真実を見つめたその先で。 ――3――

 ぼくひとりとなった医院長室。静まり返ったその場の空気に、力が抜けて近くにあったソファーに座り込んだ。静かに開いたドアへと目を向けて、「はぁ」と息を吐く。去って行った彼女と入れ違うようにして戻ってきたのは、ぼくが見たかった顔だった。


「……悪いな、蒼起」


 足桐 笹良。ぼくと凍の保護者となってくれているこの部屋の本来の主。いつものようにだるそうな雰囲気はなく、だけれど羽織った白衣は着崩して、銀縁眼鏡の奥から申し訳なさそうにぼくを見つめていた。


「よくやった。凍を護ってくれて、ありがとう」


 笹良にも事情はあったのだろう。話せないこともあったということだ。どんな『契約』がなされているかもわからないけれど。


「凍を保護しているのって……」

「あぁ、に頼まれたことだった。眼に力を宿した凍を野放しにするわけにもいかないってことだ」


 御石さんが全てを捨ててついてきてくれたのも、きっとそのような事情があったからこそ。


「『あおくん』」


 開けっ放しにされた医院長室のドアからはもうひとり、ぼくのことをそう呼んだ女の子が顔を出した。


「瀬月……ルリサか」


 笹良もルリサもドアの外で様子をうかがっていたのだろう。閃はそれもわかっていたのか。

 心配そうにしながらも、翡翠色に光る眼を隠して彼女は俯いた。

 黙っている彼女が言いづらそうにするものだから、そこはぼくから言ってやることにした。それが、せめてものお礼でもある。


「留守番ありがとな。それと、電話でのことも」

「べ、べつにっ! 凍のためとか、そんなんじゃないから」


 照れたように顔をそらす彼女を見て、ぼくと笹良は顔を合わせて笑ってしまった。そうして、やっと――日常に帰ってきた気がしたのだ。


「おかえり」


 ぼくのことを見つめた笹良は、優しくそう言ってくれた。

 やはりこの一ヶ月の間に覚えた全てのことはここにある。だけれど、なにもわからないからって、なにも知らないでいいわけではない。ぼくは知ってしまったのだから。

 残った手がかりを携えて、「ただいま」と返事をしながら立ち上がった。


◇◇◇


 彼女が言い残していった名、『雨雲神社』。聞いたからには気にならないはずがない。調べればすぐに場所はわかった。笹良より交通費をもらい、その足でぼくはひとりで向かうことにする。ひとりで、だ。いつも一緒にいた凍は部屋に置いたまま、なにも告げずに旅へ出た。足桐医院からバスと電車を乗り継ぐだけの小一時間ほどの小さな旅ではあったけれど。

 夢で見続けたあの場所は、それほど遠い場所でもなかった。


 差し込む太陽が眩しくて、雲ひとつない青空が広がっている。

 逸る気持ちに長い石造りの階段を駆け上がった。

 こぢんまりとした決して立派とはいえない赤い鳥居が出迎えてくれて、扁額へんがくには『雨雲神社』と刻まれていた。

 静かな境内には優しい風が吹き抜けて、見覚えのある背中が見えた。腰まである長い黒髪が靡き、白い振袖に赤い袴姿の女性のものだ。

 さっさっとリズムを刻む竹箒に、はらはらと散った思考の巡りが、ぐるりと回ってひとつに繋がった。


――そうか、あの夢は……ただ、帰ってきただけだったんだ。


 ぼくに気づいたのだろう。彼女は思わずといった調子で手にした竹箒を落として、石畳の上で跳ねる音が静まった境内に響く。振り返った女性は驚いたようにして目を見開いている。そんな表情にも、続けて優しく笑いかけてくれた表情にも、ぼくは見覚えがあった。


