第4話 相対性理論
「じゃあ、リストを読み上げるから、手令くんはキャビネットから機密書類を確認してね」
「あ、はい」
彼女は十枚程の書類の端を綺麗にそろえて、リストの上から順に読み上げた。
「〇●契約書、お願いします」
「▲△報告書、お願いします」
「◆◇稟議書、お願いします」
綺麗な声でひとつひとつ丁寧に読み上げられた書類を、俺がキャビネットから探し当てる。思い返せば、普段、書類なんて適当に収めていたから、この機密書類の棚卸ってのは思った以上に難儀な雑用だ。
「手令くん、見つかった?」
なかなか最後の稟議書が見つからない。果たしてどこにいったのか。キャビネットの上から下まで、ファイルフォルダを引っ張り出しては、細かく確認していく。
うーん、ないな。
くそ、書類のくせに生意気な――
「あった?」
振り向くと、彼女の顔がすぐ真横にあった。
その距離わずか二十センチ。息遣いもしっかり聞こえてくる。そんな神すら見落とす悪戯な距離に彼女が迫る。
「い、いえ、見つかりません」
「そっか……。ちょっと見せてくれる?」
「はい。う、うわっ」
緊張のあまり、手に持ったファイルフォルダを落としそうになるが、咄嗟に彼女は両手を伸ばす。
「もう少しで、稟議書が散らかっちゃうところだったね」
「そ、そうですね。助かりました」
ファイルフォルダは二人の両手に包まれて、まるで我が子のようにすやすや眠っている。もう十分、稟議書の落下事故は防げているのだが、彼女はまだ俺の手を優しく包み込んでいる。そんなに、この稟議書が大事なのかって、んなアホな。どう考えても恩羅さんはファイルフォルダではなく、俺の手を支えているではないか。
「危ない危ない」
時間にして十秒はあっただろうか、いや、十分、十時間はあったのだろうか。
暫し、時間が経つのを忘れてしまった。
相対性理論によると光を不変として、人それぞれ時間は一定ではないらしい。
物体が早く動けば動くほど、周囲に対する時間の流れは遅くなる。いま、目の前にいる彼女は、ゆっくりと俺の手をさすっている。大切な人形を撫でるように、優しく、ゆっくりと。
つまり――俺の胸の鼓動があまりに速過ぎて、彼女がどこまでもスローモーションに見えているということなのか。
一瞬、ベロを出したアインシュタインの顔が頭をかすめた……。
その温もり。
永遠――forever――
いやいや、そんなわけない。流石にこじつけすぎだろ。
ふううと互いに呼吸を整えて冷静になると、恩羅さんと俺はさっと離れて元の立ち位置に戻る。
それにしても、最後の稟議書だけが見つからない。
「手伝おうか?」
彼女は俺の同意を得るのでもなく、自然とキャビネットを上から下まで探し始めた。
「すみません、じゃあお願いします」
「わたしが上のキャビネット探すから、手令くんは下を見てくれる?」
「OKです」
上段は恩羅さんが、下段は俺が。
二人ともさっきまでのじゃれ合いが嘘のように、無言で稟議書を探し始めた。
やはり、二人はオフィスワーカー。こういう管理業務は上司が見ていなくとも意外と真剣になるもんだ。
「おかしいわね。なかなか見つからない」
「ですね。普段から真面目にファイリングしとけばよかったですよ」
俺は剣道でいえば蹲踞の姿勢で、下段をくまなく探す。なかなか見つからない。見上げると、すぐ隣にいる彼女も難儀していた。「よいしょ」と背を伸ばして深い場所まで手を伸ばしている。
段々と長時間しゃがんだ体勢が辛くなり、腰と足がズキズキ痛みだす。テレワークになってから運動らしい運動もしていないため、すっかり足腰が弱くなってしまった。
一旦、休憩とばかりに立ち上がろうとすると、びきっと嫌な音が聞こえた。
そして、次の瞬間。
「う、うわっ」
なんとしたことか、自分の体を支えきれずよろめいた結果、彼女のスカートに思いっきりしがみついてしまったのだ。
「ええええっ! ちょっとちょっと」
頭上から麗しの声が響く。
だが――
嗚呼、重力は無常かな。
恩羅さんの下半身に抱きついたまま、自らの重みに耐えられず二人ともどしんと床に倒れこんだ。
その刹那。
リンゴを齧るニュートンの巻き毛が業火に焼かれた気がした。
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