背中の恋 中篇
この電車は山手線内回り池袋新宿方面行きですお出口は右側ですこの電車には優先席があります優先席を必要とされるお客さまがいらっしゃいましたら席をお譲り下さい次の電車をご利用下さい
意外にも鉄道オタクは客にいない。その代わりに鉄道オタク風の変人は来る。太った腹をわたしのお尻に押しつけて愚鈍に弄り回しながら抑揚のない声でずっと独りごとを云っている。壁の映像が山手線外回りに切り変わると、車内放送の独り言も外回りのものに変わるのだ。
「汚いなぁ」
膣から引き抜いた親指をわたしのスカートで拭い、太った鉄道オタクもどきは横揺れしながら帰って行った。顔が見えていたら気持ち悪すぎて気絶していたかも知れない。
ポストに紙幣を入れるかすかな音。一部を除き、たいていの人は帰りがけにお金を残してくれる。
「ごめん、財布を見たらお札がもうなかった」
断ってから小銭を全額入れていく人もいる。
今日はブレスレットを手首にかけられた。きっと彼女にあげようとして失恋したのだ。その日はずっと肘のあたりで金属が揺れていた。業務が終わってからすぐに取り外して捨てた。
「キモ客は上達するつもりもないもの。初対面の相手との高度なコミュニケーションだから他人と感性をやり取り出来る男しか本当は楽しめないのよね。一方通行の害キチばかりでほんと疲れる」
嬢たちの言葉どおりほとんどの男は力任せなだけで絶望的に下手だった。それでも出血の一件以来、気遣いながらそろっと触るだけの人が増えたのはありがたかった。あと何故か口づけをする人も増えた。肩や背中や尻に彼らは唇を這わせる。大丈夫? 痛くない? 触らせてくれてありがとう。
トルルルルル。一番線ドアが閉まりますご注意下さい。カタン、カタタン。
続けてよければ頷いて。
やがて女の子たちがいつも云っていることがわたしにも分かる日がやって来た。
その人の源氏名はローズと云った。女の名のようだが男だ。年収億超えの若きカリスマホスト。人呼んでローズさま。
室に入って来た時から違っていた。すばらしく良い匂いがして、後で知ったがとんでもなく高価な香水だった。
無闇にくすぐるのではない、すーっとした軽い触れ方。それだけで頭がじんじんしてくる。エステみたいだ。「気持ちがいい?」初めて声をかけられたその声音までかっこいい。
「可哀そうに口に枷までつけられてるの?」
わたしが頷くと「ふうん」と云ったが、その間にも手を止めなかった。
ところがローズさまは途中で指を引いてしまった。そしてわたしを抱きしめた。
「まだ男とセックスしたことがなかったんだね」
ローズさまは残りの時間をずっとわたしの身体を優しく撫ぜることで過ごし、帰り際にポストにお金を入れて出て行った。
休憩時間に待機室に行くと長椅子に顔を上気させた女の子が仰向けになって倒れていて、脚をばたつかせていた。
「今日はもう帰る。腰がくだけて無理。ぜんぶキャンセルする」
「聴いたわよローズさまが来たんだって!」
待機室に悲鳴のような黄色い声が満ちた。
「どんな超高級店でも出入り自由なのに、たまにふらっと店に現われて営業ぬきでお金を落としていくって本当なんだ」
「ローズさまは突然来ると『誰でもいいから空いている子を』と頼むのよね。売れない嬢しかいなくても、その子でいいよって云うんでしょ?」
「どうだったどうだった」
「『ぼくが癒されに来たからいいんだよ』『恥ずかしがらないで脱いでごらん』って。この仕事をしていてこんなに良かったのは初めて」
「きゃああー素敵」
『ごらん』『いいんだよ』のコンボだが、カリスマホストが口にすると何の違和感もないのがすごい。後で確認すると人工的な感じのするイケメンだった。
「でもあれ整形じゃないのよ。だからすごいのよ」
ローズさまから頂いたのは十万円。帯封には高級紙の名刺が挟まれていて、そこには『身体を大切にして下さい』と達筆で書かれてあった。
ローズさまは別格としても店の女の子の身も心も蕩けさせるような上客は全体の数%もいない。いってはなんだが、過半数はひどい。身体と心を壊して精神病院送りになる女の子が多いのもよく分かる。わたしも薬がないと眠れなくなった。
「究極の賤業。次に無理を強いられたらその場で辞めてやる」
「変なのが多いから普通の男が来るだけでも癒されるわ」
