第10話 絶望

 これは悪夢だ。ストレスが溜まって悪い夢を見ているんだ。脳の錯覚だ。幻覚だ。こんな光景、現実である筈がない。到底受け入れたくない。あってはならないことだ。自分でも良く分かっている。こんなのは現実逃避にすぎないと。だからこそ、目の前の出来事を確認したくなかった。黒い絵の具が真っ白なキャンバスを侵食していくように、色濃い絶望が眼前に広がっていた。


 エンゲが血反吐を吐いて横たわっていた。全身から蒸気のようなものが噴出しており、顔色もどんどん悪くなっていった。


「ぐっ……ゲホッッ、ぐっ……、クソ、力が……出ね……」


 エンゲは斬られた胸の部分を押さえ、荒々しい呼吸を抑えようと努力していた。しかし、その努力さえ無駄かと思わせる程に受けたダメージは大きかったようだ。体からエネルギーらしきものが蒸気となって失われている。その流出は次第に勢いを増し、やがて爆ぜた。


 辺りに紫煙が立ち上ぼり、しばらくすると変わり果てたエンゲの姿が見えた。


「わっ……、ちょっ……、エンゲさん。どうしたんですか?その姿」


 力強いエンゲの姿から著しく乖離しており、まるで絵本に出てくるお化けのようだと思った。体のサイズも一回り小さくなり、手も短くなり、足に至っては消えていた。


「力を……、失っちまったみてぇだ。もう……、指一本すら動かねぇ」


 弱々しくエンゲは声を上げた。その言葉通りエンゲの顔から精気が消えていくのを感じた。


「そんな……!」


「悪ぃ、どうやら……。ここまでのようだ」


 その言葉にそこはかとなく嫌な予感がした。


「ちょっと、えっ……、嘘ですよね?


 まさか……、本当に死なないですよね?」


「……」


 俺の問いにエンゲは答えなかった。それが意味することが分からないという程俺は馬鹿ではない。これから起こるであろうことを予想し、身の毛のよだつ恐怖を感じた。


「油断、軽率、過信。これらは人を弱くさせます。技を決めた時点で勝ったと思ったのでしょう。滑稽ですねぇ……スチャ」


 細川の声はいたって冷静だった。しかし、その冷静さの裏に隠された怒りを拭い切れてはいなかった。エンゲにしてやられたことに対して相当頭にきているようだ。細川はよろける身体を押さえながら一歩、また一歩と歩みを進めた。そして、倒れたエンゲの頭を掴み持ち上げた。


「このクソ生意気な妖鬼はすぐにでも殺してやりたいですが……、おそらく最近地球に来たばかりなのでしょう。何かと利用価値はありそうですねぇ……。だが……」


 細川はエンゲを睨んだ。


「この俺を傷付けた代償は高くつくぞ……」


 そして、一思いにエンゲの頭を握った。


「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」


 エンゲは苦しそうに踠いていた。手をバタバタさせ、何とか抵抗しようと試みている。しかし、そんな事をすればするほど、細川の握る力は強くなっていった。


「あっ……、エン……、ゲ……、さん……」


 俺はただ見ていることしかできなかった。今の俺はかつて俺がいじめられていた時、そのいじめをとめようとしなかった周囲の傍観者と同じ立場に位置している。そうなって初めて、彼らの気持ちが分かった気がした。


「放せ……クソ……野……郎!汚ねぇ手で触るんじゃねぇ」


 エンゲは最後の力を振り絞って、細川に罵声を浴びせる。その言葉に怒りのボルテージがマックスになったのか細川はエンゲを地面に叩きつけた。そしてエンゲが逃げれないよう、足を背中に乗せて体重をかけた。


