セレステはまた苦笑した。この死神の馬鹿げた話をこの先ずっと聞かされることに耐えられるかどうかわからなかった。
セレステは深呼吸をして、胸の中の勇気を振り絞った。そして、躊躇することなく、飛び降りるために身を乗り出そうとした。
「おいおい、待てって!」イヴァンは慌てて彼女を引っ張った。「早すぎだよ。ちゃんとお別れしないか?」
引き戻された戸惑ったセレステは、首を傾げながら返事した。「え?でも、またすぐにイヴァンさんに会えるんでしょう?」
「違う。俺とじゃない、この世界とだ」
力強い腕の温もりがセレステの肩を包み込んだ。冷たい風の中にも心地よいものだった。セレステは、イヴァンの抱擁を密かに心に刻んだ。
イヴァンは彼女を抱きしめたまま、「大変な人生だったな。今まで、お疲れ様」と耳元で囁いた。
いつもは粗野なイヴァンのその言葉が軽やかに、柔らかく、セレステの耳に届き、目から涙が止まらなかった。幸せなこと、辛かったこと、平凡なこと、数え切れないほどのイメージが浮かんできて、セレステは嗚咽をこらえた。
それは彼女の人生であり、セレステが決心して自ら捨てる命だった。
涙で視界が曇り、落下する時の漂うような感覚と体の重さがより鮮明になった。霞んだ視界に、イヴァンがいた。イヴァンが片手にタバコを持ち、もう片方の手はまっすぐ前を前に伸ばして、手のひらを外に向けていたままの姿が、セレステは見えた。
「なあ、セレステ」
そして、その冷たい顔を持つ人は微笑んだ。
イヴァンさんが自分の名前を呼んでくれたのは、記憶にある限り初めてだった。
「いつか見つけるさ」
その後すぐに、止まらない落下している感覚がやってきて、金切り声のような悲鳴をあげた。
落ちていくセレステは、必死に両手を振って落下を止めようとした。混乱した頭が整理されていく中で、ようやく最後に……
イヴァンは『またね』と言わなかったことに気付いた。
セレステは、目を見開いて、泣き叫んだ。「イヴァンさん!イヴァンさん————」
セレステは、空高く飛んでいるカモメを引っ掛けようと、その細くて美しい手を必死で伸ばした。必死に、必死に、まるで余命いくばくの人が生きようとするように必死に、自分のために存在していた。その瞬間、何百もの思いがセレステの頭の中に溢れ出した。自分が泳げないこと、鼻に水が入る不快感、読みかけの本、まだカバンの中にある友人から借りたノートなど、そして、呼吸する瞬間を、全部思い出したのだ。その一つひとつの瞬間が、本当に生き生きしていた。
その青い瞳の中に海面が徐々に広がっていくと、首の後ろから全身に、不思議な、しかしなじみのある感覚が広がってきた。それが何かわからなかった。恐怖?未練?後悔?その時、ある思いが初めてセレステの脳裏をよぎった。
おそらく、それはすべての命が消える直前に、必ず心をよぎったものだろう。
彼女はもう、自殺したくなくなった。
【死神さんの自殺契約書】 L.C/KadoKado 角角者 @kadokado_official
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