第6話









 午後は、運動。

 孤児院の庭は広大だ。大人でさえ乗り越えられない高さの煉瓦の壁に覆われ、外界のスラムと切り離されたこの庭は、三十人ほどの少女たちが一同に身体を動かしても、なお余る。


 今日は組手を推奨された。


「何事も、できることが大切なのです。する、しない、はその時の状況を鑑みなさい。貴方たちに求められることは多岐にわたります。なんでもできるようになりなさい。そうすれば、幸せになれるでしょう」


 二人一組となって、軽く手足を打ち付け合う。顔面に当てるのは禁止。痣が残るような強い一撃も禁止。禁止だらけの中で、己の筋肉を鍛え上げる。


 禁止ということは、ダメだという事。つまり、怒られるようなこと。叩かれるという事。

 でも、故意と恣意では違うよね。


 私は他の子と比べて、運動神経が抜きんでていた。他の組ではたまにお互いを傷つけあって怒られることがあったが、私は一度もそんな粗相を引き起こしていない。相手の動きははっきりと目で追えるし、自分の動きも予想通りに制御できる。


 怪我をしないように動くことは簡単。

 だから逆に、相手の子の掌底を顔面に受けることも簡単だった。

 偶然を装って、正確に失敗できた。


「きゃああああっ」


 その子は大げさな声を上げて、私に近寄ってきた。「ご、ごめん、大丈夫?」

 鼻っ柱が熱いのを感じていた。どくどくと血が熱量をもって押し寄せ、目頭を熱くする。顔全体に、じんじんと疼きを与えてくる。


 痛い。

 今、 私には、痛いが、”ある”。

 血の味がある。鉄の匂いのようだった。

 何もないよりかは、こっちの方が良かった。


「うふ」


 思わず漏れた言葉に、意味はなかった。

 ただ、私からあふれ出たのだ。

 私の中にも、何かがあったのだ。


 少女の悲鳴を聞いて職員が寄ってきた。私の顔を見てぎょっとする。

 ぼたぼたと、私の鼻から赤色が流れ出て、足元の地面を赤黒く染めていた。


「やってしましました」


 うまく話せない。

 申し訳なさそうな顔を作って、「失敗したのは、私です。ごめんなさい。だから、叩くなら私を――」


「この馬鹿!」


 けれど、平手打ちされたのは、相手の子だった。

 思い切り叩かれ、その子は地面を転がっていく。


「この子は、貴方とは違うのよ! 貴方が死んでも代わりはいるけど、マリアの代わりはどこにもいないの!」

「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 丸まってうずくまる少女に、四方から鞭ではなく、蹴りが与えられていた。総勢三人の大人による暴力。はた目から見ても、手加減はなかった。

 茫然とする私の鼻に、布が当てられた。


「可哀そうに、マリアちゃん。痛かったでしょう。大丈夫? 鼻の感覚はある? 曲がったりはしていない?」

「……大丈夫です」


 自分の鼻なんか、どうでもいい。

 予想外の結果に、頭がついていかない。


 がつがつ、どかどか、ばきばき。

 目の前にあるのは、蹂躙だった。服が破け、体から血が出て、四肢に青あざができるまで蹴られ殴られる少女。もうすでに嗚咽すら聞こえてこない。


「これでマリアちゃんに傷が残ったら、貴方は廃棄よ」

「……ごめん、なさい」


 蹂躙は終わった。鼻を鳴らして、職員は散っていく。何事もなかったかのように指導に戻る者、私に近寄ってきて甘い言葉を吐く者。

 結局私は部屋に運ばれ、職員が使うふかふかのベッドに寝かされ、その日は安静にしておくよう申し付けられた。


 眠れはしなかった。

 してはいけないことをしてしまったようだ。

 これはやってはいけないことだったんだ。


 ねっとりと脳の底に張り付く黒くねばっこい何かは、私を眠りから引きはがし、代わりに不安な心と同居させた。


 鼻は問題なかった。翌日には痛みも引いていた。

 後日、少女に声をかけた。あざだらけになった顔は、ひどく怯えていた。


「ま、マリア……」

「ごめんなさい、私のせいであんなことになっ」

「いい、いいのよ、マリア。私が悪いの。だから、近づかないでくれる? 私と一緒にいたらだめだから」


 怯え、震え、その子は去っていった。

 また、私の近くから人が消えた。

 罪悪感と孤独感が胸中を覆い尽くす。

 

