世の中わからない
眩しい光に向かって片膝をつく。
拳は右手。それを上から左手の掌で包み、揃えて顎の下へ。
キンと空気の張り詰めた朝。バルコニーの上で、黒髪の乙女はそうして瞳を閉じていた。
祈りの姿勢であることは、疑う余地もないだろう。社や偶像がある訳でもないのに、不思議と厳かで神聖なように思えてくるのだから。
「……朝から珈琲を片手に覗きなんて、感心しないわよ?」
「すまない。そんなつもりはなかったんだが」
悪戯っぽい琥珀色の半眼に射られ、僕は湯気の上がるアルミマグを片手に頬を掻く。
「君が祈っている姿は初めて見たな。随分と凛々しいものだ」
「大袈裟ね。これくらい誰でも――いえ、神代人からすれば特別なのかしら?」
祈りの手を解いた彼女は、黒いバトルドレスを翻してこちらへ向き直る。クールビューティとダマルが呼ぶだけあって、昇る朝日まで背負う女騎士様は絵画のようだった。
それが微笑みかけてくるのだから、身内と見ていても緊張するなというのは難しい話である。僕は熱くなりそうな頬を誤魔化すように、わざとらしく珈琲を啜って胸を落ち着かせねばならなかった。
「そう、だなぁ。昔も信仰は色々あったし、祭りや行事も話題には上がっていたが、大半の人は冠婚葬祭以外で意識することはなかっただろう」
「キョウイチはどうなの? 他の人と同じだった?」
「まさしくそういう典型例だよ。何せ、兵隊として祈る相手は神仏よりも味方の砲兵、手を重ねるべきは数珠教典より銃把だったから」
現代の純然たる信仰からすれば、全くもって無粋なもののような気がして苦笑が零れる。それでも、自分には制圧射撃の大きな効力こそ神に等しい存在で、補給整備が完璧な武装兵器の類こそ神具であり、他の何者も戦場には介在しないと思っていた。
故に、マオリィネが困ったように笑うのは当然だろう。
「罰当たり、と言うべきなのかしら? そのホーヘーとかが何かはわからないけれど」
「君のように敬虔な祈りを捧げる人からすれば、そうかもしれないなぁ」
「よしてよ。私なんて、敬虔とはとても言えないわ。ベイロレル神の神殿にも長く行っていないし、朝の祈りにもノービリスの枝葉すら持って来ていないのだから」
「そのベイロレルという神様の信仰は、結構一般的なのかい?」
以前にも神の名は聞いたように思うが、興味の薄い内容を覚えていられる程、自分の頭は高性能とは言えない。こと、記憶面においてはまさしくポンコツもいいところなのだ。
はて、と首を傾げた僕に対し、目の前でふわりと長い黒髪が浮き上がる。彼女の癖、と言えばいいか。どことなく甘い香りが鼻を突いた。
「私たちみたいな騎士の間だと普通、というかベイロレル以外を中心に信仰する人は滅多に居ないわ。戦に出ない民たちにとっては、あまり馴染みもないでしょうけれど」
「成程、戦神ということか」
邪念を振り払うように、顎へと手を添えて思考の中へ潜り込む。
農兵ならばともかく、専業の農民や商人からすれば、確かに戦神とは縁遠い存在だろう。以前、民衆の間では某宿屋の看板娘と同名である女神ヤスミンが人気だと聞いた気もする。
「もしかして、今の神様に興味でも湧いたの?」
「え?」
考えこむ自分は、相当真面目腐った面をしていたのだろう。マオリィネの声にハッとすれば、意外そうな表情が下からこちらを覗き込んでいた。
「あ、あぁいや、神様そのものに興味はないよ。ただ――」
マグカップを揺らして、一息。
「今の文化を知っておくのは、悪いことでもないだろう?」
■
「んぇ? 信じてる神様ッスか?」
アポロニアから受け取った洗濯物を、前庭に張られたロープへとかけながら、うんと頷く。
手伝いの傍ら、何の脈絡もなくそんなことを口にしたのが悪かったのだろう。太い尻尾をした小柄な彼女は目を点にしていた。
一方、カタカタと軽快な音を立てたのは、自分のメカニカルグローブを桶で洗っていた骸骨である。
「なんだなんだ? 今更この世に嫌気でもさしたか?」
「ただの興味本位だよ。今朝方、マオリィネとそんな話になってね。アポロやファティにもそういうのはあるのかな、と」
自分の名前を呼ばれたからだろう。空になった洗濯籠を抱えて、洗面所へ戻ろうとしていたファティマは、ぐるりと肩越しに顔を回し、誰かのを肌着を握っていたアポロニアも、そういうことかと納得したように口を開いた。
