143 名探偵は事件がなければ生まれない
翌朝、メアリーの部屋をフィリアスが訪れた。
カラリアやアミもいる部屋で、彼女は困った様子で告げる。
「実は、思っていた以上にメアリー様を国王に、という声が大きいのよねぇ」
できるだけ世論がエドワードを支持するように、メディアも操作はしてきた。
だが実際に暴虐の王であるヘンリーを倒したのはメアリー、という事実は変わらない。
また、国王と王妃の命が一日にして失われ、他国の不安定な情勢も王都まで伝わってきた今、民は“力”を求める。
アルカナを持つメアリーさえ王国にいてくれれば、この国は安泰だ、と――そう期待するのも仕方のないことである。
そもそも、『
不安と不満が膨らんでいくのも当然であった。
「まさか残れとは言いませんよね」
「そうなると私が困るものぉ。そんなわけで、今日の午後に国民に向けて会見を開こうと思ってねぇ」
「また急な話だな」
部屋の隅に、腕を組んで立つカラリアが言った。
フィリアスは彼女を見て苦笑する。
「それはわかってるわよぉ。まだ原稿だってまともにできてないわぁ」
「明日でいいんじゃないかな? たいかんしき? ってやつ、明後日だよね」
「明日はそっちの準備でスケジュールがみっちりなのよぉ。かといって、戴冠式の後に回すわけにもいかないから、今日ってわけ」
さしものフィリアスも、目が回るような忙しさでは、いつものような余裕は見せられないらしい。
精神面での疲れを隠しもせず、「はぁ」と大きなためいきをついた。
「できれば、スラヴァー領での婚約パーティーから今日まで、国民の疑問に答える形で話してほしいんだけどぉ――あ、もちろん都合の悪い部分は伏せてもらって構わないわよ」
「わかりました、今日の午後ですね。うまくまとめられるかはわかりませんが――『世界』の件、そして私がなぜ国を出るのか、すべてを話しましょう。隠すようなことでもないですから」
「あ、そうだ。一応、王子様をヨイショするのも忘れないでねぇ?」
「……そこはフィリアスさんが原稿を書いてください。私の言葉で話すと、うまく持ち上げられる自信がないので」
「私も自信ないわぁ」
「……」
「冗談よぉ、そんな怖い顔で睨まないでほしいわ。ふふふっ」
フィリアスは笑ってごまかす。
今度はメアリーがため息をつく番だった。
「はぁ……いくらジョークでも時と場合は考えてほしいものです。お兄様も覚悟は決めたようですから、案外、あなたのほうが手玉に取られるかもしれませんよ?」
「あら、王女様から見てそう映ったのなら、私もしっかり手綱を握っておかないとねぇ」
「玉と綱……?」
ブラックジョークを言い合い微笑む二人を見て、アミは首をかしげる。
「犬の話でもしてるのかな」
「犬扱いはさすがに失礼だぞ、アミ」
「……?」
カラリアの突っ込みはもっともだが、アミにはやはり意味がわからなかった。
そんな二人の軽いやり取りを聞いて、思わず微笑むメアリー。
「平和っていいわねぇ」
フィリアスがしみじみとつぶやく。
「しばらくは大変でしょうけど、戦いが終わったってだけで気持ちは楽になるわぁ」
「……そうですね」
「思うところがあるみたいだけど……『世界』だってそんなすぐには動き出さないわよ。王女様にも休みは必要でしょうし」
「戴冠式が終わったら、しばらくは旅行気分でリフレッシュしようと思います」
「それがいいわ」
そう言って、フィリアスはちらりとアミのほうを見た。
彼女も、アミの寿命が残り少ないことは聞いている。
メアリーが国を出ることにこだわるのは、彼女により多くの景色を見せるため――それも動機の一部だということも理解していた。
「じゃあさっそく、会見の打ち合わせを始めましょうか。別室で王子様たちが待機してるわぁ」
「呼ぶためにここに来たんですか? 先に言ってくださいよフィリアスさん、待たせてしまうではないですか」
「いいのよぉ、どーせうだうだ面倒なことを話してるだけなんだからぁ」
「フィリアス、もしかして気分転換のために抜け出してきたのか?」
