第5話






 孤児院の一日は早い。

 鶏の鳴き声と共に起きだし、各々が己の当番を全うする。


 今日の私の当番は、飼育小屋の掃除だった。同じく掃除を言い渡されたアンナという少女と共に、庭の隅の小屋の中、鶏を追っ払いながらせっせと箒を動かす。


 鶏は、好きだ。

 私を見ても気にしない。他の子と同じように逃げてくれる。

 私を人だと認めているのだ。


「ふふ……」


 漏れた声に驚いて、思わず私は頬に手を当てた。口角が持ち上がっている。


 笑ってる。

 自然に笑ってる!

 やっぱり私は人なんだ! 良かった!


「マリアは今日も笑顔が綺麗だね」


 アンナが塵取りと共にやってきた。私の傍でかがんで、糞やごみをとっていく。


「アンナさん。私の笑顔はきれいですか?」

「ええ、とっても。羨ましい」


 そばかすが可愛らしいアンナは十二歳、少女たちの中では最年長だ。

 柔らかい微笑みをくれながら、


「私、もう少しでここを出ていくんだ」


 この孤児院では十二歳を目安に少女を巣立たせていく。

 少女たちは里親を見つけて、新しい生活へと足を踏み出していく。


 私は自分よりも頭一つ高い顔に、頭を下げた。


「それは、おめでとうございます」


 特に感慨もなかったので、皆が言っている定例文を返す。

 何がおめでとうなのかはわからない。ここから出ることは嬉しいの?


「それでは、行き先も決まったのですか?」

「うん。この前のお披露目会で、私を気に入ってくれた人がいたんだって」


 アンナは、嬉しそうに、けれど不安そうにはにかんだ。

 不安そうな顔が気になった。こういう場合は、素直に喜んではいけないの?


「それは……、おめでとうございます?」

「ああ、ごめん。混乱させちゃったかな。うん。多分嬉しいことなんだろうね。私をほしいって言ってくれた人がいるってことは、親に捨てられたこんな私にも生きる価値があるってことだから」


 どくん、と。

 私の心臓は音を立てた。


「生きる価値、って?」

「私が次の行先を持ってるってことは、私が求められているってことでしょう。それはつまり、まだ私にはやることがあるということ。生きていてもいいってこと」

「求められることが、生きる価値なんですか?」


 胸中を、薄暗い何かが過った。足の多い虫が私の心の中を這いずり回る。

 私は、求められているのだろうか。求められていないから、家族がいないのではないのだろうか。求められるような価値がないから、誰も手を差し伸べてくれないのではないだろうか。人の真似事一つできない無能な存在だから、こうも不安で、特別だなんて言われるのだろうか。


 嫌な、気持ちだった。


「私の意見だけどね。少なくとも、ゴミみたいに見られるよりもずっといい」


 アンナは何かを思い出すように、顔を伏せた。それから、そんな雰囲気を払しょくするように、にっこりと笑った。


「マリアには関係ないことだけどね。マリアは可愛いし、優秀だし、皆が求めてくれるよ。ただ!」


 頬をつままれ、上方向に軽く引っ張られた。


「せっかく可愛いんだから、もっと笑っていた方がいいよ。マリアの笑顔は天使のようだから、きっと周りを幸せにできるよ」


 言われた通り、私は口角を上げた。目を細めて、小首をかしげる。


「こうですか?」

「なんだ、できるじゃん。そうだよ。とっても可愛い!」


 アンナは私に抱き着いてきた。ぎゅうっと抱きしめられ、よくわからない感情が差し込まれる。

 悪い気はしなかった。


「マリアはきっと、皆を幸せにするよ。だから、笑っていてね」

「はい」


 私は中身の伴わない笑顔でもって応えた。



 ◇



 朝食を終えると、午前は勉強会を行う。算術や裁縫、礼儀など、生きていくうえで必要な行為を脳に叩き込まれる。


 どれも”外”で必要なことらしい。音を立てずに食事をすることも、優雅に一礼することも、淑女としてできて当然なのだ。


 どうしてもうまくできないと、ここに来たばかりの子が泣いていた。その子には鞭が与えられていた。「いたいっ」大声で泣き叫ぶその子が、私は羨ましかった。


「マリアちゃんはなんでもできるのね」


 他の子よりも幾分と早く裁縫を仕上げると、修道士が寄ってきて褒めてくれた。

 私はにっこりとほほ笑む。


「他の子もマリアちゃんを見習いなさい。特に、十歳以上の子。女性としての品格を持たない子は、一生貰い手がつきませんよ」


 上手にできるということは、褒められるということ。褒められるということは、良いこと。良いことは、良いこと。だから私は上手にする。


 でも、褒められるっていうのは、無味無臭。私の心を一切揺らさない。

 まだ、叩かれた方が幾分か楽しそうだった。


 手持無沙汰になった私は、近くの職員を呼び止めた。


「あの」

「ん? どうしたの、マリアちゃん」

「私も叩かれたいです」

「え?」


 職員は眉根を寄せた。

 不思議そうな顔に、私は思ったことを素直に告げる。


「叩かれると、ちゃんとできるようになるのでしょう? 私、もっとちゃんとできるようになりたいのです。あと、叩かれるってことがどういうことか、知りたいんです」


 叩かれると、どうなるのだろうか。

 きっと、痛い。痛いけど、そこには痛みという感情が生まれる。痛ければ、悲しいのか辛いのか、はたまたもしかしたら嬉しいのかもしれない。


 知りたい。

 教えてほしい。


「……駄目よ」

「どうして?」


 私の疑問に、女性は二の句が継げないでいた。

 私は鞭を持った女性の腕をじっと見つめた。細くて柔らかそうで、私が殴ったりすればすぐに折れてしまう華奢な腕。


「ああ、腕を振るから、貴方が疲れてしまうのですね」


 叩かれる側ばかり見ていたが、叩く側も大変なのだ。

 女性がほっとした顔になった。


「そうね。だから」

「ではなぜ、そんな思いをしながらも、叩いてくれるのですか?」


 叩くのは、疲れる。疲れるのは、嫌なことのはず。なのにどうして、そんな思いをしてまで他の子を叩くのだろうか。


 自分の腕が疲れてまで他の子は叩いてくれるのに、私は叩いてくれないの?

 私には、疲れてまで叩くような価値はないというの?


 もしかしたら、実はこれは人間ではないものを炙り出すテストなのかもしれない。できるほうが間違いで、できない方が人間に近くて、私は人間を落第したのかもしれない。褒めてくれるというのは、諦念から来るものだったのかもしれない。


 ぞわっとした。


「もしかして、……駄目な方が、正解なのですか? 叩かれる方が幸せなのですか?」

「……マリアちゃん、自習していなさい」

「だったら、私、できなくなります。だから、叩いてください」

「聞き分けて。書き取りよ」

「……はい、わかりました」


 私がにっこりとほほ笑むと、女性は安心したかのように顔を綻ばせた。

 聞き分けの無い子はいらないもんね。わかってる。


 どちらにせよ。

 私に求められているのは、正解であり上手。だったら、その意志に逆らってはいけない。私は不安なまま、正解を重ねるしかない。


 それが人としての正解かどうかはわからないまま。

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