第12話 浮世絵師

「用事は済んだかい」


 アパートの階段を降りてくると、ヘロがそう声をかけた。佐賀の部屋は二階建て長屋の二階の角部屋だ。


「ああすまない。済んだ」

 変な日本語だな、と思いつつ、階段を降りきる。ヘロと歩いている最中、たまたま佐賀のアパートの近くを通るところだったので、用事があると言ってここに来たのだ。気が変わらないうちに、あの二枚の絵を弔ってきた。


「もうここで解散しようか。英雄の仕事は、基本的に街を観察するだけなんだ」

 佐賀がアパートの階段を上っていく前、ヘロはそう言っていた。しかし佐賀は「浮世絵師も、街を観察するのは仕事の一つだ」と言って部屋に戻ると、すぐに出て来た。


「街を観察するのが仕事の一つと言っていたけど、さっき」

 歩き始めて少したって、ヘロがそう言った。ああ、と言って佐賀は答える。


「憂いの世で『憂き世』、この世は苦痛や災難ばかりだと思っていたのが、四百年前、江戸という平和な時代になって、人々は浮き浮きした世、『浮世』を見出し始めた。だから芸術も、民衆のそうした浮世に目が向けられるようになった。だから浮世絵師にとって街を観察するというのは、仕事そのものということだ」

 佐賀がそう言うと、


「なるほど。英雄と浮世絵師の仕事に共通点があったとは」

 ヘロがそう返して来るので、しかし佐賀は、「いや、街を観察している点では同じだが、俺とヘロとじゃ目的が違う。ヘロは街を見守るため、俺は絵を描くため。もし何か事件が起きても、俺は余程でない限り何もせず観察しているだろうし、何か面白いもの、例えば良いデザインの商店の看板があれば、そこで何時間も立ち尽くして観察する」


 そう言うと、ヘロは「共通点があっても、目的が違うわけだ」と言った。


 仕事の共通点。


 根本の意味で全く同じ部分が、一つあるかもしれない。佐賀は違う思考軸の中でそんなことを考える。


「それにしても絵師というのは、良いデザインの看板を見かけたら、そうやって何時間も立ち尽くすものなのかい。僕にはちょっと、理解できない」


 すれ違う人に、ヘロがサッと手を挙げる。愛想笑いをして、ベビーカーを押す若いお母さんは通り過ぎた。


「一般化して絵師全体を言うことはできないが、少なくとも俺はそういう場面になったとき、『これから先、いつ、この心の状態でこれを味わえる場面が来るだろうか』と考える。一日一日、毎時間毎時間、心の状態は変わっていくからだ。そして『その場面がこれから先に来るのは、確率としてほとんどゼロに近い』と思考が辿り着くと、『じゃあいまこの場面でそれを味わいつくそう』と思考は発展する。それで結果的に、気づけばそれを観察して何時間も経っている」


 図書館で寝泊まりした今朝を思い出す。偶然に巻き起こったあの状態は、この先どう頑張ったって容易に経験できるものではないし、だからこそその中で、面白い経験をしたと思えるようにしたほうがいい。


「それは残業かい」

 ヘロがそう聞くと、佐賀は「残業ともいえる。でも俺はその熱量でやってない。全てが本業だ」と返した。


「熱いんだね」

 ヘロはそう言った。佐賀としては、いたって冷静だった。

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