「自分はロズマリッスかね。約束とか契約の神様ッスよ」
「え? シトリオドラじゃないんですか?」
どちらも聞き覚えがあるようなないような。仮に聞いていたとしても、どこかで会話の端に出ていたのを聞いたくらいなのだろう。
意外そうに傾いた猫娘の頭に、小柄な犬娘はムッと表情を固めて腰に手を当てた。
「そこまで博打全開で生きてないッス。というか、犬の類でシトリオドラ選ぶ奴はだいぶ変態ッスよ」
博打全開と、言われて珍しくピースが嵌った。シトリオドラというのは、確か運勢を司るような神様だ。
確かに博打好きのアポロニアなら、そちらを選びそうではある。ただ、現実としては既に彼女の言った通りということだろう。
「カラやアステリオンは誠実で忠実だと聞いたことがあるが、種族の特性的な部分も関係が?」
「そんな感じッスよ。まぁ、自分はきっちりお祈りとかする方じゃないんで、あんまり胸張れないんスけど」
照れたように笑うアポロニア。今朝方マオリィネも自分は敬虔などではないと言っていたが、どうやらその感覚には貧富なのか種族なのかで差があるらしい。
「お前の胸なら、十分どころか十二分に張れてんだろ。特に最近は」
「……なんで、また育ったこと知ってるッスか?」
ギギギ、と軋むように振り向いた犬娘が、どんな表情をしていたのかはわからない。ただ、髑髏が全力で顔を背けた辺り、見ない方がいいのだろう。
僕には気付かなかった。むしろ、そんな変化に気付けるものなのだろうかとさえ思ってしまう。
――まだ大きくなるのか、これが。
吸い寄せられそうになる視線に、奥歯を噛んで抗う。自分だって男であり、興味がないなどとは口が裂けても言えないが、スタイルの話に触れることが余計な火種を生む原因となるのは、先刻ご承知なのだから。
「ふぁ、ファティはどうだい?」
あまりにも露骨に話題を戻す。ここで助かったのは、ファティマが骸骨の言葉を聞き流していてくれたことだろうか。
彼女は、んー、と唇に指を添えながら考え、最後には真顔のまま。
「強いて言えばラジアータ、でしょうか」
と、言った。
これに尻尾の毛を立てたのは、今までダマルの方を睨み続けていたアポロニアである。
「うぇっ!? め、珍しいッスね。死神を崇拝するなんて」
「死神?」
今度は聞き覚えのない神の名前。それも死神という、下手をすれば痛々しい雰囲気に首を傾げれば、アポロニアは言いにくそうに後ろ頭を掻いた。
「ラジアータって言うと、こう、死者が行く地底の世界を統べる王女っていう感じで、言い方悪いッスけど不吉な印象が強いんスよ。だから、葬儀の時とかはともかく、普段から信仰してる奴は珍しいっていうか……」
葬式専門の神、とでも言うべきか。普段は死を遠ざけるために忌避され、それでいて今際を迎えた時にはソイツに連れて行ってもらうしかない。なんともジレンマを抱えた信仰であろう。
しかし、何故敢えてその不吉とも言われる神をファティマが信仰するのか。そこが気になって彼女へと視線を送れば、猫娘は長い尻尾をゆーらゆーらと揺すっていた。
「あくまで、強いて言えば、ですよ。ボクは神様の種類とか、お祈りの仕方とか、あんまり知りませんし、興味もないので」
「そんなものかい」
「だって、神様にお祈りしたって、お腹は膨れませんし、檻から出してもらえる訳でもありませんでしたもん」
迷信とまでは言わないが、スピリチュアルで形のない信仰よりも、物事は即物的に考える。奴隷として苦しい生活を強いられていた頃の経験が、彼女の信仰を作り上げているのだろう。
多少驚きはしたが、ある意味800年前と近いような感覚に、ダマルもハァと顎を落とした。
「なんつーか、思いのほか現実主義者なんだな、お前」
「そういうダマルさんはどうなんですか?」
「あぁん? 何が?」
「神様ッスよ。なんか信じてたりするんスか? 今でも昔でも」
言われてみれば、僕も少し気になる。
何かと多趣味で、オカルト的な部分にも造詣が深い相棒のことだ。何かしらの信仰、あるいはそれに準ずる学門を専攻していてもおかしくないように思える。
集中する全員の視線。それに対しダマルは。
「神を信じてるような奴が、こんなスーパー冒涜ボディになると思うか?」