「サボりはいけないんだー」
「人聞きが悪いわねぇ、ちゃんとみんなを納得させた上で出てきたのよぉ?」
サボりは否定しないフィリアス。
しかし、長時間抜けるわけにもいかないのだろう――ちらりと時計に目を向け、時間を気にする仕草を見せた。
メアリーは席を立ち、彼女とともに部屋を出る。
◇◇◇
その日の午後、城内の一室を開放し、エドワードはメアリー同席の上で会見を開いた。
大勢のメディア関係者が詰めかける中、王女はカメラの前で誰もが知りたがっていた、今回の戦いの経緯を語る。
ラジオでは生中継も行われ、多くの国民がかじりつくように聞いていたという。
メアリーの口から語られたのは、到底普通ではありえないような出来事ばかり。
しかし、それはすでに実際に起きている。
だから信じるしかなかった。
そして元凶である『世界』のアルカナが、この世界のどこかにまだ存在している事実に、誰もが少なからず恐怖を覚えたに違いない。
結局、『世界』と戦う力を持つ者は、メアリーぐらいしかいないのだ。
もちろん、彼女が王国を出ていくのはそれだけが理由ではない。
前国王と王妃を殺害したこと。
それは王族としても許されないことだし、何より一人の人間として、両親を殺した上で故郷に残ることはできない――と。
言ってしまえば、個人的な感情の問題だ。
それで国の未来を左右するような決定をしてしまって申し訳ない、と言いはしたものの、メアリーの決意が固いことは誰の目にも明らかだった。
◇◇◇
「ふぅ……お疲れ様」
会場から出たエドワードはメアリーにそう言うと、吹き出る冷や汗を手の甲で拭った。
「お兄様こそ、様になってましたよ」
「付け焼き刃とはいえ、スパルタ教育されたからな」
「ええ、ムチを振るったかいがありましたわぁ」
会場外で待機していたフィリアスが、笑顔で歩み寄ってくる。
「だからって本当にムチを振るうやつがいるか!」
「体に教え込むのが一番ですもの」
そう言って彼女はムチを振るうようなフリをした。
反射的にエドワードの体がびくっと震える。
「何で僕ばっかりなんだ……メアリーには何もなかったというのに……!」
「王女様は修羅場をくぐり抜けてきたおかげで雰囲気がでてるからぁ、特に細工は必要ないなって」
「確かに前とは大違いだったが……」
「普通に話しただけなんですが」
「国民に伝わるかどうかが一番大事なんだから、その点ではパーフェクトな出来だったわよ」
彼女の抱く生々しい悲壮感は、音声だけでも十分に伝わったはずだ。
これで大半の人は、メアリーを女王にしろという声をあげなくなるはずである。
もちろんゼロにはならないだろうが。
「じゃ、王女様のお仕事はこれでおしまいね。あとは出発の日までゆっくり休んでねぇ」
「ああ……戴冠式、調整が済んだんですね。ありがとうございます」
「それでも王女様に出席させたいって輩はいるけど、ま、多数が理解を示した以上は悪あがきよねぇ」
「関わらないなら徹底的に……か。確かに半端が一番よくないからな」
メアリーは戴冠式の日まで王国に残る。
しかし戴冠式には出席しない。
王城内で、モニター越しのその様子を見守るつもりだ。
だったら戴冠式前に国を出てしまえば――という考えもメアリーの中にはあったが、それはさすがに
「王女の役割は終わり、ですか」
そうつぶやいた途端、寂しさ――とは違うが、似て異なる虚脱感がメアリーを満たす。
落ちこぼれ王女と呼ばれながらも、王族として過ごした十六年間の日々。
それが明確に、この瞬間に終わりを迎えたのだ。
ぼやけて見えていた未来への道筋も見えず、ここから先は完全な未知だ。
誰かと手をつなぎながら歩かなければ、不安でしょうがない。
感傷に浸るメアリー。
すると、前からカラリアが駆け寄ってきた。
顔色は青く、到底良い知らせを持ってきたようには見えなかった。
「メアリー、大変だ。アミが倒れた!」
「アミが……!?」
体にガタが来たのだとしても、
◇◇◇
カラリアに案内され向かった先は、城内に用意された客室だった。