「……おかえりなさい」

「ただいま……叔母さん」


 ぼくの記憶が戻ったわけでもない。だけれど、彼女のことはそう呼んでいた気がした。雨雲あまぐも ひびき。それが彼女の名であって、ぼくの面倒を見てくれた父の妹――。


 夢に見続けたそこは、ぼくが帰るべき場所だった。やはりどこか他人事のようではあったけれど、記憶を失くす前のぼくが暮らしていた家だった。


◇◇◇


 ぼくには三つの選択肢が残った。


 ひとつ目、そのまま叔母さんの元に、家に帰ること。記憶は戻らないのだろうと想像できたけれど、思い出したことも多々あった。神社の近くにあった家に招待してくれた叔母さんは、ぼくにあれやこれやといろいろと、そこで暮らしていたときのことを話してくれた。だけれど、やはりどこか他人事にしか聞こえなくて、そんなぼくの気持ちを察した彼女は少し寂しそうな顔をしていた。

 笹良には雨雲神社へ向かうと伝えたときから、『その後のことは自分で考えろ』と言われてしまっている。まあ、『自分で選べ』ってことだろう。だけれど、結論から言えば、ぼくがそこに留まることはなかった。彼女には「またきます」とだけ告げた。

 だからひとつ目の選択肢は消える。


 ふたつ目、そのままなにもなかったことにして足桐医院へ帰ること。雨雲神社へ訪れたことも思い出したことも忘れて、いつも通りの日常に帰る。要するに秘見弥 閃から聞いた話もあの事件の最中思い出したことも、なかったことにするってことだ。記憶喪失のただのぼくへと戻る選択肢。そうすれば、またいつもの居候、入院生活に帰ることもできたのだろう。わからないふりをしていられたのだろう。

 だけれどぼくはもう、そう考えることもできなかった。

 だからふたつ目の選択肢も消えた。


 空が夕焼けに染まる頃、足桐医院へと帰ってきたぼくは笹良にひと言「ただいま」と告げてから、ぼくの部屋の隣、足桐医院202号室へと向かった。笹良には驚いたような顔もされずに「やっぱり、帰ってきたか」と呆れられた。ぼくが厄介な選択をしたことにも気づいたのだろうけれど、笑い返しておいた。


――コンッ。


 静かに部屋のドアをノックする。「どうぞ」と透き通った声で返事がある。目は覚めているようだし、その声色からも疲れは抜けている。昨晩あんなことがあったばかりだけれども、部屋へ帰ってきて休めもしたのだろう。

