6 『人狼騒ぎ~ごはんを求めて幾星霜~前編~』
コックが作っておいた簡単な賄いを夕食として、ようやく落ち着いた時間を過ごせるようになった二人。グロモント伯爵もすっかり和食が気に入ったのか、定期的に食べに来ることを約束してくれた。
彼のこの約束が実はコックとの別れを示唆していることを、諏訪部だけが知っている。マーヤは嬉しそうに、また手料理を振る舞える喜びを伯爵に伝えていた。うんうんと頷く伯爵に、コックがどれだけ信頼を得るに足る人物となっているのかわかっているのだろうかと諏訪部は疑いたくなる。
そうでなければこんなに焦らしたりしないはずだ。言ってみれば今夜がコックと過ごす最後の夜となる。明日の何時になるかは不明だが、コックは伯爵と共に自分の領地へと帰ってしまう。
人の心があるのなら、もっと早くにそれを伝えてコックとの別れを惜しむ時間を与えてくれてもよさそうなものだ。それをしないということは伯爵が何を考えているのか、むしろそこまで考えてなどいないのか。諏訪部にはこの人物の腹の底が見えずにいた。
「さて、私はそろそろお暇するよ。ウィスタリスのホテルに宿泊しているから、また明日……そうだね、店を閉めた後にまた来るとするよ」
「?」
伯爵のことだからてっきり食事をしにやって来るものだと思って聞いていたマーヤは、頭の中でわかりやすく「?」マークを作っていた。もしかしたら一人でゆっくり食事がしたいタイプなのかしら、と都合よく解釈する始末である。
マーヤの中で、コックを連れ帰るためという可能性がどうやら頭にないようだ。しかし諏訪部はその言葉の意図をすでに把握している。つまり明日はコックが積極的に手伝うことはなく、最終チェックをする日なのだと推察した。
あとは二人で……。回復したばかりのマーヤと、食堂経営や接客の経験がない諏訪部の二人で、このボナペティ食堂をやっていかなければならない。
そう思うと諏訪部の気分は沈むばかりだ。どう考えても不安要素しかない。しかしそれはマーヤにとっても同じはず、いや……社会人経験の浅い少女なら諏訪部なんかよりもっとずっと不安になるはずだ。
ばちーんと、諏訪部は両手で自分の頬をビンタした。突然の奇行にマーヤが驚いて目を丸くしている。
(大人の俺が弱音を吐いてどうする! マーヤさんを支えていくって決めただろ!)
笑顔を作り、朗らかに会話をして、場を和ませる。それが諏訪部に課せられた使命だ。普通の人としてようやくその第一歩を歩み出した少女のために、自分が弱気になってはいけないと心に刻む。
「任せてください、マーヤさん。俺なりに精一杯、支えてみせますよ!」
「は、はい……! ありがとうございます?」
突然の決意表明にマーヤがたじろいだが、その心意気の真意を察したグロモント伯爵は呑気に笑い声をあげて拍手した。――穏やかな時間が過ぎようとしている。
***
午後六時頃、グロモント伯爵の執事が迎えに来て「では、また明日」と陽気に挨拶して帰ろうとした時だ。伯爵の執事が何やら紙切れを一枚差し出し、神妙な面持ちでひそひそと話し始めた。伯爵の表情がだんだん剣呑とした表情へと変わっていく。
様子がおかしいと思った諏訪部が問うと、執事は同じ紙をもう一枚持っていたようで、それを手渡し説明した。
「ホテルを出ようとした時に、町の自警団の方々からこれを受け取り、注意を促されました」
それは町の住人に警戒するよう呼びかける手配書のようなものだった。真ん中には誰が描いたのか、不細工な犬の絵と共にその特徴が箇条書きされている。
『注意! 人狼目撃情報。一週間ほど前から白狼の子供が出没、目撃情報多数。日中は人間の子供の姿でうろつき、夜間に白狼の姿となって町中のゴミを漁るため徘徊。飢えている可能性大。よって夜間の外出禁止、および営業なども控えるように。なお発見者には心ばかりの謝礼あり』
「人狼、注意……。えぇっ、人狼だって!?」
異世界を股にかけて営業活動をする諏訪部にとって、ファンタジー世界のモンスターに関する知識はそれなりにあるつもりだ。
人狼、狼男、ライカン、様々な呼び名で知られている狼人間。日中は普通の人間となんら変わりない姿をしているが、満月の夜になると狼の姿となって人間を襲う怪物として有名だ。それがここ、ウィスタリスで目撃されたという報せ。
「白狼とはその名の通り、白い毛並みをした魔狼のことです。本来、人里に滅多に現れることはないのですが、ここ最近では開発などで森林を伐採し、開拓しているせいで棲家としていた魔物の一部が人間の集落などを襲う事例も少なくありません。恐らくこの人狼もその類かと思われます」
伯爵の執事が、自警団から教えられた情報を話して聞かせた。食堂をオープンさせたばかりのタイミングで、この情報だ。人狼が捕まらない限り、夜間の営業もできない。
それはそれでマーヤの体調や体力を鑑みると、むしろ都合がいいのかもと思ってしまう。
「その人狼、人を襲ったんですか?」と、マーヤが訊ねる。