わたしは毎日出勤するわけではなかったが、その日のラストまでにいったい何人の客をとっていたかまったく記憶にない。覚えてもいられない。
鉄道オタクもどきほどではないが、変わった人は他にもいる。吊るされているわたしを見て「それだと腕が痛い」少しでも楽になるように姿勢を直してくれた上に生活の改善を説いてきた整体師。「ぼくの髪型どう想いますか」網ネットで何も見えないのに何度も訊いてくる
「花街の風流なんて絶え果てたわね」
経営側にうつった老嬢たちに嘆かれるだけのことはある有様なのだ。
あと一人、とても変わった人がいる。
今日もその人が来ていた。三歩ほど下がった処にあるソファに腰をおろして時間の間ただわたしの背中を見ているだけでお触り一切なしの人。
放置プレイ状態にされているわたしが身じろぎすると、背後で少し向こうも動く。だからわたしの背中を注視していると分かるのだが、自慰をしている気配もないし何がしたいのか分からない。
そのうちに気が付いた。その客が入る日にはいつも、茶封筒に入れられた五万円がポストの中にある。
「えーっと。田中さん」
呼んでおいてから、人気嬢は自分の云ったことに笑い出した。田中さんというのは客がよく使う偽名の一つで名無しの権兵衛とほぼ同義だ。待合室が田中さんだらけのこともある。
「ごめんね。名前なんだっけ」
接客しないわたしには源氏名はない。
「
瑠璃子さんは系列の風俗店でも一番格上の店にいる。極太客を幾人か抱えており、身体を売らなくとも常に貸し切り状態という羨ましい限りの美人だ。もとは客室乗務員。親族が不祥事を起こして多額の負債を抱え、身を隠すつもりでこちらの世界に来たところたちまちのうちにナンバー入りし、さらには老舗高級旅館の跡取り息子に
「わたし、上がることになったんだけど」
しっとりした風情の瑠璃子さんは切り出した。
「婚家が旅館なの。それで、本気で上がりたいと想っている子がもしいたら、何人か従業員として連れて行こうと想ってるの。気立てのいい真面目な子でも運がなくてこういう処にいる子がいるでしょう。わたしも知り合いがいるほうが心強いもの。二人ほど承諾してくれたのだけど、あなたもどうかしら」
待機室でゴミを片付けたり掃除をしたり卓上を拭いているわたしのことを他の子の口からきいたそうだ。気働きの出来る子だと見込んで声を掛けてくれたらしい。
「その頭巾、想い切って取ってしまえばいいのに」
瑠璃子さんは情をこめて云った。
「怪我か痣でもあるの。そのうちみんな見慣れるものよ」
何度そう云われてきたことか。見慣れる程度ならばどれほど良かったか。整形外科手術が終わって鏡を見るたびに失意の谷底に転落するしかなかった少女時代。
わたしは黙って瑠璃子さんの前で頭の被り物をずらした。家に帰った時にしか外さないが説明するより早いから。
瑠璃子さんは短い叫び声をあげた。
わたしはわたしの顔を知らない。物心つく前に失ってしまった。だからこれがわたしの顔だ。死ぬまでずっと。
飛びつくようにして瑠璃子さんはわたしに抱きつき、「ごめんなさい」と絞り出すようにして謝った。
それでその話は立ち消えになった。
夜遅くアパートに帰る。置配で荷物が届いていた。風呂に入り寝る支度を整えてから、きちんと手を洗って、静かに紙袋をひらく。
この仕事を始めてから唯一嬉しいことがあったとすれば、きれいな下着を堂々と買えるようになったことだ。
サテン地にレースやフリルのついた艶やかなランジェリー。客の手で汚されるので高価なものは買わないが、生まれて初めて手にした綺麗な下着はふるえが走るほどわたしを倖せな気持ちでいっぱいにした。
底の浅い箱を用意して、よい香りのするサシュも入れ、きれいなお花を並べるように丁寧にたたんでブラとショーツをそこに仕舞う。その函を開けると、そこには美しい色や柄が王宮に集う淑女たちのように現れるのだ。諦めてきた倖せの色。
男は下着のことなんか憶えていないらしいのだが、連続で同じ下着にならないように間隔を大きくあけて回している。どれも一度か二度しかまだ身に着けていない。最初の頃は上下をお揃いにしていたがショーツだけを持ち去られることが多くて、今は色の系統だけを合わせることにしていた。白いブラウスと紺色のミニスカートは同じものを三着買ってそれを洗濯して回し、その下に真新しい下着をつけることで毎日なんとか気持ちを立て直す。
