第21話 特殊な関係の友達
夏休みが明け、2学期が始まった。
特に俺の生活に変わりはなく、2学期早々部活を再開した。
渚ちゃんも夏休み中、少しずつ事務所に顔を出すようになり、今では1学期の1週間サイクルに戻っている。
今日は水曜日――渚ちゃんは事務所の方で稽古をする日。
ということは、もちろんあの方は部室に来るわけで……
「月島く〜ん久しぶり〜!!」
えへへと前川さんは俺の胸へと飛び込んできた。
いつもより勢いが強い飛び込みは、俺を座っていたソファーへと寝転がらせるほどの威力が込められていた。
「月島くんだ〜月島くんだ〜」
前川さんは俺の胸に自分の顔をすりすりとなすり付けている。
顔を揺らすたびに前川さんからいい匂いがして、動揺とリラックスで心がぐちゃぐちゃになるのを感じた。
だが、嫌な感じがしないのは俺が前川さんのことを少なからず好意的に思ってしまっているからなのか、小さい子を相手にしているような感覚になってしまっているのかはわからない。
「あの時近くにいたのに、月島くん成分補充できなかったから辛かったんだ」
と前川さんはいう。
あの時とは、前川さんがナンパをされていた時のことなのだろう。
あそこで今みたいなことをされたら渚ちゃんがどんなことをするか想像しないでもわかる――死だ。俺には死しか待っていない。
あの時……とは言いつつも、こんなところを見られたらそれはそれで死が俺を待ち受けていることだろう。
要は、前川さんとこの関係を続けていく以上渚ちゃんにバレた場合、死は免れないということなのだ。
「前川さん、誰か入ってきちゃったらやばいから」
俺は前川さんのことを少し力を入れて引き離そうとする。
触れてみて改めて感じるが、前川さんの体はとても細い。
華奢な体とも言い換えられるが、本当に少し力を入れたら折れてしまうのではないだろうかと思うほど弱々しい体。
その体を全力で使って俺の引き離す行為を拒んできた。
「何で引き離そうとするの〜ここに来る人なんて楠さんか菅原くんぐらいでしょ?今日は楠さん来ないの知ってるからね?帰ってるの見たし」
それに、と前川さんは続ける。
「あの時は名前で読んでくれたくせに、何で今日は苗字なの」
と上目遣いで言われてしまった。
「いや〜あの時は咄嗟に体が動いちゃってさ……」
苦し紛れの言い訳に前川さんは微笑んだ。
「そんな咄嗟レベルでわたしの名前呼べるなら、今は普通に呼べるよね!」
何も反論はできなかった。
その通りである。
だが、俺には渋ってしまう理由があった。
「いや、それでも……だよ」
と歯切れ悪く俺はいう。
渋ってしまう理由として、俺は前川さんとの関係を終わらせようと思っていた。
このまま一緒にいたら、いつか絶対好きになってしまうから。
それが渚ちゃんという彼女がいないのなら大歓迎だが、そうではない。
俺には渚ちゃんという一番が既に存在していて、二番という存在は作ってもいけないし、居てはいけないのだ。
それは、名前を呼ぶ行為だって同じ。
これ以上仲を深める原因になり得るものは絶対に良くないと思っていた。
「何で……何で呼んでくれないの」
と呟く前川さん。
彼女の悲しそうな、苦しそうな顔をみて今すぐにでも抱きしめてあげたい欲にかられる。
だが、ここで抱きしめてしまうと結局のところ巡り巡って前川さんを苦しめる形になってしまう。
いずれこうなるだろうとわかっていたのに、ここまで甘えてきたのは俺であって自分勝手なことをしているのはわかっている。
それでも、悲しませることを我慢してでも、前川さんとの関係は終わらせるしかない。
この夏休みを経て、俺と渚ちゃんの関係は前に進んでいて、前川さんと関係をもってしまった時からはだいぶ状況が変わってしまっているのだから。
「前川さんとは約束していたはずだよ。どちらかがこの関係を終わらせると言った時は終わらせる……と」
前川さんがどんな顔をしているのか、俺には見ることができなかった。
俺はこの約束が適用される時は俺からではなく前川さんからだと思っていたから。
「でも月島くんは約束を破ったよ。それも2人の約束の中に入っていたよね?約束を破ったら相手のお願い一つ聞くことって」
何でそんな約束しちゃったかなぁ〜と心の中で俺は呟く。
確かにそうだった。
俺は前川さんに嘘をつき、その嘘がバレてしまっている。
一体何を要求されるのだろうか。
「優先的にはわたしからだと思うんだよね。だから、一つだけ聞いてもらう」
と前川さんは俺の乗ったまま体を起こす。
俺も体を起こした。
ソファーの上で俺の太ももの上に前川さんが座り、向かい合っている形だ。
「じゃー楠さんと別れてわたしと付き合って」
「それは無理ってわかってるでしょ」
「ならわたしと付けずにやって」
「……無理に決まってるでしょ」
前川さんの顔が至って真剣なことに俺は驚いている。
そもそもドアインザフェイスに乗るつもりはない。