王族付きの医者が、ベッドに横たわったアミを診察している。
その間にも様々な医療器具が運び込まれ、部屋は瞬く間に病室へと様変わりしていった。
その隅で、カラリアと並んで心配そうにアミを見つめるメアリー。
部屋に入ったときこそ大きな声でアミの名を呼んだものの、倒れたはずの彼女はベッドの上で手を振る余裕を見せていた。
やがて診察が終わると、医師はメアリーを外に呼び出す。
「アミの体はどんな状態なんですか?」
「正直……芳しくないと言わざるを得ません。動いているのが異様な状態です」
「具体的にはどうなっているんです」
「いくつかの臓器は機能を停止しています。本来ならこの時点で生命活動に多大な悪影響を与えるはずですが――信じられないことに、体内に存在する“異物”がそれを補っているのです」
メアリーには心当たりがあった。
アミは一度死んでいる。
そのとき、彼女の体内から溢れ出してきたものがあったはずだ。
「歯車、ですか」
「詳しい形状まではなんとも。ですがアルカナに由来するものと考えるしかありませんね。普通の魔術では起こり得ない現象です」
「それ自体は、おそらく前からだと思います。ですが今回は、意識を失って倒れたと聞きました」
「補えないほどに肉体が消耗しているのでしょう」
「キャプティスで診察してもらったときは、およそ一ヶ月もつと言われたはずです。まだ、二十日近くも残っているんですよ!?」
「誤差と呼ぶには大きすぎる差ですね。私が診た限りでは――」
医師は気まずそうに、わずかにメアリーから目をそらして言った。
「あと十日ほどもてば良い方でしょう」
「な――そ、そんなはずはっ! だ、だってまだキャプティスを出てからそこまで経っていないはずですッ!」
「落ち着いてください王女様。私は、診たままを言っているだけです。一ヶ月と診察した医師も、このような事態に直面したのははじめてだったでしょう。戦闘により消耗した可能性もあります。正しい寿命を導き出すことなどできません」
「それでもっ! たとえ、多めに見積もって一ヶ月だったとしても……そんな、十日だなんて……」
膝から崩れ落ちるメアリー。
死の運命は変わらない。
それは最初からわかりきっていたことだ。
それでも――一週間以上縮むなんて、納得できるはずがなかった。
「彼女に伝えるかどうかは、王女様に委ねてよろしいでしょうか」
「……はい」
騒いだところで現実は変わらない。
彼はヘンリーに長年仕えてきた一流の医師だ、ここで雑な診察などするはずがないのだから。
メアリーはしばし放心状態で、その場に留まった。
やがてゆっくり、壁を使って立ち上がると、部屋に戻る。
アミと目があった。
「お姉ちゃん!」
彼女は嬉しそうに笑った。
まるで花でも咲いたように、かわいらしい笑顔。
だからこそ――胸が締め付けられて。
せめて笑って返そうと思ったのに、メアリーの目からは自然と涙が溢れ出していた。
我慢なんてできなかった。
「ふ……う、く……っ」
「お姉ちゃん……?」
不思議そうにこちらを見るアミに歩み寄り、メアリーは彼女の手を両手で包み込む。
そして、ぬくもりをできるだけ肌で感じようと、コツンと額に当てた。
「どうして……どうして……」
言うべき言葉が思い浮かばなかった。
だから、そう繰り返すことしかできない。
アミはそんなメアリーを見て、ふいに、寂しげに微笑んだ。
「私の体、そんなに悪かったの?」
「……っ」
「予定より死ぬ日が早まったとか、そういう話なのかな」
メアリーは顔をあげる。
アミの表情が、少し大人びて見えた。
「知っていたんですか?」
「自分の体のことだもん……と言いたいところだけど――」
アミはわずかに目を伏せると、一息挟んで、告げた。
「実はね、神さまに頼んで、寿命を使っちゃったんだ」
言うべきか悩んで、悩んで、悩み抜いた結果の告白だった。
きっと言えばメアリーたちは傷つく。
けれど言わなかったら、メアリーたちはその理由を探して、自分たちを傷つけ続けるだろうから。
「いつ、ですか?」