 ぼくは静かにドアを引いて、部屋へと入った。

 ベッドに腰かける包帯を外した凍は、部屋の入口――ぼくのほうを向いていた。


「蒼起……」


 いつもの調子とは少し違った声のトーンで、ぼくのことをそう呼んでくれた。


「ただいま、凍」


 だから優しく微笑んで言ってやった。

 彼女の瞳からは紅い光と蒼い光が放たれて、夕焼けの影になった部屋の中に満ちている。涙に揺れる光の中で、彼女は不安そうにしながらも言葉を紡いだ。


「もう、帰ってこないかと思った……雨雲神社へ向かったって、聞いたから」


 ぼくはあえて言わないで出かけたのだけれど、笹良が伝えたらしい。


「そっか」

「帰ることもできたんだよ、元の場所に」

「ああ……そうだな」


 凍はそう言ってくれる。きっと、ぼくのことを思ってそう言ってくれている。

 だけれど、他人事のようにしか思えない、そんな在りもしないぼくの話は。

 ぎゅっと眼を閉じた彼女に連動して、部屋に満ちていた光に陰りが見えた。


「でも、ぼくが帰る場所はこっちだ」

「だって、わたしは、蒼起を巻き込んで、酷いこともして……」


 全部聞いた。ぼくの身になにがあったのか。

 だけれど、真実をたしかめるには彼女に語ってもらうしかないのだ。そこは叔母さんも教えてくれなかったから。否、きっと話せない事情がある。


「だから、『御石』のことも話せなかったんだろ?」


 ぼくが聞き返すと、凍は静かに頷いた。


『記憶のない蒼起くんに話せないことがあるんだ。彼女にも』


 正架さんはあの事件の最中でそんなふうに言っていたけれど、凍が話せなかった理由もぼくのことを思ったからこそ、なのだろう。


 あの事件を通して、ぼくは思い知らされた、彼女らが持つ魔眼の力を。彼女が継ぐ名の意味を。

 だから、知らなければならなかった。

 その最中見た光景――彼女が見せた世界の中で、ぼくはたしかな覚悟を持って、彼女に返事をしていた。


――『ごめんね、蒼起。こうするしかなくなって……』

 そう言って泣かせたのも。


――『頼む、凍。ぼくも覚悟の上だ』

 そう言って決めたのも。


 ぼくが選んだ道だった。だから知るんだ。それがぼくの見つけた真実のその先だ。ぼくがぼくで在ると証明する覚悟の証だ。


「凍、教えてくれ。どうしてぼくは、きみに記憶を奪われた? どうしてきみは、ぼくの記憶を消した?」


 それが、記憶喪失の真相だ。


「……わかった。蒼起には知る権利がある」


 顔を上げた凍は涙を拭って微笑んだ。


「はじめるよ、真実を思い出す、魔眼推理を」


 その左眼を蒼く光らせて――彼女はぼくの目を覗き込んだ。


◆◆◆


 まず、蒼起のお父様のことから話さないとだね……。

 雨雲神社に行ったってことは、会ったんだよね、響さんに。

 うん、そう。響さんのお兄さん、雨雲あまぐも かなで。それが、蒼起のお父様の名。

 本当のお母様は、蒼起を生んですぐに亡くなっているってわたしも聞いた。


 奏さんはわたしたちが七歳だったときに、わたしのお母さん、秘見弥ひみや かがやきと出会った。

 ふたりの間になにがあったかなんて、わたしたちが語るのも想像するのも嫌でしょう?

 だからその通り、蒼起も思った通りってことにしておいて。


 だけど、さ。秘見弥には厳しい『仕来しきたり』があった。秘見弥の家系に男性の名は残らない。

 どうしてだかは、わかるでしょう?

 魔眼は女性の瞳にしか開眼しない。女性優位の世界なんだよ。秘見弥っていう狭い世界は、さ。男性は女の子が生まれたらお払い箱。そんな世界なんだよ。だから、わたしにもお父さんはいなかった。

 だから、本当にたまたま。運命の悪戯だったのかも。下界に下りたお母さんが、奏さんに出会ったのは。


 下界だなんて大げさな、って思った?

 だけどまさしく、そんな感じ。秘見弥本家は天にある――なんて一説もあるくらいに、さ。その所在は明かされていない。

 うん、そうなんだよ。その場所は、わたしもんだよ。


 で、わたしのお母さんの話に戻るけど。

 お母さんは目の見えないわたしのことを思って、秘見弥本家から離れようとしていたみたいなんだよ。捨てられたなんて言うけど、だからやっぱり、捨てたようなものでしょ?