嬢たちは教えてくれた。予備の着替えは一式必ず持っておくこと。履いている上から客は舐め回すので、唾液のついたそんな下着は気持ちが悪いから持ち帰らずに捨てること。
「安物でいいから数。とにかく数をたくさん。商売道具だからね」
美しい色と柄ばかりが詰まった夢の函。医療用クリームを塗ることはあっても、化粧すらしたこともないわたしが、こんなドレスをまとうことがあるなんて想いもしなかった。
天女の羽衣のような下着。通販で買ったそれをたたんで函におさめ、蓋を閉じ、電気を消した。
>ローションなしでも最近はよく濡れるようになったよね。車内で
>予約状況を見たら空きが出たんで即おさえて都心に取って返して可愛がっておいた。イかされ続けて疲れてるのか首を傾けて寝てたけど。明日入ってるやつがいたら成熟具合を報告して
>ぬか床かよ
>あん♡あん♡あん♡
>口枷つけてるからァウァウって感じだけどな
>鼻つまんで無理やりごっくんさせるのが好きなんだけど網ネットが邪魔。むらむらしてくるし尻穴でいいからバックで突きたい
>それはもはや痴漢プレイとちゃうやろ十倍払っても足りんわ下郎
初恋すら経験のないわたしに異性をほのかに意識することがもしあったとすれば、それは中学の時だ。小学校と中学校は特別な学校に通い、高校は通信で卒業した。
小中学校では義務教育に加えて、手話と点字を習い、人に逢うことなく経済的に自立できるように被服の基本をひととおりと、委託業務をこなせるようにPCを習得した。
校庭に流れていた音楽。ぽつんと立っていた男子一名。
中学から転入してきた彼はいわゆる「浮きこぼれ」だった。IQは高かったがその脚を引っ張る強烈な発達障害をもっており、地域の学校に収まることが彼には出来なかった。
自分以外の人間など下等動物に等しかった彼にとって、手を繋いでのフォークダンスなど鼻から莫迦にしていた。やる意味が分からないと。
流れる音楽のなか、傲岸に顎をそらして彼は校庭に立っていた。
身体障碍を含め、いろんな意味で零れ落ちてしまう生徒を集めた特殊な学校。小学校の二年生あたりで学習に付いていけなくなる生徒が大部分だった。その学校の中にあってわたしは彼の眼から見て珍しく「ふつう」だった。
「おい」
共同で何かをやらなければならない時、彼はいつもわたしを指名した。
「俺はこうする。意見があれば云え」
スティーブ・ジョブズかと想うほどの態度だったが、わたしは不快ではなかった。わたしが頭から被っているバラクラバについて彼は一度も詮索しなかったし、わたしは空気のように傍にいて、彼がやりたいようにやっているのを横で見ているだけで楽しかった。内容がむずかし過ぎて手伝えることがまるでなかったのもある。
そのうち教師もわたしたちを常にペアにしておくようになった。在学中のわたしに問題があったのではない。教師たちの頭脳をはるかに超えている上に態度も悪い彼のことが、学校側も扱い難かったからだ。
世界を相手に仕事がしたい。
ホッチキスをがちゃがちゃ鳴らしながらある日彼がそう云った。いいね、きっと出来るよ。わたしはそう応えた。似合ってる。
中学卒業後、彼は遠方の高等専門学校に進学した。それからどうなったかはまったく知らない。その学校の卒業生は超一流企業に招かれるようにして就職したりMITに留学したりするから、きっとそのどれかだろう。
お前には世話になったな。
不良じみた言葉を残して彼はわたしの人生から去った。あれは彼なりのお礼のつもり。知能と情動の均衡が取れておらず意味不明のかんしゃくをよく起こしていた中学時代の彼を宥められるのはわたしだけだったからだ。
「ふつう」のくせに顔を外に晒せないらしい可哀そうな少女が駈けつけてきて彼の名を呼ぶと、さしもの彼も「なんでもない」横を向いて落ち着いたのだ。
わたしの席はいつも前の方で、彼の席は一番後ろだった。黒板を消していると、いつの間にか後ろからやって来て高いところを一気に消してくれたりした。
給食やお弁当をわたしは保健室で食べていた。食事をするには鼻の上まで被り物を上げなければいけないからだ。
「なぜ」
彼に訊かれた。わたしは応えた。
みんなが食欲を失くすといけないから。
》後篇へ
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