ドアインザフェイスとは通したい要求のために、最初はその要求より欲張った要求を相手に突きつけ、通したい要求を通りやすくすること。
わかっていたらそんな手には乗るわけがないのだよ。
そう思っているとポタポタと前川さんの涙が俺の太ももへと落ちた。
動揺して前川さんの顔を見る俺。
「それなら、わたしとこの関係終わらせないで……。わたしまだ月島くんと一緒にいたいよ……」
「う……しょうがないなそれぐらいなら」
「えへへ、ありがとう!」
一瞬で涙が引っ込み前川さんは笑顔になりました。
「二重でしかも演技付きのドアインザフェイス……強すぎるんだよなぁ〜」
勢いでいいよと言ってしまったけれど、もう一度だけしっかりと話をすることにした。
前川さんが冗談だけで泣いたとは思えなかったから。
「とりあえず嘘をついていたことはごめん」
「あ、それはいいよ。クローゼットの中にいた時には触れることに気がついていたから」
「ん……?何それ」
どこで気が付かれたのか分からない。
「え?聞いてないの?月島くんが寝ちゃった後、普通に楠さん月島くんのほっぺツンツンしてたよ。そのあとなんか慌てて下に行って少ししてから帰っちゃったみたいだけど」
と前川さんはいう。
あ〜その時か、と俺は納得した。
確かにあの時渚ちゃんは初めて俺のことを素の状態で触った。
それを運悪くクローゼットの中に隠れていた前川さんに見られてしまったと――何と運が悪い話だ。
「それは聞いた。そっかその時からだったんだ――言ってくれればよかったのに」
「だからあの時、家に帰る前に確認したんだよ?それでも本当のこと言わないから、あー嘘ついてるんだなって。結構傷ついたんだよ?大好きな月島くんに嘘をつかれるって。まぁ、今はこの形で役に立っているからいいけど」
と前川さんは俺のことを抱きしめた。
前川さんの柔らかいものが俺との間で潰れている。
触ったことがあるからこそ脳内でイメージが鮮明になってしまう。
素直に柔らかいなと思ってしまった。
正直なことを言うと、前川さんとの関係を終わらせたいなんて思っていない――いや、思えるわけがない。
前川さんほどの女の子から好意を寄せられ、恋人と同じような経験をしていて、いざ付き合ってる彼女とうまく行き始めたからじゃーこの関係を終わらせようなんてどこまでクズな話なんだって俺は思う。
だが、それをわかった上でも俺はこれ以上前川さんとの関係を続けるべきではないと思っている。
だって、これは前川さんの為……
「わたしの為に関係を終わらせようとしてるの?」
前川さんの発言に俺は目を丸くした。
前川さんの言う通り、俺は今前川さんの為に関係を終わらせると心の中で思っていたから。
だが、前川さんに言われたことで、俺は気がついた。
「まぁ、前川さんのためと言えば聞こえはいいのかもしれないけどさ、結局は俺が俺を守りたいだけのエゴでしかないんだよ……ずるいやつだよな俺」
このまま関係を続けたら前川さんが傷つくと思っているのも、今現状は俺が勝手に思っているだけ。
俺が心の奥底で本当に思っているのは、これ以上俺が前川さんのことを好きになってしまうと、それこそどうしたらいいのか分からなくなることだ。
結局のところ、その時が怖くて俺はこの関係を終わらせようとしている。
俺は前川さんの為と自分に言い聞かせ、勝手に自己満足で自己解決をしようとしていただけ。
それはあまりにも卑怯でずるいことだと俺は思った。
ここで一方的に関係を終わらせていたらそれこそ本当にクズな男になってしまう。
俺が本当に今することは、自分の保身をするのではなく、これからどうするのかを2人でしっかり話し合うことだ。
「ごめん、少し勝手なことを言い過ぎた」
と俺は頭を下げる。
「うんん、わたしだってごめんね。そもそも彼女がいる月島くんにこんな提案をしたわたしが悪かったんだからさ」
と前川さんは首を振って俺の謝罪を否定した。
「一度しっかり話そう」
「そうだね」
「だから降りてくれる」
「やだよ」
「いや、これだとしっかり話すことも話せなく……」
「えへへ」
「あの〜」
「えへへ」
「……まったく聞く耳持ってないんだよなぁ〜」
「大好きだよ月島くん!」
という事で、茶番は終わりにして俺たちはしっかり話し合いを始めた。
最初に質問したのは前川さん。
「まずさ、月島くんの気持ちを聞きたいな」
流石に月島くんに気持ちがわたしに無い中、無理やり関係は続けられないからね、と前川さんは真剣な表情でいう。
前川さんの瞳には、誤魔化しはいらないから素直な気持ちを伝えてくれという思いが込められていた。
ここでも、俺の気持ちを言ってしまったらもちろん後戻りができない、と思ってしまう。
だが、そんなプライドもう今更だろ……と俺は自分に言い聞かせ重い口を開く。
「正直に言うと好きにならない方がおかしいよ」
