第15話 : 夕食の風景

 碧の所にはひっきりなしに電話が掛かってきている。

 勤め先の施設で働いている人達からの確認や励ましのものが大半だと言うが、消防や警察からの連絡もあり、夕食時なのだがそれどころではない状態だ。

 柔先輩も同様で、こちらはSNS経由で大変なことになっているそうだ。必死でスマホの画面をタップしているのが良くわかる。

 二人とも気に掛けてくれる友人・知人が多いのが羨ましい──などと不謹慎なことを思っていたのだが、それにしても腹が減ってきた。


 この状態だと外食もままならないと思い、手持ちの食材で何かを作ることにした。

 一人暮らしには不釣り合いな超大型冷蔵庫は俺一人分なら十日分の食材を余裕で蓄えておける。ご飯はないが、パスタくらいなら茹でて市販のソースで和えるだけだから手早くできる。


 広いカウンターキッチンには贅沢な四口コンロがある。残念ながら使ったことがあるのは二口までだ。そこにパスタ鍋を置き、水を入れセットした。

 あとは時間を待つだけ──そう思っていたら、碧がやって来て何を作るのかと問う。


「私が作るから」

「碧は電話だとかで忙しいだろうから俺が作るよ」

「部屋を借りておいて家主に作らせるなんて不義理はできないわ」

「別にそんなことを思っちゃいないから」

「とにかく私が作るから菜箸を貸して」

「大丈夫だから任せておけって」


 押し問答の末、俺が負けた。

 ペペロンチーノパスタを作る予定でいたのだが、碧が冷蔵庫からトマトと鶏肉を発見して、簡易的なミートソースを作ることとなった。

 レトルトのミートソースならいくつか手許にあるのだが、それでは一つの味しか知らなくなってしまうという彼女の主張を聞き、調理を一任した。

 ダイスカットしたトマトとみじん切りした玉ねぎをケチャップで煮たところに、一旦湯通ししたこれまた細かく刻んで湯通しした鶏肉を加えて煮込んでいくとレトルトとは全然違う香りがキッチン周りに漂う。


「もう少し煮込みたいから火を見ていて貰っていい」


 ヘラでソースをかき混ぜている間もスマホは休み無しに震えていたから、履歴の残る相手に片っ端から返事をしている。

 キッチンに置いてあるタブレットでテレビの地上波が見られるようにしてあるのだが、そこでは碧達のアパートのニュースを流していた。全焼していて柱が数本残っているだけの無残な状態が見て取れる。


「こんなものかな」


 電話の合間に様子を見てもらおうと声を掛けたら、彼女がヘラに手を伸ばす。その時、僅かにズレたそれは俺の手をグッと掴んだ。


「あっ!」


 声を上げたのは俺だ。

 元カノに手を掴まれたくらいで声を出すかと言わないで欲しい。社交辞令で女性と握手することは何度かあっても、プライベートで手を重ねるのは恐らく高校生の時に碧と出かけた時以来だ。何せそれが今までの最初で最後の体験だったから、無茶苦茶鮮明に覚えている。

 あの時は、電車の中で誰からもわからないよう、手すりにつかまる彼女の手に俺が揺れた拍子を利用してわざとらしく手を重ねたのだ。

 それから二十数年……パソコンオタクなんてそんな者かと思うと情けなくて涙が出そうになる。


「ゲン君」


 小さな声で俺の名を呼ぶ彼女の顔は真っ赤だ。

 旦那と子作りだってしているだろうから、今更恥じらいなんて──などという野暮は言わない。

 身持ちの堅い彼女のことだから、ひょっとしたら死別して以来のことなのではないかとふと思った。随分悪いことをした罪悪感が湧き、「ごめん」としか言えなかった。


「気にしてないよ」


 ボソリとそう言われたが、俺はトコトン気にしている。

 自然消滅したとは言え、俺が唯一付き合ったことがある女性なのだ。元人妻であっても、昔の面影は随分残っているし、仕草にだってそこはかとない色気だって感じている。

 今、パスタにソースを掛けている姿だって、自分の嫁さんだったらと想像するとむずがゆくなるほどだ。


「できたわよ」


 無機質な白い丸皿に盛り付けられているミートソースからは、既製品とは似ても似つかない芳醇なトマトの香りがしている。これだけで食欲が非常にそそられる。


「美味い」


 鶏肉だとあっさりした味かと思えば、挽肉ではなく包丁で小さく切った肉を使っているせいか、しっかりした食感と鳥の風味をハッキリ感じる。トマトだって生から煮るとこういう香りがするものかというくらい存在を主張している。

 このソースだけだと濃厚に感じるところをパスタが上手に味を調節している。麺とソースがお互いを補完し、日本人の舌に合うようにアレンジされていると言って良いイタリアンだ。


「ふふ、介護の仕事に就く前はお弁当屋さんで調理をしていた時もあるの」


 そう語る彼女の顔は逞しく、まさに肝っ玉母さん然としている。

 やつれている感はそのままだが、その瞳はさっきまでの落ち込んでいるものではない。美味しい料理は人を元気にする力があるのだとつくづく思う。


「こら、柔、食事中にスマホをいじるのはダメだと言ってるでしょ」

「だって、みんなから「ダメなものはダメ!お行儀悪いわよ」」


 母親としての役割もきちんとこなしているのが良くわかる。

 柔は少し不機嫌な様子で、スマホをテーブルに置いた。碧はそれを自分の前に持ってきた。

 俺に娘がいたらどうしていたのだろうと思うと、碧に頭が下がった。

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