144 さよならメアリー

 



 メアリーはその日、まともに眠れなかった。


 悲しいかな、今の彼女の体は、多少眠らなかったところで悪影響が表に出るほどヤワじゃない。


 だから、隣で目覚めたアミがメアリーの顔色を見て慌てたとき、彼女は少し驚いた。


 そして理解する。


 どれだけ肉体が人間離れしようとも、心までは変われないのだと。




 ◇◇◇




 体調不良を疑われ、念の為に医者の診察を受けるメアリー。


 しかし今日は戴冠式当日。


 メアリーは参加しないが、




「お恥ずかしい話ですが、緊張しているんです」




 と言えば、医者もアミも納得するしかなかった。


 その後、合流したカラリアとキューシーからも、




「本当に大丈夫なんだろうな?」


「自覚症状がないほうがマズいのよ。お願いだから休んで、メアリー。ね?」




 とやたら心配され、質問責めに合った。


 だがメアリーは「緊張のせいです」と言い張り乗り切る。


 もっとも――それがただの誤魔化しであることを、三人は気づいていたようだが。




 ◇◇◇




 メアリーは一旦三人と離れ、兄の部屋の前までやってきた。


 すでに式の準備は終わり、彼は時間が来るまでここで待機しているらしい。


 すると、扉の横に立っていたフィリアスと目が合う。




「あら王女様、応援に来てくれたのかしらぁ?」


「プレッシャーをかけにきたんですよ」




 メアリーは胸に渦巻く不安を誤魔化すように、冗談めいた言葉で返す。




「本気でそう思ってるならやめてあげてほしいわ。彼、今にも潰れそうだから」


「王としての門出ですからね。お兄様は中で休んでるんですか?」


「いいえ、ずっと練習してるわ。何度も同じ動きを繰り返してる」




 耳を澄ますと、中からはぶつぶつと何かをつぶやくエドワードの声が聞こえてきた。


 確かに、かなり切羽詰まっているようだ。




「ところで王女様」




 ふいに、フィリアスは表情を引き締める。


 穏やかだった場の空気は、一転して張り詰めたものへと変わる。




「今日の戴冠式について、何か心配事でもあるのかしら」


「何のことでしょうか」


「軍を使って何かを調べさせてるって聞いたのよぉ」


「私がお兄様の暗殺を企てている――そんな噂でも流れているんでしょうか」


「流れていない、というと嘘になるわ。でも不安は断っておきたいのよ。今のあなたなら、情報集めなら私を頼ってくれると思ってたからぁ」


「共通の敵がいない今、フィリアスさんのことはそこまで信用していませんよ」


「あら冷たいわねぇ。でも、何かを調べてることは否定しないのね」


「ええ、調べていますよ。ですがフィリアスさんには関係ありません、私のちょっとした不安を解消するための、些細な頼み事です。お兄様にも関係ありません」


「だったらいいのだけれど」




 メアリーにも、フィリアスの警戒心は理解できた。


 誰かが何かを仕掛けるのから今日だろうと、彼女もそう思っているのだろう。


 しかし、王都に潜んでいたテロリスト集団は、以前のように暗部に潜んでの活動はできなくなっているし、この混乱の最中で王子の命を狙う阿呆貴族がいるとは思えない。


 ならば、この胸に張り付くような不安は一体なんなのか。




「私もまだまだね。いよいよ王子様が国王になれるっていうのに、それを目の前にして必要以上に周囲を疑ってる」


「フィリアスさんも人の子なんだなって安心しました」


「せっかく天使だと思われてたのに」


「悪魔の間違いじゃないですか?」


「それはひどくなぁい?」


「ふふふっ、でもそれぐらいの容赦の無さがないと、国際社会では生きていけませんから。では、私はそろそろ行きます」


「あら、王子様には会わなくていいの?」


「余計に緊張させてしまいそうですから。『頑張れ』と言っていたとだけ伝えてください」




 そう言って、軽く手を振りメアリーは立ち去った。




 ◇◇◇




 フィリアスと別れ、城内のとある部屋にやってきたメアリー。




「お姉様……」




 そこはフランシスが暮らしていた部屋だった。


 物は最低限しか置いておらず、飾られたぬいぐるみなどの小物は、そのほとんどがメアリーと二人で出かけたときに買ったものだった。


