270 世界で一番好きな人

「今日は来てくれてありがとう。どうぞどうぞ、ゆっくり座って」


 理子は慣れた様子で座布団を2枚持ってきて剖良も座るよう促した。


 いつも綺麗に整頓された理子の部屋を見回しつつ剖良も座布団に腰かける。



「ありがとう。……それでヤミ子、話っていうのは?」


 バッグを部屋の隅に置くと剖良は質問を切り出した。



「あのね、さっちゃん。落ち着いて聞いて欲しいんだけど、私、柳沢君と別れた。そのせいで柳沢君は写真部のグループチャットを抜けちゃって、今大騒ぎになってる」

「そんな……柳沢君、ヤミ子に何をしたの?」

「これははっきり言っとくけど、柳沢君は本当に何も悪くないの。彼は私のことを真剣に好きになってくれたのに私はそれに応えられなくて、何度もひどいことをしちゃった。キスしたいって言われてOKしたのに直前で拒否したり、それをフォローするつもりで彼にひどいメッセージを送ったり、勝手に別れた気になって彼をまた傷つけたり。私、そういう最低の女だったの」

「……どうして、そんなことに?」


 理子は剖良と違ってレズビアンではないし、少なくとも悪意があって他人にそのようなことをする人物ではない。



「さっちゃん。私ね、普通の人とは違うんだって。うちの大学病院で精神科の先生に相談したら、私は男でも女でも誰にも性欲を感じられない人間だって診断された。そういう人はアセクシャルって言って、性的少数者の一種なんだって」

「アセクシャル……ヤミ子が?」


 剖良は高校生の頃に自分がレズビアンであると気づき、その時は一人で悩んで書籍やインターネットで様々な情報を調べた。


 その際にアセクシャルという用語の意味は知っていたが、ずっと仲良くしてきた理子がそれに該当するというのは驚きだった。



「だから私、どう頑張っても柳沢君とは付き合えない。柳沢君は私とそういう関係になりたいみたいだしひょっとすると私と子供を作りたいって思うかも知れないけど、私は柳沢君の気持ちには応えてあげられないから。……彼には、本当に申し訳ないけど」

「それは、仕方ないよ。……でもヤミ子、これからずっと一人で生きていくの? そんなの、寂しすぎる……」


 剖良は理子と恋人になることはできなかったが、理子には素敵な男性と結婚して幸せになって欲しいと本気で願っていた。


 だからこそ、理子がこれから男性とも女性とも付き合えず一人寂しく暮らしていくというのはどうしても耐えられなかった。



「さっちゃんがそう言ってくれて良かった。……私、確かに男性とはもう付き合えない。だけど、まだ可能性は残ってると思うの」

「可能性?」


 剖良が尋ねると、理子は剖良の方に身を乗り出して話し始めた。



「男性にも女性にも性欲を感じられないなら、別に異性愛に限定しなくたっていいと思って。精神科の先生によるとアセクシャルの人は性欲を感じられないだけで、誰かを好きになることはできるんだって」

「と、いうと?」

「オールジャンルっていうか、性別を限定しなければ私がこの世界で一番好きな人はあなたなの。私、さっちゃんのことが大好き」

「ヤミ子……」


 ずっと待っていたその言葉を間近で聞き、剖良は感極まって理子に抱きついた。


 理子は剖良の身体をぎゅっと抱きしめてくれて、そのまま右手で剖良の頭を撫でた。



「さっちゃんのことが好き。こんな私のことを好きになってくれた、世界の誰よりも素敵な女の子。この気持ちは絶対に嘘じゃないと思う」

「ありがとう、ヤミ子。……でも……」


 頭の中が一杯になり、剖良は理子と抱き合ったまま涙を流し始めた。



「ヤミ子は……性欲がないんでしょ? 私と恋人同士になるってことは、少しはそういうこともしないといけないんだよ?」


 レズビアンである剖良は理子のことを完全に性的に愛していたから、理子と恋仲になっても性行為が皆無ということには耐えられそうにない。


 そう分かっていたから、剖良は理子の気持ちを無条件で受け入れることはできなかった。



「そう。そのことだけが唯一のネックなの。……だから」


 理子はそう言うと剖良から身体を離し、立ち上がって室内のベッドまで歩くと仰向けに寝転んだ。



「さっちゃん、今から私を抱いてみて!」

「えっ……ええっ!?」


 あまりにも唐突な申し出に、剖良は嬉しさよりも衝撃を覚えた。



「お願い。1回試してみて、それで問題がないか確かめたいの。そのために両親にも弟にも20時までは帰ってこないでって頼んであるから」

「そ、それは嬉しいけど……」


 甘いムードの欠片かけらもない中で性行為をせがまれ剖良はたじろいだ。



「あ、ごめん、今このままっていうのもあれだよね。ちょっとシャワー浴びに行きましょ!」

「えっ、うん……じゃあ、よろしく」


 そこまで話すと理子は剖良の手を引いて1階に下り、2人は浴室で一緒にシャワーを浴びた。


 剖良は緊張のあまり研究医合宿以来久々に見た理子の裸体にも注目できず、いそいそとシャワーを浴びると2人は再び理子の自室に戻った。



 流れ作業のようにそのまま2人でベッドに入り、剖良と理子は気づいた時には肌を重ねていた。

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