メアリーの隣に立つカラリアも、同じ疑問を胸に、真剣な表情をアミに向ける。
「『
二人の表情は、アミが真実を語る度に青ざめていく。
彼女はそれに胸を痛めながらも、しかしもう止めることはできなかった。
「エラスティスを倒すために、『
メアリーはまばたきすら忘れて、肩をわずかに上下させながら、浅い呼吸を繰り返した。
心音が高鳴る。
冷や汗が額を濡らす。
「あ……あぁ……あああ……」
覚えている、忘れているはずがない。
あのとき、メアリーたちはアミのことを“諸悪の根源”だと思い込み、本気で殺そうとしていたのだ――
「あ、あのね、あれは私が悪いからっ! ほら、もしカラリアが能力を受けてたら、耐えられたはずだし。受けたのは私で、変えられたのも私なの」
「く……ううぅ……う、ううぅ……!」
メアリーは罪に押しつぶされそうだった。
アミの手を握る自らの手に力を込めて、それを強く強く額に押し付ける。
「だからお姉ちゃんたちは悪くないのっ! 私が勝手にっ!」
アミが自分を責める言葉を発する度に、心臓が握りつぶされそうなほど胸が痛くなって――
ついぞ耐えきれずに、メアリーはアミを強く抱きしめた。
「お姉ちゃんっ、だから、あのねっ」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ、私のせいでっ! アミの命が、私のせいでえぇぇっ!」
「違うのっ、違うんだよっ。それにね、今は私、お姉ちゃんのために命を使えて嬉しいって思えて――」
「そんなわけないだろう……!」
見つめるカラリアもまた、自分を責めずにはいられなかった。
自らの肩を掴む手に力がこもる。
爪が食い込み、メイド服に血がにじむ。
「お前のせいであるものか。あれは、私たちのミスだ!」
「そうですよぉっ! お願いだから嬉しいとか言わないでください。もっと責めてください! ごめんなさい、ごめんなさい、守ることすらできないふがいない私を、許して……っ」
「お姉ちゃん……」
こうなるから言えなかったのだ。
アミは心から、メアリーたちが悪いだなんて思っていない。
残る時間が一週間減ったのなら、その分だけ濃密な時間を、明るく楽しく過ごしたいと思うから。
罪悪感で抱きしめるより、愛おしさで抱きしめてほしいから。
「あのね、お姉ちゃん」
「私は……無力で……ごめんなさい……本当に……っ」
「お姉ちゃん、わかった。じゃあ……お願い、してもいい?」
「何でも言ってください。本当に、どんなことでもっ」
「えっと、じゃあ……け……」
「け?」
「あ、いや、違うな。私は……お姉ちゃんに……笑ってほしい、かな」
ひょっとするとそれは――一番、過酷な願いなのかもしれない。
「申し訳ないとか、ごめんなさいとか思わずに、私が死ぬ日まで、楽しく過ごしてほしい」
だが、どんなことでもすると言ったのだ。
叶えずして何が姉か。何が恋人か。
メアリーは強く目を閉じた。
そして、その願いを叶えるべく、胸の内の罪悪感を噛み殺して――血で心を満たして――目を開く。
涙で濡れた顔で笑う。
「っ……わかり、ました。それが、アミの願いなら」
声はまだ震えている。
だがそれも、あと少し時間が経てば、心の牢に封じ込められるだろう。
残りの時間、噛み殺し続けて、それを解き放つのはアミが死んでからだ。
たとえそれが地獄のような苦しみだったとしても。
それは、メアリー自身の罪だから。
「カラリアもだよ? 自分が悪いとか思わないでね。一緒に、笑っていてほしい」
「……それは」
カラリアも強く歯を食いしばる。
そんなことできるはずがない――と言ってしまいたいだろう。
だがメアリーだって耐えたのだ。
「わかった……思い出は、楽しいほうがいいからな」
「うん、うん、それがいい」
その後しばらく、三人は他愛もない会話を交わした。
王都の美味しいお店をメアリーから聞いてみたり。
地図を見ながら、戴冠式のあと、どこに行くのか予定を立てたり。
楽しいことを。
楽しい未来のことを、たくさん話した。
◇◇◇
一時間ほど経ったころ、ふいにメアリーが立ち上がる。