 やっぱり私は求めてはいけないのだ。

 黙って”求められる私”を演じていなければいけない。


 修道院には、訳アリが集まる。誰もかれもが、”外”では普通ではないらしい。


 でも。

 じゃあ。

 そんな訳アリの中で、私はいったい何なんだろう。



 ◇



 たまに、魔術の日がある。

 魔術というのは、へその下あたり、丹田に力を入れて異能を引き起こすもの。

 火を起こしたり、水を出したり、用途は様々。


 魔術は才能に依るところが大きくて、できる者とできない者がはっきりと分かれている。

 だから、魔術の授業だと言われて集められた子たちは孤児院の中でもたった二人だった。


 私と、イヴァンだけ。他と異なるのは、私とイヴァンだけ。

 二人しかいないけれど、二人もいる。

 イヴァンが隣に居れば、私の心臓は穏やかだった。


 孤児院の中で唯一魔術を扱える修道士は「魔術を扱えるのは、とっても珍しいのよ」と言って笑った。


「マリアちゃんも、イヴァンも、神から良い才能をもらえたのね。魔術が扱えること、それはとっても素敵なことなの。色んなことができるようになるわ」

「水がないところでも水を飲める。つまりは水を飲めなくて死ぬことがないということですね。火が無くて生肉を食べることも、真っ暗闇で膝を抱えることもないと」

「……うーんと、多分ね、マリアちゃんは今後そうなることはないと思うわ」


 修道士は顔を引きつらせていた。

 孤児院の外では色んな事が起こると、噂話でよく耳にする。絵本の冒険譚の中でも、登場人物が諸事情で困っている場面はよくあった。孤児院を出た後そうならない保証はないと思うけれど。


「じゃあ私は?」


 イヴァンが意味ありげに口角を吊り上げて聞いた。「今後、困らない人生を送れるの?」


「……」


 修道士は応えない。一瞬だけ、感情を落としていたのは見逃さない。


「やっぱり、そういうことなんだ」

「いえ、そういうことではなくてね。お披露目会次第よ。良い人に巡り合えば、貴方もきっと幸せになれるわ」

「……そだね」


 イヴァンは紅い目を伏せた。

「どういうこと?」と私が尋ねると、イヴァンは寂しそうに笑った。


「マリアは特別だってこと」


 特別。

 普通一般のものとは別扱いにするのがよいこと。それほど違う事。


 ぞっとした。不安、不安、ふあん。

 私は、他の子と違う。

 普通ではない。


 それはわかっていたけど。

 なんで貴方がそんなことを言うの?

 私は、一緒だと思っていたイヴァンとも違うの?


「……なんで?」


 にっこりと、殊更に微笑む。

 ほら、私は普通でしょう? これは、人間の微笑みでしょう? 何か違うの? 間違っている?


「マリアは綺麗に笑うよね」


 イヴァンに、線を引かれたような気がした。

 見えないけれど、見える線。


 なぜかわからないけれど、涙が出てきた。

 鼻に拳が当たった時より、もっと痛い。


「……、なんで?」


 一筋の液体が頬を伝うと、修道士が慌ててハンカチでそれをぬぐった。しかし、私は微笑んだままイヴァンのことを見つめ続けた。


 貴方と私は、一緒でしょう?

 一緒だと、言って。

 言って!


