背中の恋 後篇

 

 スカートがずり下がりかけていた。前の客がファスナーを下げたせいだ。その客はスカートを腰まで戻してファスナーを引き上げてくれると、函にお金を入れて退室していった。

 いつも背後のソファから見ているだけなのに、はじめて近くまで来た。スカートを直してくれた後ネット越しに間近から凝視してくるその圧がすごかった。

 ようやく最終の客が帰った。「お疲れさま」スタッフが入って来て車窓風景の映像を止め、首の鍵を外して網ネットを取り、両手両足の拘束を解いてくれる。わたしは身体を拭くのももどかしくダイヤルを回して函を開けた。

 茶封筒。中には五万円ではなく五倍の二十五万円。同じ封筒の中に手帳を破った手紙が入っている。

 いそいでわたしは二つ折りにされた紙片を開いた。卒倒しそうになった。

 フォークダンスの音楽が聴こえてくる。



 ひと目を忍ぶ江戸時代の夜鷹とはこんな感じかもしれない。御高祖で顔を隠して川べりに隠れ、みち往く人に誘いの声をかける。江戸の頃なら岸辺の葦に打ち寄せる波が寂し気な音を立てていたことだろう。

 夕陽に映える金の延べ棒みたいなものは、乱立している湾岸のタワマンだ。あの中のどれか一つの最上階にローズさまが住んでいるらしい。

「寄こせ」

「久しぶりだね……」

「話はあとだ。まず寄こせ」

 指定された待ち合わせ場所に彼は会社帰りのスーツ姿で現れた。晩秋の河岸の遊歩道にはひとけがない。

 事務連絡以外には使うことのないわたしのスマフォを取り上げると、彼はトーク型アプリをインストールし、勝手に彼との友だち登録まで済ませてしまった。

 それから彼は自分のスマフォでその辺の景色をランダムに撮影して、たった今インストールしたばかりのわたしのアプリにその画像を送ってきた。鉄骨剥き出しの橋や一番星の昇る空。適当に撮ったわりにはいい構図。

『試しに文字でも写真でも何か送ってこい』

『こう?』

 わたしが使い方に慣れるまで、眼の前にいる相手としばらく無言でメッセージのやりとりをした。

「あ、可愛いスタンプ」

「だるくても一日一回は確認しろよ」

 彼は来週、仕事で中東に発つのだという。

「出張したり会議が入ったり出立までめちゃくちゃ忙しい。今日しかなかった」

「なんでわたしに頼むの」

「現地で日本茶が呑みたい蕎麦が喰いたいとなった時に、女に送ってくれと頼むほうが何かと便利なんだよ。あっちは音声は使えないがメッセージなら可だから」

「その為の友だち登録なんだ」

 相変わらず強引だ。微笑むことは出来なくともわたしの眼は笑った。彼は云い添えた。

「社会と繋がっている俺と違い、お前のほうのセーフティーネットが少なすぎるからな」

 顔のないわたしには十年近い歳月の経過は無きに等しいものだったが、彼のほうは少年からおとこの顔になっていた。彼も愕いただろうが、わたしだって愕いた。

 同窓生が再会してみると、片方は風俗で身を売る女に、片方は風俗で女を買う男になっていたのだ。


 修学旅行にわたしは行かなかった。別室待遇が無理だったので不参加にするしかなかった。遠足も休んだ。行ってみたかった。

 その手の行事は彼もすべて休んでいた。他にも行かない人がいるということは心強いことだった。彼にとっては進学に必要な最低限の出席日数だけが肝要で、他のことは最初から投げていた。

 中東に何をしに行くのか訊いてみると、かなりの大事業を手掛けることになっていた。彼が就職した先は一般にはあまり名が通っていないが関係者ならばすぐに分かって仰ぎ見るような企業だ。

「俺は技術屋だから」

 問いに対する彼の回答には矜持があった。才能で世の中とも適応し、欠点を自制することも覚えて望ましい人生をちゃんと生きているのだろう。

「二十五万円は多すぎるから返す」

「それは投げ銭。客になっていたんだからいいだろう」

 出国前に想うことがあってわたしの許に通うことにして、その都度五万円を函に入れていたのだそうだ。ところが出発が急遽早まることになり、彼はわたしを呼び出した。

「遊興に使う金は年間五十万と決めている。来年はずっと向こうにいて決めた予算を日本で遣うことがない」

 自信満々にそう云われても、その金額が多いのか少ないのかも分からない。高級店ならあっという間だし、選ぶ店と使い途次第だ。

「誰憚ることもない独身だ」

 わたしが黙っているのを何と取ったのか、彼は吼えるように云った。

 ぞくぞくしてきた。

 あのお触りなしの無言の客は、本当に彼なのだ。

「いつからわたしだと分かってたの」

「初回から」

 彼は云った。

「右膝の裏にほくろがあるし、背の高さもお前だし。声を掛けるのをずっと迷っていた。声をかけたら傷つけることになるのかと考えに考えた。鎖骨のところに少しだけ見えている爛れにも見覚えがあった。海外出張が早まったことで腹が決まって呼び出すことにした」

