06 算

 わたしの夢の中でテレビに映ったわたしがわたしの〈言葉〉で計算機を叩いていた。

 カタカタカタカタ……

『生物のコミニュケイションには多々ある。音、光、匂い、味、接触、言葉。人間だけが言葉を持っているわけではないが、魚は雌雄同体のものが多い。花がミツバチなら、機械は人間を媒介して進化する。ね、今日飲みにいかない。なんか、クシャクシャしちゃってさ。虹が立ち上がっている。鮮やかな黒い色の虹だった。大型の計算機が止まっちゃったのよ。シス・マスに起こられちゃった(ペロッと舌を出す)。そう、アクセスは研究室のパソコンからだったんだけど、ん、例のアルゴリズムよ、ボスのやつ。成功したアナロジーは思考の経済性を主張するが、Covering Low Modelと生物学に見られる〈目的論的説明〉の違いは、周期表とオクターブ則なんだよね。ピタゴラスが調和振動数の研究してたの知ってた? そう、昨日ラジオで聞いたのはケプラーの惑星、つまり惑星の公転半径と周期の規則性を音楽化したケクレのベンゼン環の共鳴なんだ!』

 頭の中で言葉がグルグルとまわっていた。

 いつか吸血鬼伝説をウィルスによる病気と解釈した外国の小説を読んだことがあったが、はたして言葉そのものがウィルスだったらどうなるのだろう?

 たとえばバクテリアの中に入り込み、その遺伝子に自分を増殖させて機能遺伝子を植えつけ、さらに大元のバクテリア自体を溶解してしまうバクテリオ・ファージのように、言葉を介して思考する人間に侵入した言語ウィルスは、そこでいったいどんな悪さをするのだろう? それは利己的遺伝子のような単なる(けれども宿主にとってはしごく迷惑な)生き残り戦術だろうか?

 たとえば宗教のように人間の脳を媒介して広がる自己複製子ミーム(meme 遺伝子はgene)なら一九七六年にドーキンスが主張している。けれども、そんな類推ではなく言葉が本当に生きているのだとしたら?

 ……そこまで考えていたのはこのわたしだったのか、それともテレビの中のそのわたしだったのか?

 そう考えたとたん、景色が一変して廃屋高層ビル群が消え、テレビの中のわたしと、このわたしとが一致した。

 そのわたしは、これから駅前の串焼き屋に飲みに行くようだった……行くのだった。

「うん、久方ぶりにやっちゃったんだよね」

 わたしがいった。

「きみは大型計算機を壊す名人だからね」

 前原慎二が答えた。彼は、わたしとは大学に入ったときからの友人だ。もっとも、いまは恋人でもある。

「そんなこといわないでよ」

 わたしがちょっと口をとがらせてから、そういった。アヒルのような形になるので、想像力の欠如した彼は、それをそのままアヒル口と呼んでいる。わたしの特徴ある〈口〉癖のひとつだ。その〈口〉の使い方には多種多様あるが……

「壊したんじゃなくて、ほんの少し止めただけじゃないの!」

「そういうのを普通、壊したっていうんだぜ」

 わたしがいうと彼が答えた。なんて可愛げのないやつ!

「……で、原因はなんだったわけ?」

 と屈託なく彼がわたしに聞くものだから、

「それがわかれば苦労しないわ」

 わたしも屈託ない口調で答えた。肩をすくめて、

「宮武ボスのアルゴリズムを試してみたのよ。電算室の大型計算機でね。例の北羅瀬天文台の野洲さんのいってた『宇宙ノイズ』を解析しようと思って…… そしたら、いきなり、ボン! じゃない。電算機が止まっちゃった(ペロッと舌を出す)。……まさかノイズがノイズを呼んだわけでもないでしょうけど、気分はよくないわね。……おっと危ない!」

 まっ赤なスポーティー・セダンが近づいていたのだ。

 そのとき、わたしたちは大学から十三分かけて裏道を抜け、私鉄T大学駅がある大通り交差点に出ようとしていた。そこに、まっ赤なスポーティー・セダンが突っ込んできたのだ。わたしたちの脇をかすめて…… 時刻は午後九時半。酔っぱらい運転車が出てもおかしくない時刻ではあった。

「とにかく青信号のうち、渡っちまおうぜ!」

 拳を上げて車に悪態をついてから、前原慎二がいった。なにげないふうを装って、わたしの肩に手をかける。ちょっと、その行為が気になったけれど、ま、いいか。彼はもうわたしの恋人なんだし……

 と、そのとき――

 わたしの目の裏に幻視が弾け飛んだ。

 ペトリ皿が蠢いていた。

 いや、違う! 蠢いていたのは、その中身の方だ。

 五列ずつ全部で二十五皿並んだペトリ皿のひとつが……

 わたしたちの大学は狭くて小さい。だから研究室の配置は結構乱雑だ(といっても、もちろんそれなりの秩序はあった。教授や助教授たちの論文提出数と、出身大学による学閥力のコンホメーション)。というわけで、わたしたちが所属する宮武情報科学研究教室の隣には生物学研究教室が配置されていたのだが、そこの黒カーボンの実験台の上に几帳面に置かれた二十五のペトリ皿のひとつ――薄黄土色の寒天培地そのもの――が瞬間ブルリと蠢いたのだ。

 そして――

 その中から何かが生えてきた。棘のようなピンと張った形の何か! その形がニョキニョキニュルリとペトリ皿から十五センチほど上に伸び上がり、ゆっくりした間隔で前後左右にゆらゆらと揺れた。すると、それと同期を合わせるかのように、同じ研究室内に置かれた分光機やアミノ酸シーケンサーがざわめきだした。ノイズの拡張。あるいは散逸構造理論でいうところの微小ゆらぎの選択的増幅のように、はじめまったくホワイト・ノイズにしか見えなかったその動きが奇妙に一致しはじめ、ひとつの秩序に向かって統合されていった。

 と、ふいにグーンと伸び上がったペトリ皿の中の形(棘)が、実験台の近くに置かれていたアルコール・ランプと金属ピンセットをポンと弾いた。

 アルコール・ランプが床に落ちる。それが音を立てて転がる。コンセントと接触する。内容物のメチル・アルコールがコンセント内に染み込んで……

 と、そのとき――

 コンセントとつながった冷蔵庫のサーモ・コントローラーのスイッチが入り、一瞬、過剰電流がコンセントに流れ、ボッ! コンセント全体が火を吹いた。

 ついで――

 見る間に燃え広がってゆくランプからこぼれた、アルコール。上がった炎が実験台を焦がし、その上にあった論文のコピーに引火し、一挙に火の手が上がり、試薬棚の薬品にも引火し、火災放置器が唸りを上げ、火事に気づいた居残り研究生たちが研究室に駆けよって消火にあたり、けれども一端燃え上がった火の手は衰えを見せることなく研究室のすべてを飲み込んでいき、ついに隣のわたしたちの研究室にも火の手がまわり、

 そして――

「るう子! いったい、どうしたんだ」

 知らぬ間に叫び声を上げて身体を痙攣させていたらしいわたしの耳もとに、前原慎二の声が聞こえた。彼にゆすられている腕の感触を遠くおぼろげに感じながら、わたしが彼を見つめる。

 すると、そこにいたのは……

「nartyr. raisonner/ エァ・インネルング。なにか怖い夢でも forpasi de la mondo このぼくは……」

 前原慎二とまったく同じ声と〈言葉〉を持つ、わたしの知らない誰かだった。

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