 掃除は行き届いており、もうそこに、愛しい姉の気配は残っていない。


 ぼふん、と幾度となく二人で使ったベッドに飛び込んでみても、大好きな甘い匂いは感じられなかった。


 ただ――目を閉じれば、思い出は嫌というほど蘇る。


 そして同時に、胸にこみ上げてくる締め付けるような悲しさ、苦しみ。


 それはいつかキューシーに語った、“失われた日常”によるものだった。




「あの世にいければ、またお姉様に会えるんでしょうか。それとも、死んだ人間は跡形もなく消えるだけなんでしょうか」




 布団に顔をうずめたまま、そうつぶやく。


 すると、ふいに部屋の扉が開いた。


 慌ててメアリーが立ち上がると、そこには封筒を持ったメイドがいた。




「あっ、メアリー様! 申し訳ございません、まさかここにおられるとは思わなくてっ」


「勝手に入ったのは私ですから。掃除ですよね、すぐに出ていきます」


「いえっ、メアリー様を探していたのです」


「私を?」




 首をかしげるメアリーに、メイドは手にした封筒を渡した。


 思っていた以上に分厚く重い。




「軍の方に、それをメアリー様に渡してほしいと頼まれたんです」


「ああ……ではこれが」




 頼んでおいた調査結果、なのだろう。


 そう思うと、実際の重さ以上に重みを感じる。




「ありがとうございます、確かに受け取りました」




 いかにも怪しい封筒だ、受け取りを拒否される心配でもしていたのか――礼をいわれて、メイドはほっとした表情を浮かべていた。


 しかしすぐに我に返り、深々と頭を下げ、「失礼いたしましたっ!」と部屋から出ていく。


 再び一人になった部屋で、メアリーはフランシスが使っていたデスクに腰掛け、封筒から書類を取り出した。




「ワールド・デストラクションに関する調査報告……」




 記されたタイトルを読むと、メアリーはそれを一枚ずつめくった。


 まずは十六年前に行われた、実験に関する詳細が記されていた。


 ホムンクルスのことや、多額の予算の捻出に苦労する様子、そしてリュノとの交渉記録など――知らない資料も多いが、そこから読み取れるのは、メアリーがすでに知っている事実ばかり。


 さらにめくっていくと、今度はピューパの社内記録ではなく、研究員の個人的な日記について記されている。


 現物を持ち出すことはできなかったらしく、書かれていた内容を記憶して記したのだろう。


 メアリーは文字に指を這わせ、一文字ずつ丁寧に読んでいく。




『本番を一週間後に控え、結局、参加できるのは一部の幹部のみになった。『世界ワールド』をあのベータタイプに宿す確実性を上げるために必要な処置ではあるが、世紀の瞬間に立ち会えないのは研究者として非常に残念である。しかし一方で、終わるのなら何だって良いと思う自分もいた。研究が終われば、まともに家に帰れるようになる。あの頭のおかしい少女との付き合いも終わる。最近では、研究よりもそっちを望むようになっていた』




 いかにも日記らしく、どうでもいい日常の出来事から、会社への愚痴まで内容は様々だ。


 その中でも特に、劣悪な労働環境についての記述が多い。




『他の研究員たちも私と同じようで、とにかく早く終わってほしいとそう願っている。妻子がいる奴は特にだ。中には一年も家族の顔を見てない、なんてやつもいる。きっと家族は、やせ細ったあいつを見たらさぞ驚くことだろう。みんな体も心もボロボロだ。あのときはイカレ女にドン引きしたもんだが、ひょっとするとあの女が動かずとも、別の誰かが勝手にフランシス王女とヘンリー国王の血を混ぜていたのかもしれない。それぐらい、俺たちは追い詰められている』




 イカレ女とは、おそらくはユーリィのことだ。


 当時はまだ十代のはずだが、今と変わらず、ぶっ壊れていたようだ。


 しかし、メアリーが望むような情報は見当たらない。


 戴冠式まではまだ時間があるが、アミやカラリア、キューシーをあまり待たせると心配をかけてしまう。


 メアリーは読むスピードを上げていく。


 しかしその視線は、とある文章を見て速度を落とした。




『リュノが実験に同席させたい人間がいると申し出てきた。それが協力する条件だと。その場に立ち会うだけなら、とヘンリー国王は快諾したそうだ。私たちにはもはや、不平不満を口にする気力すら残っていなかった。好きにしてくれ、というやつである』