お手洗いに向かった彼女がいなくなると、部屋はアミとカラリアの二人きり。
アミは自分の体につながったコードを指先でつまんで、何気なくカラリアに言った。
「ごめんね」
「なぜアミが謝る」
「無茶なこと言っちゃったな、と思って」
「気にするな。お前自身が気にしていたのでは本末転倒だろう」
「それもそだね」
「……実際のところ、どうなんだ」
「んー、わかんない。でも、前より体が動かなくなってるのは事実かな。ヘンリーとの戦いが終わったら急にって感じで」
「今日まで無理をしてたんだな」
「風邪でも引いたかな、とは思ってたんだけど。心配かけちゃいけないと思って、頑張っていつも通りにしてた」
「病気とは違う……回復は難しいんだろう」
「たぶん」
「旅はどうする?」
「無理してでも行くよ。お姉ちゃんと一緒に見たい場所、いっぱいあるんだもん」
アミはテーブルに置かれた地図を見て笑った。
「私ね、本当なら故郷の村で、死ぬまで暮らしてたと思う。そんな私が、王女様と一緒に村どころか国まで飛び出すなんて、物語みたいだよね。お姉ちゃんは私にたくさんの夢を見せてくれる。本当に身に余る幸せで……私にそれを与えてくれるお姉ちゃんが、大好き」
「あいつもアミのことが好きだからな」
「カラリアだってそうでしょ?」
「まあ、そうだが……今は私のことはどうでもいいんだ」
「どうでもよくないと思う。好きな人間同士だからこそ、お姉ちゃんの気になる部分も見えてくるし」
「気になる部分? 欠点か?」
「ううん、今のお姉ちゃんの話。私のこと抱きしめながら――
「安堵していたと? そんなはずないだろう」
「ううん、してた。お姉ちゃんは、確かに私の寿命が縮んだことを知って悲しんで、苦しんでいたけど、その中に少しだけほっとする気持ちも混ざってた」
「……アミが死んで喜ぶとでも?」
「何でだろう。わかんない。でも……悪い気持ちじゃないの。本当に私のことを想って、温かい気持ちなのに……」
温かく、死を祝福する。
矛盾と矛盾に矛盾を重ねたその感情は、アミにも理解できるものではなかった。
「何か……隠し事してるのかな、お姉ちゃんも。今日までの私みたいに」
できることなら、メアリーの全てを理解してから死にたい。
それは過ぎたわがままだ。
けれど、それが自分にまつわる感情なら――死ぬ前に話してほしい。
そう願わずにはいられなかった。
◇◇◇
お手洗いと言って部屋を出たメアリーは、少し離れた廊下の隅で、しゃがみこんで嗚咽を漏らす。
「うっ、ぐうぅ……ふ、うぅぅ……」
アミには“笑う”と言ったものの、そう簡単に気持ちの整理はできない。
彼女のいない場所で、その後悔で身を焼き、苦しむしかないのだ。
「ごめんなさい……私が弱いから……私が、もっとしっかりしていれば……!」
あの戦いに限ったことではない。
全てが終わった今――『もっとうまくやれたのではないか』と思えることがたくさんある。
そもそも、アミがあの毒ガスを吸ったりしなければ、アルカナを身に宿すこともなかったのだ。
もっと早く、メアリーがアミを救っていれば――
「私のせいで……私が……!」
顔を覆う両手の爪を立て、皮を割いて肉をえぐる。
生じた傷は『
それは自己満足の痛みだ。
苦しめば少しは許されると思い込みたいがゆえの自傷行為だ。
そんなものに頼ろうとする自分を客観的に見て、余計に嫌になる。
自己嫌悪に陥るメアリーは、何度かその場で深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着ける。
(そろそろ戻らないと、アミを心配させてしまいます)
お手洗いで血に汚れた手を洗い、彼女は何もなかったような顔で部屋に戻った。
そしてまたアミたちと一緒に話して、一緒に食事をして、一緒にお風呂に入って、一緒に寝て――残り少ない時間を惜しむように、一時も離れずにその日を過ごしたのだった。
◇◇◇
――戴冠式まであと一日。
朝、メアリーに面会を希望する人間がいる、と兵士が声をかけてきた。