 そんなときに出会った奏さんは、お母さんが逃げる協力を申し出てくれたみたい。

 まあ、その後は今どうなっているかを見れば、想像もつくかもしれないけど……。


 秘見弥って名前は簡単に捨てられるものでもなかった。

 魔眼を守るため、全てはそのための『仕来り』でもあった。

 御石の使命があるように、命よりも重い『仕来り』だった。そんな『仕来り』を破ったら、どうなるか……。

 うん、そうだよ。本家の人間に消されたんだ。わたしのお母さんも、蒼起のお父様も。


 だけど話はそれで終わらなかった。

 裏切り者の娘で厄介者になったわたしと、蒼起の存在が、秘見弥にしたら邪魔だった。

 蒼起は全てを知ってもわたしの手を引いてくれた。だけどあの日、そんな生活にも終わりがきた。


 魔眼を持っているわたしにはまだ、利用価値があったから生かしてもらえるけど、蒼起は……。

 うん……わたしから言いたくない……。その通りだよ。そう考えた通り。


 秘見弥を世に放つわけにはいかない。だからその所在も隠し通される。本家の場所を知っている可能性があったわたしたちは、危険因子だったってこと。


 だから、忘れることにしたんだ。なにもかも。知らないと示すために。

 わたしは自分の記憶から秘見弥本家の事を消して、蒼起はそんなわたしの覚悟に則って、全てを忘れる覚悟をしてくれたんだよ。


◇◇◇


 それが凍の語った真実だった。ぼくの忘れてしまった覚悟だった。

 彼女に語らせるには酷ではあったけれど、それでも涙を流しながらぼくの目を見て全て話してくれた。

 ぼくはそっと近づいて、ベッドに座る彼女の頭を抱えるように抱きしめる。嗚咽を上げて泣き出した彼女は、いつもの凛としている立ち姿からは想像できないほどに弱々しく思えた。

 秘見弥の名と強大な力を継ぐ彼女でも、それが凍というひとりの女の子なことに変わりはない。


 ぼくが帰ってこなかったことを想像したのだろうか。失くした記憶の中の悲劇を思い出したのだろうか。ぼくに対する贖罪でもあったのだろうか。それとも、あの事件の最中起こったことを思い出したのだろうか。


 我慢していたものを吐き出すようにして、ぼくの背中に手を回した彼女は胸の中で泣き続けた。

 ただぼくはそれを受け止めて、彼女が吐き出し切るまで受け止めて――。

 沈む夕日に暗くなる部屋の中で揺れた、薄い紅い光と蒼い光を見つめていた。


 凍が持つ瞳には、人の記憶を消してしまうほどの力がある――。心に潜るというその蒼い眼は、使い方によってはそうまでできてしまうということだろう。

 あの館で事件に巻き込まれたとき、凍の覚悟が見えた瞬間があった。凍は真っすぐと向き合うことで彼女たちを救おうとした。ぼくを救ってくれたように。

 事実を歪める魔眼の力。その力をそう語ったのは凶行に及んだ彼女の言葉ではあったけれど――。だけれど、凍はいつだってその眼で真実を語り、真っすぐと向き合っている。


――『そこにある真実を見届けるために』


 その言葉に嘘はない。ならば――ぼくにとって彼女はなにで在ったのか。


 ぼくは彼女の杖であり、彼女はぼくの杖だ。これからも彼女の手を取ってあげるのが、道理ってものだろう。そう思ったら自然と笑みがこぼれて、ぼくはぼくで在った気がしたのだ。自分自身を見失ってしまっても大丈夫――今はそう思える。

 だからぼくは、全てを忘れたつもりになっても、凍のことを忘れられなかった。


 ベッドの上には真新しい白い包帯の束が丸めて置かれていた。そっと拾い上げると、涙を拭いて顔を上げた凍は優しく微笑んで背中を向けた。

 ゆっくりとそれを彼女の目元の辺りに巻いてやる。夕日が沈む中でくるくると、暗くなってゆく部屋の中でするすると。やはりぼくがやるときれいに巻けたとは言えなかったけれど、蝶々結びにしてやれば、月明かりに照らされた部屋の中でその結び目が嬉しそうに揺れていた。

 振り返った彼女はそれを確認するように手で触れて、やんわりと微笑んだ口元で「おかえり」と言ってくれた。だからぼくはいつもの調子で、「ただいま」とこたえてやったのだ――。


 少し変わった事情でその眼を見つめてしまったから、ぼくは道を踏み外した。だけれど、きみと手を取り合えば、どんなに暗い世界でも見通せる気がした。その先に道が続くと思った。

 だからぼくは、きみと在り続けることを選んだのだろう。



                             ――――fin.


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魔眼推理の見つめる先に。 ~夢の館の二重密室~ よるか @yoruka_kaku

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