 それは彼女が探し求めていたもの。


 ああ、しかし――できれば、存在しないでいてほしかった。


 十六年前、やはり、そこにいたのだ。


 リュノ、メアリー、ヘンリー、ユーリィ、その他数人の研究者たち。


 それ以外に、もうひとり。


 おそらくはメアリーがミーティスの小屋で見つけた、あの写真にうつっていた少女が。




『リュノの申し出から三日が経った。彼女は研究所にはじめてその少女を連れてきた。人見知りが激しいようで、少女はリュノに隠れて顔さえ見せなかった。リュノが言うには、少女は村で迫害され、衰弱して死にかけていたそうだ。それを、同じく村から忌み嫌われていた彼女が保護し、一緒に暮らしているらしい。噂には聞いていたが、あの村はなかなかに陰湿な場所らしい。いや、神を名乗る不死者が存在すれば、崇められるか嫌われるかの二択になるのはどんな場所でも当然のことか』




 ピースが少しずつはまっていく。


 なぜミーティスの村人は、突如として全員が天使になったのか。


 メアリーたちが到着する前の時点で、仕込み・・・を終わらせなければ不可能だ。


 つまりあの村は――メアリーたちの到着と関係なく、恨まれていたのだ。


 そしてその犯人は、生存者の中にいる。




『翌日、再び研究所に顔を出した少女は、昨日より少しだけ私たちに心を開いた。女研究員が根気よく話しかけたおかげだろう。疲れているのによくやるものだ。どうも彼女にとっては、それが癒やしらしい。ようやく名前も聞き出せたようで、女研究員は自慢げに私たちに教えにきた。あの少女の名は――』




 その名前が、ここには記されている。


 ようやくたどり着いた、答え合わせの瞬間だった。




『ステラ・グラーントと言うそうだ』




 そこに記された文字を見た瞬間、メアリーは「は――」と小さく息を吐き出した。


 そして瞳を閉じて、うつむき、机の上で両手の拳を握る。


 そのまま、しばらく動けなかった。




(一番、見たくない名前でした)