「いえ、誰かが襲われて怪我をしたという情報はまだないようですね。ですが、それも時間の問題と言えましょう。人狼はとても厄介な魔物です。なんせ日中は普通の人間と何も変わらないのですから」
マーヤの質問に丁寧に答える執事。マーヤは長い眠りから覚めたばかりで、こういった魔物出没の事件を耳にしたことがない。それでも魔物がウィスタリス中をうろついていると思ったら、恐怖せずにいられなかった。
その人狼がまだ誰も襲っていないとはいっても、もしかしたらその第一号が自分とも限らないのだから。
「そういうことなので、夜間の戸締りはもちろん、出歩いたりしないよう注意してください」
「わかりました。情報提供、ありがとうございます」
そう言って伯爵と執事は馬車に乗り、ホテルのある市街へと去って行った。マーヤと諏訪部、そしてコックもそれを見送る。静かで不気味な夜がやって来ようとしていた。
ふと、無言でその場を去ろうとするコックに、マーヤが何気なしに声をかける。
「コックさん」
「ふぁっ!? な、なんだ? なんのことだ!?」
「……いえ、今日は色々と助けてくれて、ありがとうございました。お疲れ様です……って言おうと思っただけ、ですけど……?」
「あっそう……、別にいいって。そんじゃお疲れさん」
そそくさと中へ入って行くコックの背中を、マーヤは不思議そうに眺める。その隣で諏訪部はなんとなく察していた。
(明日にはお別れだって、今はまだマーヤさんに知られたくないのかな? コックさんも繊細なところがあったんだな)
もちろんそれは全くの見当違いだった。
それぞれ寝る準備をして、何気ない会話をし、明日に備えて早めに「おやすみなさい」と声を掛け合う。二階の真ん中にあるリビングを挟んで、東側と西側にある個室。
東側の主寝室はマーヤが、それより少し手狭な西側の部屋に男二人が寝泊まりすることになっている。
諏訪部が一日の報告書を作成している間、先に寝てもいいと言ってるのにコックはそわそわと落ち着きない様子だった。よほど明日のことが気になるんだろうと諏訪部は思うだけで、それ以上不審に思うことなくベッドで就寝する。
寝付きだけはいい諏訪部、それをずっと隣で寝て知っているコックは真っ暗な室内でむくりと起き上がり、諏訪部の様子を確認した。
「よく寝てるな」
そう小声でつぶやき、コックは静かに部屋を出て行った。
***
キッチンで使えそうな食材を選ぶコックは、簡単な炒め物を作っていた。ミンチとあり合わせの野菜を刻んで炒飯を作る。味付けは濃くせず、さっぱりとしたもの。
平皿に盛り、小さめの深皿にはミルクを入れた。
「……おまけしといてやるか」
リンゴを二切れ添える。それをトレイに乗せて、コックは裏口から外へ出た。
食事が並んだトレイを建物の少し離れた場所に置いて、それから裏口のポーチに座ってぼうっとする。夜空を眺め「今夜は満月じゃないのかぁ」と、ぼんやり心の中でつぶやいた時だった。
敷地の内外を区別するよう作られた柵を、影がさっと飛び越えるのが見えた。コックは気の緩んだ表情を崩さないようにしつつ、食事を置いた場所とは全く違う方角に顔をそむけた。変に声を出したり、動いたりして警戒されないよう、息を潜めて待つ。
恐る恐る近付いてきたのは、子犬ほどの大きさをした白い動物だった。というより見た目は完全に白い毛をした子犬で、くんくんと鼻を動かしている。食事と、コックと、子犬の目線は行ったり来たりしながら、尻尾は左右に大きく振っていた。
「がふがふっ!」
食事にありつく子犬、それを眺めるコック。
炒飯にがっつき、ミルクを飲み、それからまた炒飯をがつがつ平らげると、最後にリンゴをむしゃむしゃと咀嚼してごくりと飲み込んだ。その様子を横目でじっと見つめながら、コックはふっと小さく笑う。
「お前、いっつもハラ減らしてんだな」
「っ!」
警戒の体勢に入るも、口回りを舌で舐め回すのをやめない子犬はなんとも愛らしい姿だった。ははっと無邪気に笑いながら、コックが今度は堂々とした態度で話し続ける。
「美味かったか? ハラ減ってたらなんでも美味いけど、俺が作ったメシなんだ。世界一美味いに決まってるよなぁ?」
「ぐるるる」
「その意気だ、簡単に人間に心を許すんじゃねぇぞ。お前、この町の人間に狙われてっからな」
「え……っ!? ほんと!?」
少しの間、沈黙が走った。咄嗟に出た人間の言葉に、コックはきょとんとした顔になる。子犬の方は慌てて誤魔化そうとしている様子だが、もう遅い。
「しゃべれるんじゃん。ってことはやっぱ人狼ってのはお前のことなんだな」
「……だったらなんだってんだ! お前もボクのこと捕まえるのか!?」
「そんなことしねぇよ、つーかそんな気があったらとっくに捕まえてるだろ。お前、毎晩俺のメシ食いに来といてそんなこともわかんねぇのか?」
「う……っ」
それはコックが諏訪部の住まい、もといボナペティ食堂となるこの物件で寝泊まりしながら、マーヤの面倒を見ることになった最初の夜のことだった。
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