聞けば、ステラが城の前まで来ているという。
(……ちょうどいい機会ですね)
メアリーはそう考え、一人で彼女と会うことにした。
会ったところで無意味だとはわかっているのだが。
応接室で待っていると、兵に案内されたステラがやってくる。
「ご無事で何よりです」
「メアリーちゃんこそ」
穏やかな空気で会話ははじまる。
ステラはソファに腰掛け、テーブルの上に用意された高そうなティーカップとお菓子に「うわぁ」と感嘆の声をあげた。
「王都には、私に会うために?」
「ここに来たのは会おうと思って、だけど……王都にいること自体は違うかな。元々、私の今の家は王都にあったから」
「そっか、ベストセラー作家ですもんね」
「そんなに立派な家じゃないよ? ほら、出版社も王都にあるから、近いほうが都合がいいんだ」
「出版社といえば、シャイティさんも無事ですか?」
「うん、あの双子も無事だよ。今は私の家に居候してるんだ。早いうちにメアリーちゃんには連絡しようと思ってたんだけど……ほら、復興作業や会見で忙しかったでしょう?」
「そうですね、落ち着いたのは今日からでしょうか」
「だから、すこし日を開けて会いに来たんだ。その……メアリーちゃんも、心の整理が必要なんじゃないかとも思ったから」
「お気遣いありがとうございます。幸い――と言ってしまうと薄情ですが、思ったよりは落ち込んでいない自分がいます。支えてくれる人がいるからかもしれません」
「いいなあ、そういう相手が生きてるって。四人で戦いを乗り越えてきたんだもん。『世界』っていうすっごく強いアルカナも、ギリギリまで追い詰められたんだよね?」
「追い詰めた……ですか」
メアリーはその言葉を反芻し、目を閉じた。
「ふぅ」と小さく息を吐き出す。
そして、ステラに向けて語りはじめた。
「実は私――ぜんぜん、追い詰めたとは思っていないんです」
「そうなんだ。倒したのに?」
「『世界』を宿していたのはキャサリンお母様です。ですが私は、あの人がアルカナなんて持ってなかったんじゃないか、と思っています」
「え……? でも、会見ではキャサリン王妃がアルカナ使いだったって言ってなかった?」
「それは『世界』の言い分を信じた場合の話ですから。受け入れるには、矛盾が多いんです」
「矛盾かぁ……ヘンリー国王だったら、メアリーちゃんは納得してたのかな」
「ええ、仮にお父様が『世界』のアルカナを堂々と見せびらかし、そして実際に所有していたのなら、辻褄は合います」
「どうして?」
「私は、『世界』が持つ“支配”の能力が真価を発揮するには、徹底的に誇示するか、徹底的に隠蔽するかの二択だと思っています」
条件は不明だが、相手の精神を完全に支配する能力を持つアルカナ――その存在は、ただ“在るだけ”で脅威だ。
圧力にも、抑止力にもなりうる。
一方で、隠れて使えば、誰にも気づかれずにその力を振るうことで、世界を望む方向に導くことも可能だろう。
だがその場合は逆に、正体を知られ、警戒が強まれば動きにくくなる。
半端が一番効率がよくない。
「国王であるお父様の場合、その能力を誇示することで強い影響を世界に及ぼせたでしょう。各国の君主を支配した時点で、人類から抵抗の意志を削ぐことも可能でしょうし、うまく操れば本当に世界を滅ぼせたかもしれない」
「ふむふむ、なるほどね。でも陛下はそうじゃなかったよね」
「ええ、隠しもせずに、見せびらかしもしなかった。しかも、あろうことか本来の持ち主はお父様ではなくお母様だった。まあ、二人は夫婦ですから、力を誇示しつつ実はお母様が本来の持ち主――というのは戦略としては有りかもしれませんが、だとしても、やはり二人の動きは中途半端です」
「つまりメアリーちゃんは、『世界』のアルカナはそれ以外の人間が持ってると思ってるってこと?」
「思ってはいません」
メアリーの言葉に、「ん?」と首をかしげるステラ。
そんな彼女に向かって、メアリーはまっすぐに言い放った。
「
その射抜くような瞳を前に、ステラは口元を緩める。
「へえ、そうなんだ」