 頭が真っ白になって。


 何も考えられなくて。


 メアリーが、なぜこの報告書を受け取るより先にその答えにたどり着いたかと言えば――最大の要因は、『世界』の能力のカラクリに気づいたことだ。


 キャサリンの死後、メアリーは彼女がアルカナ使いでは無かったという仮説を立てた。


 彼女はただ『世界』に操られていただけ。


 つまり容量不足で『世界』を取り込めないなどという発言は嘘で、そこにアルカナが無いことに気づかせないための罠ではないかと。


 以前よりは落ち着いて考える時間もあったので、ならば他に誰がアルカナ使いの候補足りうるのかを時間をかけて推理した。


 『世界』のアルカナが他者の肉体を支配するためには、体液を与える必要がある。


 一方で他者の精神を支配するためには、特定の行動を取らせる必要がある。


 そしてそれは、実際に顔を合わせなくても条件を満たすことができるものだ。


 でなければ、世界中の要人を操ったりできるわけがない。


 年齢も性別も違う、それらの人物に共通する行為とは何だったのだろうか。


 考えるうち、メアリーは――“言葉”という一つの仮説にたどり着く。




「おーい、お姉ちゃーん?」




 アミが、ノックもせずに部屋の扉を開いた。




「あ、いたいた。すっごく探したんだからねっ」




 彼女はするりとメアリーに腕を絡めると、強引に引っ張って立たせた。




「戴冠式、はじまっちゃうよ。みんなで一緒に見るって約束したんだから。ねっ?」




 それはおかしい。


 戴冠式まではまだ時間がある。


 しかし、メアリーは何も言わなかった。


 されるがままに、アミに引っ張られながら廊下を歩く。


 少し進むと、カラリアとキューシーも合流した。




「メアリー、どこに行ってたんだ」


「そうよ、もう時間なんだから。第一、わたくしたちを放って一人で行動するなんて、その……寂しいじゃない」




 三人と並んで歩く。


 この世界にはもう戦いはない。


 幸せな時間だった。


 向かう先は会議室だろうか。


 確か、そこにモニターが用意されていて、戴冠式の中継を見れるという話だったはずだ。


 エドワードの部屋の前を通り過ぎる。


 すでにフィリアスと兄の姿はない。


 会場に向かったのだろう。




「それにしても、お姉ちゃんらしくないね。時間を忘れるなんて」


「メアリーも緊張しているんだ。そうだろう?」


「いくら直接の関係がないとはいえ、王家の代替わりだものね」




 三人は他愛のない会話をメアリーに投げかける。


 そんな言葉を無視して、彼女はふいに足を止め、問いかけた。




「アミ」


「んー?」


「カラリアさん」


「何だ」


「キューシーさん」


「何よ急に」


「私は……あなたたちのことが、大好きです」




 突然の告白に、アミはにっこりと笑い、カラリアは微笑み、キューシーは照れくさそうに赤らむ。


 一方で、いたって真剣な表情のメアリーは、こう言葉を続けた。




「みんなも、私のこと、好きですか? 好きで……いてくれますか?」




 こころなしか声は震えている。


 三人は迷いなく答える。




「もちろん、世界一大好きだよっ!」


「今さら聞くことか? これからもずっと一緒と言っただろう、好きだぞ」


「二人とも人前なのに簡単に言うのね。わ、わたくしも……好き、よ。ちゃんと、そういう意味で」




 メアリーは三者三様の反応に満足して、目に涙を浮かべながら笑う。




「それはよかったです」


「何を当たり前のことで感動してるのよ。ほら、いくわよ」


「変なお姉ちゃんっ」


「他の連中も待たせているからな」




 再び彼女は歩きだす。


 部屋が近づくまでの間、走馬灯のように、様々な考えがメアリーの頭を巡った。




(最初に気づいていれば、何か変わったんでしょうか)




 思い返せば、全ての始まりは『隠者ハーミット』のアルカナ使い、マグラートからだった。


 そして、トリガー・・・・となるその言葉を、彼も発していたのだ。


 確か他のホムンクルスも言っていたはずだ。


 それは『世界』なりのヒントだったに違いない。


 同時に、どのタイミングで気づいたところで全て無駄なのだと、そういう彼女の余裕だったに違いない。




(その言葉は何度も私たちの前に現れて。けれど、いつ気づいたってそこが“終わり”になるだけで、私にできることなんて何もありませんでした)




 気づいてしまえば、そういうこと・・・・・・なのだとわかる。


 『世界』が描くこの物語は、最初から終わっていた。


 終わったから、道化であるメアリー・プルシェリマの物語は始まったのだ。




(ああ……本当に、私は、あのとき死ぬべきだった。お姉様が死んだのは幸福だった。こんな、馬鹿げた茶番に巻き込まずに済んだから)




 部屋の前までたどり着く。


 カラリアが扉を開いた。


 中には、ステラの担当編集者であるシャイティと、ミーティスの村の生き残りであるエリニとエリオの姉妹が待っている。


 椅子に座っていた彼女たちは立ち上がると、メアリーに向かって微笑みかけた。


 瞬間、その顔が歪む。


 ぐにゃりと、まるで水に血を垂らしたようなマーブル模様に。


 そして次に人の顔の形に戻ったのなら、そこにはどこかで見た顔があった。




「王女様と一緒に見られるなんて光栄です。せっかくなので、密着取材させてもらいますね」




 シャイティは、アルファタイプホムンクルスの――カラリアに似た顔に。




「私たちがこんな場所にいていいのかな」


「いいんだよ、王様が許可してくれたんだからっ」




 エリニとエリオは、ベータタイプホムンクルスの――フランシスに似た顔に。


 それぞれ細部は違えど、見る人が見ればホムンクルスだとひと目でわかる。


 しかしカラリアたちは反応しない。




(これは、答え合わせ・・・・・だ)




 アミに引っ張られ、椅子に座らされながら、メアリーはそのことに気づく。


 そう、つまり――『世界』は、ミティスは、ステラは――メアリーが真実に到達したことを知ったのだ。


 だから、前倒し・・・で戴冠式を実行した。




「戴冠式ってどんな式なんだろ。楽しみだねっ」


「本来の式よりはかなり質素みたいよ」


「こんな時期だからな、行えただけ良かった」




 モニターのスイッチが入る。


 王都の大きな教会に立つエドワードが映し出される。


 本来、王冠を授けるはずの教皇の姿はない。


 エドワードと――傍らにフィリアスの姿が見えるだけだ。


 どこか虚ろな瞳で聖堂に立つ彼は、らしくない、はきはきとした声で演説をはじめた。




『この美しい世界は今、未曾有みぞうの危機を迎えています!』




 メアリー以外の全員がその画面に釘付けになる中、彼女だけはぼんやりと考え事をしていた。


 『世界』の能力発動条件について。


 支配される対象が特定の行動を取ることで、『世界』の支配下になることまではわかっていた。


 そこから、メアリーは様々な情報と重ね合わせ、その答えを導き出す。




 それは――“特定の単語を発すること”。




 人間がその単語を声として発した瞬間、『世界』は絶対的な力でその対象の精神を完全に支配する。


 人は例外なく操り人形となる。


 本人は操られた自覚すらない。


 そして最大の特徴は、言わせることに成功したなら、『世界』のアルカナ使いが近くにいる必要すらないということ。




『こんな状況で戴冠式など、と思う方もいるでしょう。ですが我が国のみならず、世界中が指導者を失い、混乱に陥っています。このまま混乱が続けば、世界は戦乱に包まれてしまう。ですから今こそ、この国には絶大なカリスマを持った指導者が必要なのです!』