「顔をみて」

 想い切ってわたしは告げた。わたしの顔を見て、そして、もう何も云わないで欲しい。

「気にしないふりをして動揺を押し隠して平静を装うさまを見るのも、露骨に顔を歪めるのを見るのも嫌。だからわたしはあなたの反応を視ないように眼を閉じている。その間にわたしの顔を見て」

「愕かない」

「いいからそうして。そして五秒以内に背中を向けて振り向かずに立ち去って。何も云わないで帰って。一度も外で顔を見せたことのないわたしの為にそうして。ゆっくり三十秒を数えたらわたしは眼を開ける。その間に遠くに消えておいて」

 それで全ての説明がつくはずだ。なぜあんな店で日銭を稼いでいるのか。なぜこれから彼との再会を祝って食事に行くことを断ったのか。

 夕闇が川べりを包み、僅かな残照が波がしらを糸のように縁取るだけになっていた。

 わたしの剣幕に圧されて彼は承諾した。彼に後ろを向いて待つように頼んだ。わたしは頭部を覆うものを全て取り払い、眼を閉じて、「見て」と彼に云った。



 お岩さんみたいで愕いたでしょう。

 妖怪が一番近かったかもね。

 二度と店に来ないで。わたしは傷ついてないから大丈夫。

「お倖せに」

 わたしのような怪物とすれ違ってくれた男の子。

 すべて忘れて倖せになって下さい。心からそう希います。



 翌日、ローズさまが来た。

「子どもの頃の夢は電車の車掌さんになることだったんだ」

 一緒につり革を持つように片腕をわたしの片腕に沿わせ、腰にもう片方の腕を回してくると、映像の中の電車の揺れに合わせてローズさまはわたしの身体を左右に優しく揺らした。こんなことをやっているカップルは確かに電車の中にいる。

「タワマンはね、周囲にまだ下町情緒が残っているから買ったんだ。コッペパンの美味しいお店があって、店番をおばあちゃんと猫がやっている。ジャムとチョコレイトとマーガリン。小豆と生クリーム。きなこ味。どれを食べても給食の味」

 イケメンボイスで囁きながら、ローズさまは壁に流れる電車の旅を楽しんでいるようだった。

「いま見えた神社は穴場だけど秋になると銀杏が見事。停車中のこの駅にも住んだことがあるよ。駅前の床屋で髪を切ってもらっていたんだけど染めるようになってからは店を変えたんだ。でも時々懐かしくなっておやじさんに逢いに行ってる。移動は車ばかりだけどたまにはこうして女の子と電車に乗るのもいいね」

 ローズさまが近くにいるだけでふわふわしてくる。嬢たちがよく云っている男の人に抱かれる安心感ってこういうことなのかもしれない。

「大丈夫、触らないよ。遅い時間だからもう痛いでしょ」

 では何をしに来たのだろう。

「うん。ただ君とこうしていたいだけ」

 わたしを抱えて電車の映像を愉しんだローズさまは、ずれていたブラジャーのホックを留め、ブラウスの前の釦もぜんぶ嵌めてきれいに服を整えてくれると、「ありがとう。楽しかった」低く囁いて出て行った。

 百万円出せば触れてあげると云われたら出してしまいそうだった。遊郭に太夫がいたように、夜の男の中にも才能をもつ人がいる。それは天賦のものであり真似をしても無理なのだろう。容姿の良さだけでは説明のつかない、人を惹きつける何かが彼らから出ているのだ。

 男性芸能人が結婚する一般人の女性とはたいてい高級店のプロ嬢のことだが、そちらからも好きに選べるくせに素人くさい子がローズさまのお好みなのだという。そんな気取らないところも月間売り上げ数千万という人気の秘訣なのだろう。

 前と同じように帯をつけた十万円。感想として、逢えるだけで華やぐという意味がよく分かる人だった。



 指先にとった薬を顔に薄く塗る。わたしの皮膚は皮膚ではなく貼り付いているだけのゴムのようなものだ。夜業につくことでみるみるうちに桁違いの貯えが出来たが、一度でも大病をしたら全て消し飛んでしまう。公的援助もいつまで続くか分からない。そのうち本当に闇にまぎれて夜鷹になってしまうのかも知れない。

 飲酒運転の大型トラックが暴走しながら衝突してきて車が数台横転し炎上した。家族は車内で全員死んだ。シートベルトの隙間から外に投げ出されたわたしのみ生き残ったが、顔面に大怪我と大火傷を負い、片方の耳も取れ、人間の顔というよりは粘土細工になってしまった。

