第19話 : π=3.14159……

 そんなことがあってから部室に行くと既に何人かが作業服に着替えていた。

 これから畑に向かい、作業をするのだそうだ。



「これから枝豆の種を播きます。これは自分達が食べる分だけではなく、近くの『こども食堂』や養護施設に配る物なので、今まで以上に気合いを入れて作りましょう」


 部長の号令一下、集まった部員全員で一列になって種を播く。

 座って立ってというスクワットみたいな動きをしながら一カ所に二粒ずつ種を播いていく。四十過ぎ、運動はマンションの住民専用ジムで多少やっているだけだから結構キツい。二十メートルくらいの畝を三往復する頃には腿が張ってきた。


「ハアハア、これは結構な運動だな」

「後輩君、こんなのは序の口の仕事だよ」


 柔先輩にそう言われると、この部活に入ったことを少しだけ後悔する。

 そう言う彼女の方を見れば、額にしっかり汗をかいていて、そこから目尻まで流れた跡があるのがわかる。現役女子大生でもそれなりにはきついのだろう。


「矢口先輩、これ結構キツいですよね」


 恐らく運動神経に関しては俺とどっこいどっこいと思われる蒼衣は俺以上に汗が凄い。顎からポタポタ垂れている。女性なら結構気にするものだと思うのだが、彼女はお嬢様育ちの割にはこういうことを気にしていないようだ。


「蒼衣っち、美味しい枝豆が食べられると思えば我慢できるよ。がんばろう」


 そういう重松は顔が少し赤くなったくらいで、全然汗が見えない。彼女の場合胸にとても大きな物が着いているので、この手の上下運動は苦手だと思うのだが、かなり体力があるのだろう。涼しい顔をしながら残る一列の種まきに進んでいった。



 その後、発芽直後の双葉を鳥に食べられるのを防ぐために、不織布による被覆をして作業が終わった。大した面積ではないのに、素人がやるのだから結構な時間が掛かり、今は夕暮れが迫っている。


 汗臭い服のままバスに乗るのは憚られたが、そこは周りの皆さんに目を瞑ってもらい、何とか自宅に辿り着いた。ちなみに柔先輩も蒼衣も一緒だ。


「準備ができたら連絡する」

「わかった」


 帰りが遅くなることを碧に告げてあったので、既に風呂が沸いていて、食事も用意されていた。


「ご飯にする?お風呂にする?」


 まるで新婚夫婦のような問いかけをされると、付き合っていた頃にいつかこういう会話をするかもなどと妄想していた自分を思い出す。あの頃は「お風呂で君を食べれば一石二鳥だろ」などという馬鹿な返しを考えていた──実際に使う機会はなかったが。そして裸エプロンで待っている彼女を抱いて……ムフフ……などと言う場合じゃない。


「柔先輩、先に入って」

「後輩君が先に入りなよ。私は居候だから」

「若い子がそんなに汗臭いのは気の毒だ」

「それは偏見よ。だいたい……あ、湯船に残る私の臭いを嗅ごうとしてるの?」

「そんなことする訳「こら!失礼よ。つべこべ言わず汗を流しなさい!」」


 碧の鶴の一言で、柔先輩は渋々浴室へ行った。


「ゲン君ごめんなさい。あの子、時折妙に考えすぎるから」

「良くわからないけど、今時の若い子なんてそんなものじゃないか。一緒に暮らしていれば慣れることもあるだろうし」


 慣れた時にどうなっているかは分からないけど、今のところはこの関係が破綻するようには思えない。まあ、やってみるしかないのだろう。

 何日か一緒に暮らしてみてわかったのだが、彼女は家事万能だ。ここ数日専業主婦をしてもらっているが、部屋は綺麗だし、料理も抜群に上手、おまけに家の隅々まで仄かに香りが漂っていて、帰宅した瞬間とてもリラックスした気持ちになれる。

 碧と一緒に上京しているだけの甲斐性があれば──一力の子供に「第二パパ」などと呼ばせることもなかっただろう──考えれば考えるほど情けない。


「ゲン君、柔が出たわよ」

「あいよ」



 汗まみれの髪はシャンプー一回では泡立たないほど酷く汚れていた。

 たっぷりのボディソープを付けて身体を洗い、浴槽に浸かればいつもとは違う臭いがする。

 俺は風呂に入る順番を気にしたことはないのだが、さっき柔先輩に言われた言葉を思い出してみるとこれが若い女性の臭いというものだのだろう。

 彼女の汗、額から、腕から、太股から……胸の谷間を流れる汗まで想像したら下半身がムクムクとなってきた。

 俺って案外若い──ではなく、このままじゃまずい──柔先輩を性的に見るようじゃ一緒に住めない。


 π=3.14159265358979323846264338327950288419716939937510……


 頭の中で反芻して何とかカラダを静めた。ふう。


 風呂から上がれば、食卓にの料理が並んでいる。

 チーズを乗せたハンバーグに人参のグラッセ、スパゲッティのサラダが付け合わせで皿の上にある。

 一目で感じる仄かに立ち上る湯気はそれ自体が香りを主張しているようで、ソースの隠し味になっているロゼワインがここに居ますとばかりに鼻腔を刺激し、恐らくはレモン由来の爽やかな酸味がそこに混ざっている。それだけで口内は唾液が溢れてくる。


 椅子に座る時に気が付いた。もう一人分は──同時にインターホンが鳴る。

 モニターに映っているのは蒼衣だ。


「ご相伴にあずかりに来ました」

「はい?」

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