 問題は、その言葉を世界中に広める方法だ。


 メアリーは逆算・・した。


 十六年前の事件に関わり、かつそれが可能なのは誰だろう。




『そしてそれは僕ではありません! より強い力と強い信念と強い憎しみと強い殺意と強い強い強いこの世界を滅ぼすという覚悟が必要なんです!』




 フィリアスが動く。


 彼女は腰に下げた剣を引き抜くと、それをエドワードの首に当てる。




『おそらく僕が言うまでもなく、みなさんはそれをご存知でしょう。我が国だけではない。この世界そのものが、彼女の君臨を望んでいるっ! 彼女に比べれば僕は生きる価値のないゴミクズだ! いいや僕だけじゃない、全ての人類がそうなのです! ならば僕は、喜んでその贄となりましょう! そう――』




 言葉を広める、それが可能な媒体、それは――小説・・だ。




『この美しい世界のために!』




 刃が滑る。


 画面の向こうで兄の首が落ちた。


 赤い噴水が純白の大聖堂を汚していく。


 フィリアスは表情一つ変えずに剣を収めると、後ろに下がった。


 そして死んだエドワードに変わって、華美な服をまとった女性がカメラの前にやってくる。


 メアリーはまばたきすらせずに、静かに涙を流した。




『今、この瞬間――私はオルヴィス王国の、ひいてはこの世界の王になった。全ての人類を正しい未来へ導くために』




 ステラは言った。


 すると、部屋にいるメアリー以外の全員が立ち上がる。


 シャイティも、エリニも、エリオも。


 アミも、カラリアも、キューシーも。


 まるで人形のように背筋をぴんと伸ばして、同じタイミングで拍手をして、同じタイミングで同じ言葉を発する。




「この美しい世界のために」




 その行為に至上の喜びを感じながら。




「この美しい世界のために」




 まるでタチの悪い新興宗教のように。




「この美しい世界のために」




 同時に、メアリーの希望を粉々に打ち砕きながら――


 その声は城内のみならず、王都からも響いていた。




『この美しい世界のために』


『この美しい世界のために』


『この美しい世界のために』




 シュプレヒコールを受けて、ステラは満足そうに笑う。


 そしてカメラ目線で――メアリーを見ながら、言った。




『ごめんね、メアリーちゃん』




 もし予想が当たったら謝る。


 そんな、昨日の約束を果たすために。




「この美しい世界のために」




 部屋に響き渡る愛する人たちの壊れた声。




「この美しい世界のために」




 モニターに映し出される笑い顔。




「この美しい世界のために」




 メアリーはもう――




「ふ、ふふふ……はっ、ははっ、あはははははははっ!」




 笑うことしかできなかった。




「この美しい世界のために」


「はははははっ!」


「この美しい世界のために」


「はひっ、ひっ、ふふっ」


「この美しい世界のために!」


「あははははははっ!」




 瞳からは涙をボロボロこぼしながら、孤独な世界で一人笑う。




 十六年前――ワールド・デストラクションがドゥーガンの介入で失敗したその日、『死神』はメアリーに宿り、『世界』はステラに宿った。


 しかし他のアルカナと違う形で存在してきたためか、長らく休眠状態にあった。


 アルカナが目覚めるまでの間、ステラはリュノとよく似たメアリーに何度か会いにいった。


 リュノが死んだ責任は少なからずヘンリーにあるため、その願いは簡単に聞き入れられたのだろう。


 しかし、今から数年前、ステラの中で休眠していた『世界』が目覚めた。


 彼女はその力を良いことに使おうと考え、ホムンクルスたちを救出していった。


 一方で『世界』の意識は、望む望まないにかかわらず、ステラの精神を汚染していく。


 そして二年前、ついにステラは『世界』を――ミティスを止められなくなった。


 ヘンリーとキャサリンを少しずつ操り、自らが救出したホムンクルスたちも駒として支配していった。


 小説が売れはじめたのもその頃からだろう。


 内容の面白さなどどうでもいい。


 タイトルを声に出した瞬間、意識は『世界』に支配される。


 支配された人間は、例えばキューシーのように、他者にそれを勧めようとする。


 無意識のうちに“タイトルを他人に言わせる”ことで支配を広げようとする。