「貴様……、調子に乗るなよ。今貴様の命は誰が握っている?この俺だ。俺を怒らせてみろ。貴様の仲間、そこの幽霊のガキ共々皆殺しにしてやるからな。あまり舐めるなよ」


「くっ……」


 細川のドスの効いた低い声と共に発せられた脅しにエンゲは威勢を失った。


「さて、そろそろ帰るとしましょうか。そこの幽霊もこっちへ来なさい」


「はっ……はい!」


 今はただ、細川の指示に従うしかなかった。俺もエンゲも両方助かるかもしれないという淡い希望に懸けたかったのだ。そんな俺のことは露知らず、細川は淡々と言葉を紡ぐ。


「いいですか、今からあなた方を日本妖魔連合の本部にお連れします。黙って私に付いてきて下さい。少しでも抵抗したら……、カリバの鎌があなた方の頸を撥ねるでしょう」


 身体中に戦慄が走る。


「ひぃぃっ!」


 怖がる俺を見て、細川は気色の悪い笑みと圧倒的弱者に対する好奇の視線を向ける。


「そんなに怖がらなくても……、言う通りにすれば命だけは保証しますからぁ」


 そう言って細川は俺の髪の毛を鷲掴みにした。カリバにエンゲを抑えておくよう指示し、そのまま俺を階段まで引きずった。


「はっ…、ばっ……わ」


 情けない声を上げつつ俺は階段前まで運ばれてきたのだが、次の瞬間細川の手から俺が消え、エンゲの近くまでワープして戻ってきた。


「ん?何をしている。なぜ離れるんだ?私の言うことを聞けないのか?」


 細川は何が起こったか分かっていない様子だった。それは俺にとっても予期せぬことだった。しかし、事が起こるにはあまりにもタイミングが悪すぎた。


「いや、あの、そっそういう訳じゃ」


 俺は故意ではないと主張した。しかし、細川は激情した。


「声が小さくて良く聞こえませんねぇ。怒らないのでもっとはっきり言ってください」


 ドスの効いた声にビビりつつも、俺は助かるための言葉を吐き出す。


「いや、あの、にっ、逃げるとかじゃなくてでっですね。あ、あの、自分どうやらこの神社からでっでっ、出られないら、らしくて」


 嘘をつかずにありのまま起こったことを説明した。しかし、信じて貰えなかった。


「出られないだぁ? そんな筈ないだろう?」


「いえ、ほっほんとなんです! どうやらみたいでこの神社の外には出られないんです」


 地縛霊という単語を聞いた瞬間、細川が一瞬怪訝な表情を浮かべた。しかし、すぐに笑みに変わり、甲高い笑い声が響いた。


「……くっ……、くっくっくっく、クフハハハハハハハハハハハハハハハハッッ、ハッーハッハッハッハ……。地縛霊ですか。じゃあ連れて帰るのは無理ですねぇ」


 しばらくの沈黙のあと、細川は飄々と言葉を紡ぐ。


「幽霊……、いい研究材料かと思いましたが。ガッカリです。それにしても、まさかここから出られない哀れな魂だとは夢にも思わなくて。あーー、可笑しい」


 そうして俺のことを一瞥し、


「じゃあもういらない」


 と無情にも吐き捨てた。


「え」


 その意味が俺には分からなかった。


「使えない奴、無能は世の中のゴミだ。そういう奴が一番嫌いなんだ、私は!」


 理解した。細川が何をしようとしているかを。


「カリバ、幽霊のガキを消せ」


カリバが鎌を強く握り締めた。


「ヒィッ!」


 その音に驚き、俺は尻餅をついた。もうこのまま消されるのかと肌で感じた。


「やっ……やめろぉぉぉ………章正に手を出すなぁぁぁぁぁ」


 エンゲは掠れた声を上げた。もう指一本すら動かせない体に鞭を打ち、必死に章正を守ろうとしていた。しかし、細川はそんなエンゲの懇願を疎ましそうに見つめ、


「無駄な抵抗はよしなさい。貴方も殺したくなるでしょう?」


 とさらに脅しをかけた。もう残された手はなくなったと悟ったのかエンゲの無情な叫びがこだまする。


「くっ……くそぉ……、逃げろ章正!」


 その言葉を聞き、俺は走り出した。開けた神社内、どこにも逃げ場などないというのに……。


「クフハハハハハハハハハハハハハ、無能ゴミ共がざまあ極まりなしだ。これまた滑稽極まりないですねぇ」


 俺が逃げ回る様子を見て、細川は愉快だと言わんばかりに高笑いした。


「あ、ちなみになんですけど! カリバがあなたの魂を切り裂けば、あなたは輪廻転生の枠組みから外れ、生まれ変わりもない完全なる無に帰すでしょう。永遠に」


 それは唐突の告白だった。ただでさえ自分が死んだ事実すらまだ受け入れられてないのに、その先に起こりうる話をされている。しかし、理解してしまえば、それがどれ程恐ろしいことか想像すらつかなかったが、ただ深淵から、あるいは魂の根源から沸き上がってくる恐怖が本能を刺激した。


「嫌だ、嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、そんなのぉぉぉ、嫌だぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーー!」


 あまりの恐怖に俺は泣き叫んだ。しかし、そんな俺を面白がってか細川は興奮していた。


「あまりにも可哀想なので十秒だけ待ってあげましょう。ほらほら逃げて逃げて」


 俺は転びながら地を駆けた。そして無情にも恐怖のカウントダウンが耳に届いた。


 ――一


「ああ……、あ……、ああ……」


 ――二


「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁぁぁぁ」


 もはや奇声にも近い。


 ――三


 刻一刻と迫ってくるカウント。


 ――四


 醜く憐れな姿を晒して、神社内を這いずり回る。


 ――五


 わかっていた。


 ――六


 もう、どこにも逃げ場がないことぐらい。


 ――七


 それでも怖かった。


 ――八


 死の先に送り込まれるという事実が。


 ――九


 肉体のない抜け殻のような体が鉛のように重かった。


 ――十


 終わった……。


「よぉぉぉし、カリバ!今すぐ奴を殺せ!」


 細川の指示を聞き、カリバは即座に己の武器を手に取った。


「グルギャアアアアアアアアア」


 威勢のいい雄叫び、それと共に俺の顔上に高速移動し、死神のシンボルを高く掲げた。


 俺はカリバの振り上げた鎌が、眉間目掛けて落ちてくるのを、ただ無力に見上げることしかできなかった。

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