そして不自然なほど興味なさげに、相槌を打った。
「そもそも、『世界』のアルカナは、ステラさんの故郷であるミーティスの村にいたリュノ・アプリクスが、自分の中に封じていました。それが、十六年前の実験の失敗により流出してしまったのです」
「その実験のせいで王妃様に入ってしまったってこと?」
メアリーは首を横に振った。
「他のアルカナのパターンからして、継承の可能性が高いのは、物理的に近い距離にいる人間のはずです。だから、私は現場にいたお父様こそが『世界』のアルカナ使いだと思っていた」
「王妃様はいなかったの?」
「その頃は、一市民として王都で暮らしていました」
「つまりメアリーちゃんは、その場にいた他の誰かが『世界』のアルカナの本当の所有者じゃないか、と思ってるんだね」
「そういうことです。その実験が行われたのは、ピューパの施設でした」
「じゃあ犯人はピューパの研究者なんだ」
「リーダーはユーリィ・テュルクワーズという、当時十代の少女でした。彼女はとある事情でピューパに強い憎しみを抱いているようですから、参加した他の研究者が現在も無事だとは思えません」
「つまりその人が――」
再び、メアリーは首の動きでそれを否定する。
彼女はユーリィと会っている。
そのときに理解したのだ。
「いいえ、彼女は私ではない別の人間を憎んでいます。一方で『世界』は明らかに私を狙っている。はっきりとした違いがあります。確かにユーリィは行方不明ですが、彼女はあくまで『世界』の傘下にいる人間であり、黒幕は別にいると私は考えます」
「ん……? ヘンリー国王でもなく、研究者でもないなら、そこに誰がいたの?」
メアリーは小さく息を吐き出し、間を置いた。
「話は変わりますが、ステラさんはミーティスで暮らしていたリュノ・アプリクスについてどれぐらいご存知ですか?」
「急だなあ……存在は知っていた、ぐらいだよ。ほとんど他人と話さない人だって聞いてたから」
「では、あの小説はどうやって書いたんですか?」
「小説? 私の?」
「キューシーさんから内容を聞きました」
「聞いたんだ……読んでほしいなぁ。あと、“あの小説”じゃなくて『この美しい世界のために』ね? ちゃんとタイトルも覚えてよ。メアリーちゃん、一度だってちゃんと小説のタイトルを言ってくれたことないよね」
「かもしれません。その小説ですが――現実にあった出来事を元にしたものですよね」
ステラは虚を突かれ、きょとんとした。
しかしすぐに肩を震わせ笑う。
「あはははっ、急に変なこと言うんだね、メアリーちゃんは。だったらジャンルが変わっちゃうよ」
「ミーティスの森の奥に、リュノが暮らしていたと思われる小屋がありました。そこに一枚の写真があったんです。写真には、まだ幼い少女とリュノが写っていました」
「へえ、そうなんだ」
「あの村で、リュノは誰かと同居していたんです。その“誰か”は女神のような――いえ、実際に女神であったリュノと心を交わした。まさに、ステラさんの書いた小説のように」
「写真の女の子は私と似てたのかな?」
「顔が消えていたのでわかりません」
「なら私とは限らないよね」
「断言できますか?」
強めの口調で追求するメアリー。
ステラは観念したのか、大きくため息をついて語りだした。
「はぁ……一応、言っておくけどね。私がそれを隠しているのは、色んな事情があるからなんだ。まずひとつ、当人がすでに死んでいるため、許可が取れないこと。そして、あれがノンフィクションだってわかると、私の評価っていうか……売上にも響くということ」
それは、嫌に現実的な理由だった。
ステラだけの望みではなく、シャイティも関わっているのだろう。
「確かにメアリーちゃんの言う通り、あの小説は実際に起きた出来事を元にしてるよ。正確には、私が聞いた話、だけどね」
「では、リュノと同居している少女のことを知っているんですか?」
「さっきも言ったように、私はリュノとは面識がない。つまりその子のこともよく知らない。だから……又聞きなんだ。友達の友達から聞いた噂、みたいな」