 そうやってあれは世界中に広まっていったのだ。


 別に本を読む必要はなく、読める必要すらなく、アミのようにタイトルさえ言えばいいのだから、支配のハードルは相当に低い。


 そして着々と準備は進み、誰にも気づかれずに世界を我が物とした『世界』は、ついにそのトリガーを引いた。


 メアリーの処刑。


 脱出。


 フランシスの死、『死神』の目覚め、マグラートとの戦い。


 『世界』はこう思っていたことだろう。


 いつ死んでも構わない。


 だけどできるだけ苦しんでほしいから、力を与えてみよう、と。


 フランシスが死んで奪うものもなくなったのに、勝手に仲間を作って恋をして、苦しめるには都合がよくて嬉しい、と。


 そして、脚本の最後のページである今日という日までメアリーが生き延びたなら――盛大にお祝い・・・をしてあげよう、と。




「は……はははっ、はは、あ……ああっ、うああぁぁぁあああああっ!」




 笑いでごまかせる時間はわずかだった。


 メアリーは、頭を抱えて叫ぶ。




「この美しい世界のために」


「うううぅぅぅうっ! やめて……ください。お願いです、カラリアさんっ……!」


「この美しい世界のために」


「やだ、やだぁっ、聞きたくないっ、キューシーさぁんっ!」


「この美しい世界のために」


「アミぃっ! 私のこと好きだって言ってくれたじゃないですかあぁぁぁああっ!」




 届かない。


 届かない。


 アルカナとは神だ。


 この世界を作った創造主であり、人間とは次元の違う存在だ。


 その本気の力に人が抗えないことは、『恋人ラヴァー』の反理リバース現象で嫌というほど思い知らされたはずだ。


 どれだけ想おうとも、どれだけ愛そうとも、神の前に人は無力だ。




「はっ、ああぁ……うあぁあ……私が、何をしたって言うんですか……私が生まれてきたことはっ、ここまでされるほどの罪だったって言うんですかッ!」


『そうだよ』




 ステラ――いや、ミティスはあっさりと断言する。




『お前さえ生まれてこなければ。生まれたとしても、十六年前に私もろともお前が消えていれば、こうはならなかった』


「私じゃないっ! 選んだのは私じゃないっ!」


『私だって選んでない。選んだやつはもう死んだ。選択者はもういない』


「だったら終わりでいいじゃないですか、それで!」


『そんなことできる? 愛する人を奪った世界がそこにあるのに。愛する人の自殺願望を具現化した人間がそこにいるのに、復讐をそこで止められる?』




 メアリーには、言い返せる理屈がなかった。


 感情で争うことはできても、ミティスを止める理論がない。


 もっとも、言ったところで止まるはずないし、今さら止めても何もかも無意味なのだが。


 失った者は、奪われた者は、殺して、殺して、殺し尽くして、その先に光があると信じて、突き抜けるしかない。


 ここはその果てだ。


 メアリーはついに、生きたままそこにたどり着いてしまったのだ。




『私はずっとこのときを楽しみに生きてきた。人にも戻れず、神にもなれず、たださまようだけの私に残された楽しみなんて、お前やこの世界が蹂躙蹂躙されることだけなんだから』


「ああ……そう、ですか」


『さあ、見せてよ。その呪われた命に相応しい、最高に最低の末路を』




 ミティスの声に合わせて、カラリアが、アミが、キューシーが、こちらを向いた。


 何の感情もなく、ただ無機質な瞳を向けて、その手にそれぞれの武器を握る。


 銃を。


 車輪を。


 ペンから生まれた鳥を。


 いつでも殺せる状態で構えて、しかし動こうとはしない。


 待っている。


 メアリーが自ら、それを望む瞬間を。




「死ねばよかっただなんて、私も甘いですね。私は、生まれてこないほうがよかったんです……」




 うつむき、頬を引きつらせ、そうつぶやく。


 一番近くに彼女たちはいるのに、誰一人として届かない。


 終わりたくない。


 けど、その虚しさに人は耐えられない。


 メアリーは顔をあげ、いっぱいの涙で瞳を潤ませて言った。




「お願いします……私を、殺してください」




 瞬間、人形たちが動く。


 こうして、一人の少女の物語は終わりを迎えた。



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