第16話 : 寝室決め
「後輩君、お母さんのこと名前呼びって……」
食事も終わろうかと言う時に不意に柔がそう言った。
「それってどういうつもりで……」
「柔、それ以上言わない!」
ピシャリと碧が制した。
「今は私達はお世話になる身よ。ここに矢口が二人いたらゲン君だって私達に声を掛けるのに困るでしょ。だから名前呼びは当たり前じゃない。それとお父さんだってゲン君にこれだけ親切にされて感謝しているはずよ。ゲン君がいなかったら私達は今頃何処にいたことか」
「そうだけどさ……」
「柔先輩──ここではそう呼ばせてもらおうと思ってるんだけど、俺は君のお父さんのことは知らないし、知りたいとも思わない。ただ、少なくとも碧、つまり君のお母さんは俺の元カノだから知らない人間じゃない。そんな人が困っていたら助けようと思うのが人情じゃないか。少なくとも俺はそう思っている。変な下心はどこにもないからそこは安心してくれ」
これは本心だ。
碧と喧嘩別れした訳ではないから、どこかに好意らしき何かを持っている自覚はある。
だが、彼女が今でも元夫に対して愛情があるのなら、俺としてはそれを優先してあげたいし、柔先輩が母親に抱く感情も大切にしたい。
自分では、故郷を一人離れていった後ろめたさをどこかで薄めたい気持ちがあるのだと思っている。その穴埋めがこういう形でできるのであれば、俺に対して恋愛感情を持っていなくても気にしないでいられるだけの人生経験はしているつもりだ。
恋愛経験僅少のオッサンが言うには格好良すぎるかも知れないが。
「ともかく、少し落ち着くまではここにいなよ。経済的なことは心配しなくて良いから。ただでさえ着の身着のままになったんだから不安要素が一つでも少ない方が良いだろ」
「そう言われると反論できないじゃない」
「反論する必要がない話をしている」
「柔、とにかく今はお世話になりましょ。あなたも私も一番大事なのは自分の身体よ。身の安全を保障してくれる場所でこれから先のことを考えましょ──そんな訳で、ゲン君、改めてしばらくお世話になります」
「そうしてくれ」
柔先輩の年齢を考えれば、そこまで割り切った合理的な判断はできないだろう。自分一人なら何とかなる位にしか考えてないと思う。俺もあの頃はそうだったし、だからこそ東京に出た最初の数ヶ月は三徹もカップ麺だけで一週間過ごすのも耐えられたのだ。
が、俺や碧の歳になるとそうはいかない。
気力はあっても身体が全然ついて行かないことは経験済みだ。
無理に無理を重ねて体調を崩すリスクより、程良いところで妥協する安全策を選択するようになっている。
だから、今回は碧が柔先輩をリードできる関係だったのが良かったと思っている。
食事の後は寝る場所をどうするかだ。
部屋は余っているが、寝具がない。
家具付きとは言え、用意されているのはクイーンサイズのベッドが二つ。そこに碧母子が寝て、隣で俺が寝るという手もあるが、流石に女性と同室だと考えてしまう。
俺がソファで寝ることで折り合いを付けようとしたのだが、ここは碧が頑として譲らない。
「居候がベッドで家主がソファで寝る家が何処にあるの」
「別に俺は気にしないけど」
「私達が気になって眠れないわ」
碧の言っていることもわかるんだけどね。それでもここで二人をソファや床で寝させるほど紳士の道をはずれてはいない。
「近々俺のベッドが届くように手配してあるから、二、三日はそうしておいてくれ」
現代はEコマースなんて便利なものがあるから、質を考えなければ即納品のダブルベッドなぞいくらでもある。大体俺みたいな人間はそんな豪華なベッドがなくたってどこでも寝られるのだ。
「それじゃ私達の気が済まないわ」
「家主が良いと言ってるんだからそれで良いじゃないか」
昔もそんな風な会話をした記憶がある。
何の時だかは忘れたが、碧は一見おっとりしているようだが芯は強くて頑固な一面がある。
「今は俺の気持ちを優先させてくれ、柔先輩だって母親が床で寝ていたら眠れないだろう」
が、こういう時は娘を引き合いに出すに限る。
娘の躾に厳しいことの裏返しに愛情がハッキリわかるから、柔先輩だって母親に従っているのだ。娘をダシに使えばこういう時は一番効果がある──自分も随分狡猾になったと思う。
「柔のことを言われると……ゲン君も随分ずるい人間になったのね」
「それなりの経験は踏んでいるさ」
それから彼女達に一風呂浴びてもらう。
目の前にいる柔先輩は長袖のTシャツにショートパンツ姿で、太股がモロに見えている。父親ほど年が離れているとは言え、俺だってその姿に色気は感じ取っている。
自分の家として過ごして欲しいが、あまり素のままだと理性が持つかどうかわからないから、どこかで線引きをしてくれるとありがたいと思う。娘を持つ世のお父さん方はこういう煩悩と毎日闘っているのだろうか。
「さて、これからあの二人にどうやって生活を立て直してもらうかだよな」
ソファに横たわり、そんなことを考えながら寝落ちしている俺がいた。
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