「キューシーさんは、あの小説には強いリアリティがあると言っていました。それこそが魅力であると。又聞きでそんな話が書けるんですか?」
「そこは私の腕の見せ所だよ。これでも、昔から小説家を目指してたんだからね。あくまで私は、村の噂話を広げてあの小説を書いたんだ」
そう言ってステラは力こぶを見せつけるようなポーズを取った。
しかし悲しいかな、細い彼女の腕には盛り上がる筋肉はついていなかった。
そんな彼女をじっと見つめるメアリー。
その視線に疑念が籠もっていることに気づいたスタラは、悲しげに問うた。
「メアリーちゃん。もしかして、私が『世界』のアルカナ使いだと思ってるの?」
「ステラさんがリュノと同居していた少女なら、十六年前の実験の現場に来ていても不自然ではありません」
「でも違うから」
「だったら教えてください。ステラさんはどうして、私が王城で暮らしていた頃、何度も会いにこれたんですか? 私はこれでも王女です。遊ぶためだけに簡単に会える相手ではありません」
「親がヘンリー国王と知り合いだったんだ」
「あんな田舎村に暮らしていたのに、ですか?」
「他にどんな理由があれば納得してくれる?」
「……」
「メアリーちゃんの質問は、結論ありきだよね。私、悲しいな」
「……ごめんなさい」
「謝るのは素直なんだね」
「わかっていますから」
「何が?」
「ステラさんが『世界』のアルカナ使いだというのなら、私が何をしても無駄だということです」
大真面目にそう話すメアリーに、ついにステラは耐えきれずに噴き出した。
「ふふっ、さすがに過大評価すぎるよ。私に何ができるの? ヘンリー国王との謁見はできても、さすがに他の国の偉い人とのつながりはないんだから」
「そうですね……どうせ、明日になればわかることですから」
「戴冠式で何が起きるの?」
「起きるとしたら、そこしかないでしょう」
「何も起きなかったら?」
「地面に額を擦り付けて謝ります」
「やだよ、私はメアリーちゃんのそんな姿は見たくない」
「それぐらいのことを言っているとは思いますから」
「ならもしメアリーちゃんの予想が当たったら、私が謝らないとね」
「その場合、嫌味にしかなりませんよ」
「あははは、確かにそうかも」
ステラが笑っても、悪くなった空気が戻ることはなかった。
自然と口数は減って、気まずいまま、ステラは「またね」と部屋を出る。
無事さえ伝えられればいいのだから、彼女の目的は達せられている。
帰る理由もないが、帰らない理由もなかったのだろう。
残されたメアリーは、両手を重ねて握り、額に当てて黙り込む。
(何も起きないのなら、それでいいんです。頭蓋骨が折れるまで地面に頭を打ち付けて謝ったって、この不安が拭えるのなら構わない)
メアリーが感じている焦燥感は、ただの“予感”と呼ぶには形がはっきりしすぎていた。
(でも……不自然すぎる『世界』の動向と、所在不明のユーリィ――その二つが揃っていて、何も起きないなんてことがありえるのでしょうか)
怖い。
ただただ、明日という日が来ることが。
しかし無情にも時間は過ぎていく。
メアリーはその不安を少しでも誤魔化すべく、できる限り大切な人と一緒に過ごした。
夜になると、キューシーも戻ってくる。
強行軍のスケジュールで帰ってきた彼女は、メアリーを見るなり抱きついた。
メアリーも強く強く抱き返した。
アミも便乗してキューシーに抱きついた。
カラリアは遠慮するといいながら、アミに強引に引きずり込まれた。
フィリアスとエドワードは、そんな四人を見ながら呆れていた。
一緒に夕食を摂った。
メアリーの部屋で、友達同士のようにじゃれあい、騒いだ。
夜はぎゅうぎゅうに詰め込んで、一つのベッドに眠った。
それでも陽は登る。
世界を照らす光は、優しく全てを包み隠す夜の帳を裂いて、ハラワタを引きずり出すのだ。
そして、戴冠式当日がやってくる――
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