だってこんなにも魅力的な子からアプローチを受けてるんだよ?、とどうしても素直になれずヤケクソ気味に俺はいう。
「えへへ、月島くん小さい子みたい。でも、少しでもわたしのことを思ってくれたのは嬉しい……ありがとう」
と前川さんは俺に短めのハグをする。
「逆に聞くけどさ、何で前川さんは俺のことを好きになったの?」
それはいつも前川さんにはぐらかされてきた内容だった。
「ん〜月島くんは覚えてないかもだけどさ、簡単に言えばわたし一度月島くんに助けられてるんだよね。一度じゃないか、たくさん」
「それって……」
「もちろん高校生に入ってからじゃなくてもっと前の時だよ」
俺のことを先読みしたように話す前川さん。
俺が高校以前に前川さんと会っていたことにびっくりだが、前川さんは前川さんなりに俺を好きになった理由があったことを知り俺は少し申し訳なくなった。
俺自身前川さんとの関係を遊びでやっていたわけではない。
少なからず前川さんに対して好意的な気持ちがあったからこそ前川さんとの関係をもった。
それでも、結果として前川さんのことを俺は二番目として、一番とできないことをするという形で一緒にいてしまった。
それは、本気で俺のことを好きでいる前川さんの気持ちを踏み躙る行為に等しい。
それなら、いくら自分勝手だとしてもこの関係を終わらせるべきなのではないかと、再度俺は思ってしまった。
前川さんが本当に俺のことを好きなのだとわかってはいたつもりだったが、前川さんの気持ちの大きさを俺は測り間違えていたようだ。
「それでいいんだと思うんだ……」
と黙り込む俺に向かって前川さんはいう。
「月島くんは今までずっと楠さんのことを見てきた。それって言い換えれば他の人を見てこなかったから楠さんのことしかよく思ってなかったってことなんだと思うんだ。それは決して悪いことではなくて、逆に素晴らしいことなんだと思う……楠さんや月島くんにとっては。だけどね、わたしみたいに月島くんのことがずっと好きなのに楠さんがいるせいで見向きもされないっていうのはやっぱり悲しくて、どうしても、少しでもわたしは月島くんに意識してほしいと思った。その上で月島くんには楠さんしか映らないというのなら諦められるか分からないけどどうにかして諦めるつもりだった」
前川さんの顔はいつもの甘えたような顔ではなく真剣そのもの。
本心からの言葉なんだと俺は思った。
そこまで考えている前川さんに、それでも辛いから関係を終わりにしようなんて言えるわけがない……。
だって、この運命をかけた賭けのようなことに前川さんは勝って、楠さんしか見ていなかった俺の視野に無理やり入り込んできたのだから。
そのやり方が自分を売るというやり方なのは少しだけ文句を言いたいが、それにまんまとハマった俺がとやかく言う筋合いなんてまったくない。
「月島くんが困ってて、悩んでるのもわかるけど、もう少しだけ答えを出すのは待ってほしい。わたしも少し考えを改めて、もう一度今のポジンションで満足せずに月島くんの彼女になる為に頑張るから。その為にはもう一度わたしと月島くんの関係性を考えなきゃね……よし、わかったこれから月島くんと付き合うまでわたしは月島くんとやらない。手を繋いだり、ハグをしたりは付き合う前の友達ならやるよね。だからいいとして、キスは……」
と一瞬悩んだ末、前川さんは俺にキスをしてきた。
今までみたいに舌と舌を合わせるような濃厚なものではなく唇と唇を合わせるだけのシンプルなやつ。
そのシンプルなキスを今までで一番長い時間俺たちはした。
これからは前川さんと付き合わなければこの感覚は味わえないのかと少しだけ寂しい気持ちになる。
でも、それが通常で当たり前なのだ。
「キスもこれで最後に……うんん、我慢する。月島くんからしたくなったらしてくれてもいいんだよ?もろちんわたしはこれまで通り楠さんがいない時に来るし、アピールもする。デートだって誘うから」
と前川さんはとても綺麗な笑顔で笑った。
俺がこれから前川さんを選ぶことがあるのかは分からない。
だけど、今度こそ前川さんに甘えず前川さんのことを見ていこうと思った。
渚ちゃんのことが一番好きなのは今でも変わらない。
それでも、俺の心の中に入ってきた前川さんは誤魔化せないほど俺の中で特別な存在へとなっている。
それを俺は認めて背負わなければいけない――あの時、断りきれず前川さんとキスをした時から。
これからは人には言えない関係ではなくなる。
正真正銘、俺たちは友達になった。
ただ、お互いがお互いの気持ちを知った上で悩み悩ませる少し特殊な関係の友達に……。
「改めてよろしく――鈴菜ちゃん」
と俺はあえて呼び方を変える。
そして、えへへと俺にしか見せない真っ直ぐな笑みで鈴菜ちゃんはいう。
「咲人くん、わたし咲人くんのこと大好き。だから……
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