「ごめんね、意地悪言った」


 イヴァンはいつもの笑顔になって、私と手をつないでくれた。

 私はそれを反射的に強く握りしめた。


 一緒、一緒、一緒。

 私とイヴァンは、一緒。

 他の誰と違っても、貴方だけとは一緒なはず。


 だよね?



  ◇



 私は夜、イヴァンの布団に潜り込む。

 イヴァンは吸血鬼。夜行性だ。昼間はずっと眠そうにしていて、身体を動かさない限りは基本寝ている。代わりに、月明かりが出ているときは本を読んだり、悪戯を画策している。


 暖かいイヴァンの肌に、自分の肌をこすり付ける。

 今日ばかりは、そうもしないと、壊れてしまいそうだった。夜の色に自分が溶け出して、そのまま星になってしまいそうな不安があった。


 他人事ながら、犬がマーキングしているよう。

 自分のものだと誇示するように、自分と同じ匂いに変えるように。


「マリアは甘えん坊だねえ」


 窓から差し込む月光の下、紅い瞳は私を射抜く。

 触れて舐めて嚥下したいくらい、綺麗な目。見とれてしまう。


「ねえ、イヴァン。貴方は特別よね?」

「孤児院の他の子に比べたらね。吸血鬼っていう、中々いないらしい覚醒遺伝起こしちゃってるから。そうじゃなかったら捨てられてないんじゃない?」


 捨てられてなかったら、ここにはいない。

 私は彼女の腕を強く抱きしめていた。


「いや。イヴァンは、ここにいて」

「ここにいるじゃん」

「ずっと。私の傍にいて」

「甘えん坊マリアめ」


 呆れたような顔のまま、私の頭を撫でてくれた。

 胸が暖かい。皆が口にする、幸せという感情。よくわからないけれど、一番しっくりくるのが、この瞬間だった。


「でも、マリアだってそうじゃない? 特別じゃなかったら、ここにいないでしょう?」

「じゃあ、私は何なの?」


 皆との違い。

 可愛いと褒められる。頭がいいと、運動ができると、魔術が扱えると、皆が称えてくる。


 それだけ。


 イヴァンのように銀髪、紅眼といった際立った見た目の差異はない。吸血鬼のような分類はない。

 じゃあどうして私は特別なの? 何が特別なの? 私はナニなの?


 不安になる。

 自分のカタチがわからなくて、自分が何なのかわからなくて、自分が何をするのかわからなくて。


 積み重なって、どろどろと黒いもやを胸中に呼び起こす。

 きっと、神様の造った図鑑の中に私の名前はないのだ。

 神にすら見捨てられた世界の異分子が、私なのだ。


「マリアはマリアでしょ。それ以上でもそれ以下でもない」

「……じゃあそのマリアって何? なんて説明すれば、マリアなの?」


 銀の髪で赤い目で吸血鬼の覚醒遺伝で、面倒見が良くて私より一つ年上で笑った時の犬歯が可愛くて、たまに大人びた顔で達観したことを言うのが、イヴァン。


 じゃあ、私は、どう言えば私ってわかるの?

 可愛くて、頭が良くて運動ができて魔術が扱えたら、私なの?


 他にいくらでもいる気がする。それらが全部私なの?

 わからない。わからなくて、わからなくなる。マリアのゲシュタルト崩壊。


「まったく、困ったマリアだなあ。あのね、マリアは難しく考えすぎなの。いいんだよ、楽しいことだけ考えていれば。明日のご飯のこととかね。ほら、マリアは吸血鬼じゃないんだから、眠いでしょ。もう寝よ」


 イヴァンは本を閉じて、布団の中に入り込んだ。優しく私を抱きしめて、紅い瞳に帳を落とす。


 どうせなら。

 私はイヴァンと同じ吸血鬼になりたい。

 特別な中でも、誰かと同じ特別になりたい。


 そうすれば、きっとこんな悩みは抱かないのに。

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