017【大海】
白い子猫を両手で受け止めた女の子は、その可愛らしい顔に笑みを浮かべた。セレステは両目が腫れていたが、軽く微笑んだ。
「この子のこと、よろしくね」
女の子が頷いたと、セレステは安心したように手を振った。
さようなら。
そう遠くない場所からクラクションの音が聞こえた。よく見ると、イヴァンが黒塗りの高級車に寄りかかり、開いた窓に右手を入れて、ハンドルのクラクションボタンを押していた。
セレステは振り返り、たばこを咥えているイヴァンを見て、思わず笑ってしまった。セレステは車いすをイヴァンに向かって少しずつ走らせ、イヴァンもセレステに近づいてきた。
二人がその距離の中間で交わると、イヴァンはセレステを抱き上げ、助手席にセレステを乗せて、シートベルトを締めてあげた。
「ありがとう、イヴァンさんのサービスは最高ですね」セレステが笑った。
イヴァンは車いすを畳んで後部座席に置き、何気なく言った。「ああ、最高のコンシェルジュの名前をアンケート用紙に書いてくれ」
昨日、セレステはイヴァンに死に方を尋ねられたとき、イヴァンをしばらく見ながら決めることができずにいたので、イヴァンは経験に基づいた説明をしていた。
「基本的に死神がいれば、他人への迷惑を心配する必要はない。俺に任せとけって、俺も半分は神だからな。吊り上げた死体はあまり見栄えは良くない。列車に轢かれたら死体回収が面倒だ。俺は睡眠薬をすすめる」
イヴァンはまるでおすすめの商品を説明するセールスマンのように滑らかに説明した。このギャップに黙り込んでいたセレステも声を出して笑った。セレステは目をつぶりながら考え、最後はため息をついて、目を開いて言った。最後まで自分をどう始末するのがわからなかったなって。イヴァンの『セールストーク』はまだ続いていたが、その時、ある美しい景色がセレステの脳内に映し出された。
「海」
イヴァンは言葉を止めて、言葉を口にしたセレステを見た。
「事故の一日前、家族全員で海に行ったの」セレステは思い出しながら「あの日、本当に楽しかったです」と言った。
肩をすくめたイヴァンに、意見はなかった。
「着いたよ──」
イヴァンが声をかけた後、考え事をしていたセレステは我に返り、車の窓を開けて、周りの景色を眺めた。岸辺を漂う白波と共に、波光る水面にはカモメのシルエットが浮かんできた。
セレステは目の前の美しい景色にうっとりしながら、小さな声で言った。
「綺麗──」
「そうだな」イヴァンはセレステを見ながらそう言った。「いい場所を選んだ」
柔らかい砂がタイヤを呑み込んでしまい、イヴァンは数歩歩いてしゃがんだ。イヴァンは面倒臭そうに砂に埋もれたタイヤを眺めた。
「大丈夫よ、イヴァンさん。ここに座りましょう」
セレステは両手で体を車いすからずらして、柔らかい金色の砂浜に横たわった。海は二人からの距離が近かった。波がスカートを濡らしそうで、上半身にかかりそうだった。
「おいで」
イヴァンはそう言ってセレステの細い腰を抱えて、自分の懐に寄せた。抱擁しながら、自分の頭をセレステの頭とくっつけた。水面をじっと見ながら、誰も一言も口にしなかった。
その静けさは、不安な心を落ち着かせた。
セレステは眼前に広がる果てしなき海を眺めながら、かつて読んだことがある本の詩を詠んだ。この詩は海から始まるのだ。
《私より、親愛なる他人へ》
波音を聴き
そよ風を撫で
頭を上げて
鬱蒼とした森を見る
そこに確かに存在したと言う
私は常に思う
自分の存在を確定する
境界と何かに
疑心を持つ
魂が証拠なのか
それとも器なのか
雄大な高山を描く筆は
描ききれない
私は
ベーコンがなぜ好きなのだろう
熱い砂浜を走ることがなぜ好きなのだろう
足裏に水疱ができると
大声で笑う
ずっとあなたがわからない、と
私は大声で叫ぶ
蚊の羽音のように囁く
私の一生は自分と妥協することを学び続けた
妥協すること
受け入れることではない
私は毎日
少しずつ消えていて
そして少しずつの他人を得て
新しい私になっていく
生き続けることは
広大な混沌と、不安に埋もれていく運命だ
されど
私、即ち親愛なる他人よ
どうか忘れないで
前へ進むことを
例え死に
憧れようとも
命とは
解体と組立の輪廻であり
私たちは常に
出会いとの別れを繰り返す
「イヴァンさん」
詩を詠み終えたセレステは、イヴァンが何も言わなくても聞いてくれていること知っているように、そっと呼びかけた。
「昔は、この詩の意味を理解できなませんでした。今になって、その意味を少し分かった気がします。確かに、人は常に自分のことを知らないし、自分は死ぬまでいつまでも他人。そう思いませんか?」
「ベーコンが好きというのに同意する」
イヴァンの予想外な返答にセレステはきょとんとしてから笑い出し、目尻に涙が溜まるまで笑った。セレステは身を乗り出して、イヴァンの腕の中に横たわった。目の前の広大な空を見てセレステは思った。世界はこんなにも大きく、こんなにも小さいのだと。昨夜のことは何も語らなかった。
セレステは涙を拭きながら、視線を向けた。「イヴァンさんは本当に不思議。すごいですね」
たばこを持つ手を少し震わせて、イヴァンは微笑む少女を見て微笑み返し、額にキスをした。
「そんな話は何回も聞いたが、お前さんのが最高だ」
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