カラリと鳴った骨格標本。これほどまでに説得力のある言葉もないだろう。
「あー、それもそうですね」
と、ファティマが言うのもむべなるかな。アポロニアはカラカラ笑いながら、籠から洗濯物を引っ張り出した。
「むしろ、ラジアータからものすんごい祝福とか貰ってそうッスけどォ?」
「死神の接吻なんざ欲しかねぇよ」
「女神でもッスか?」
「顔とスタイル次第で、考えなくもねぇな」
コロコロと表情を変えるのは、快活なアポロニアの魅力だと思っている。
ただ、その表所が突如スンと消えたのを見た瞬間は、自分に向けられていなくても少しだけ背中が冷たくなった。
「もうホント、この世で見たことないような罰とか全力で当たって欲しいッス」
相棒の身体を見る限り、既にこの世の物とは思えない罰に当たった後のような気がしなくもない。と言いかけてやめた。敵意もない相手に、妙に説得力のある現実を突きつけるのはよろしくない。
「何の話?」
キィと鳴った玄関を振り返れば、こちらへ歩み寄ってくるシューニャの姿が目に入った。首と肩をぐるぐると回している辺り、本を読んでいたか書き物をしていたかで、身体が凝ってしまったのだろう。
「神様のことですよ。おにーさんが知りたいって」
話題の始まりをファティマが告げれば、シューニャはピタリとその動きを止める。なんなら、無表情の中に困惑の感情が渦巻いたのが、遠巻きにもよくわかった。
「……キョウイチが、信仰を始めようと?」
どうにも、僕が何かを信仰し始める、という部分は、現代人たちにとって違和感でしかないらしい。
同じ内容の問答が3回目ともなれば、流石に肩を竦めるくらいしかできない。
「ただの興味だよ。シューニャにも、そういうのはあるのかい?」
翠色の瞳に浮かんだ一瞬の疑念。というよりは、心配と言った方がいいだろうか。
しかし、僕が普段と変わらぬ様子であることを見て取ったのか。シューニャは表情こそ変えないものの、安堵したように肩を落としてから、ポンチョの裾をピッと伸ばした。
「私たち司書は祖先崇拝。古の約束を作ったとされる、開祖を崇めるのが普通」
どうやら、司書の谷は他から独立した信仰体系らしい。ほほうと骸骨が顎を撫でた。
「ご先祖様が信仰の対象ってか。原始的っちゃ原始的だが、別に珍しいことでも、ねぇ……が?」
暗い眼孔と視線がぶつかる。多分、否間違いなく、僕とダマルは同時に1つの疑念へと行き当たったのだ。
「それだと、リッゲンバッハ教授ってことにならないかい?」
司書の谷を拓いた者。800年前に起こった事を追体験することはできないが、あの人格プログラムの言に嘘がないとすれば、ガーデンからシンクホールに人々を送り出し、始まりを築いたのは、カール・ローマン・リッゲンバッハその人に他ならない。
どうなんだ、と僕とダマルは揃ってシューニャを見た。
「ん、そうなる」
揺ぎ無き声。それはつまり、シューニャが明確な答えを持っている証左だ。
むしろ自分達からしてみれば、動揺するなという方が無理な話なのだが。
「あ、あの禿頭赤ら顔の爺さんが、言葉通りの崇拝対象になるとは……」
「いやまぁ、昔っからマキナ開発の神様ではあったがよォ」
「私もまさか、開祖様と喋れる日が来るなんて思わなかった」
神様は神様でも、言葉の意味が大きく異なる。
リッゲンバッハ教授が、最先端技術の分野で天才的な人物であったことは揺るがぬ事実。しかし、日常では一升瓶を抱えて飲んだくれ、その所業から孫娘に尻を蹴っ飛ばされるような、実に俗っぽい人物だったのだ。
それが今や、開祖様と呼ばれて崇め奉られる存在とは。もしもこの場にストリが居れば、彼女は笑い転げるか、頭を抱えて
「よ、世の中わからんね……」
「ん、わからん」
僕の真似をして、シューニャは小さく頷く。
現代文化のお勉強は重要かもしれない。だが、精神衛生的に触れない方がいい部分もある、ということがよくわかった。
供物として酒を持ってこい。君も飲め。そう言ってガハガハ笑う老人の声が、僕は脳裏にこびりついて、暫くの間離れなくなってしまったのだから。
――朝の神々しさ、返ってこないかなぁ。
悠久の機甲歩兵 エブリデイライフ 竹氏 @mr_take
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