 元の顔を知らないので生まれつきこうなのだと想いながら生きてきた。ウィッグで長い髪を体験をさせてもらった時には感動した。

 何度か手術も受けたが、鼻を作ったあたりで激痛に負けて、そこで満足することにした。



 なんでこんな仕事をしてるの。

 客がこの文句を口にした時は金蔓にするチャンスだ。女の子たちは並べ立てる。親の借金、学費、将来の資金。群がる男たちから金を搾り取ろうとする。

 半数の子は無計画に散財し、アイドルやホストに血道を上げて稼ぎを溶かし、貯蓄ゼロのままで店替えに転がり落ちていく。

 意志強固で目的意識をもっている人ならば短期間でしっかりお金を貯めて、目標金額に達するとすぱっと上がる。

 何年も残っているのは昼職では使いものにならない薄ぼんやりさんと、お金が好きで風俗が天職だと云い切れる人、そして少し悪い心がある女。

 待機室でわたしはそんな女の子たちの話に耳を澄ますのが好きだった。そうでもしないと、精神的に擦り切れてしまって病んでいた。

「気持ちイイ? お前ごときでいいわけないでしょ演技だバカ」

「際限なく流れてくる勘違いマグロをほいほいっと片付ける作業」

「売春なんかして恥ずかしいとは想わないのかって、何をしに来たんだよ」

 客をあげつらって大笑いしている若い嬢たちの威勢の良さに、わたしはどれほど救われてきたか分からない。もし自傷行為の代わりに身を売っている暗い子ばかりの店にいたなら、身体中にどろどろについた液体に沈むようにしてわたしの心も死んでしまっていただろう。



 きれいなランジェリー。薄い色をした蝶のよう。今となっては抜け殻のようなものだが、もったいないから新品は捨てずにスーツケースの隙間にできるだけ詰めた。荷物検査のX線ではスカーフに見えているといいけれど。

 長時間のフライトも飛行機に乗るのが初めてなので飽きずに窓にはりついていた。眼下には虹を帯びた白い雲と岩肌を見せている険しい山脈。

 どんな色の下着が好きなのだろう。彼の相手をした女の子たちに訊いておけば良かった。多分、他の男たちと同じで下着なんか眼中にはないと想うけど。

 海外出張先で人心地ついた彼からはメッセージが毎日届くようになった。


『メンテナンスを行う技術者が圧倒的に足りない。上司と一緒にこっちでその会社を興す。スキーなら人工スキー場があるから一年中滑れるし、女の多くはお前みたいな被り物をかぶってる。俺のやった金がまだあるならそれで旅券をとって早く来い。来ないなら迎えに行く。』

 

 空港ではもう彼が待っているだろう。暮らしている室は手狭なので、新しくコンドミニアムを借りたそうだ。覆い隠した顔が目立つ夏が嫌い。そんなわたしが暑い国に行く。

『ブラウスははだけてるしスカートの下はノーパンだし、なんて恰好して男に触らせてたんだ。破廉恥すぎて眼を疑ったぞ』

『自分からその手の店に来ておいてそんなこと云う?』

『オプションどうですかって案内されたらお前がいる。思考停止したわ。下着くらいつけとけ』

『つけてたけど剥がされるのよ。店の女の子のも剥がした覚えあるでしょう?』

 下着姿をご披露しても、ぴらぴらの邪魔な布は取れって云いそう。

 ややこしい性格の彼が世界で一番大切にしたいと云ってくれた女であることを、わたしはこれから自分に云いきかせて生きるのだ。

 彼が好きなのはわたしの背中。好きだから見ていた背中。ほかの部位も好きになって欲しい。きっとそうなる。

 未来都市のような銀色の街に向かって飛行機が降下する。

 頭部をすっぽり隠すのはヒジャブではなくブルカだ。似合うといいな。似合うも似合わないもないような代物だけど、地上の鳥のように美しい。そして真っ暗な寝室では彼に顔を触ってもらいたい。今夜からでも。少しだけだけど唇もある。

 


 >電車の子、上がったな

 >上がった

 >女の子が店から予告なく消えるのはいつものことだけど、飼ってたからロスがすごい

 >可愛かったよな。いやいやする時にあの子膝をぎゅっと合わせるんだよ。我慢我慢って無理やり開いて開発してたけど

 >触れて育成できるアイドル

 >寂しいのは確か。でももう戻って来るな

 >最後にやり納めしたかった

 >外国にいる男のところに嫁に行ったらしい

 >そうか

 >こんな掲示板なんか読んでないだろうけど、ありがとう

 >大好きでした

 >この板も終わりだ。このまま最後まで埋めていこうぜ

 >俺たちはみんな君の背中に恋をしていました。どうか倖せになって下さい

 >ありがとう

 >本当にありがとう

 



[了]

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背中の恋 朝吹 @asabuki

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