177 気分はディスチャージ

「それよりすみません。ヤミ子先輩が柳沢君と付き合い始めたのは知ってたんですけど、僕から言うのもあれかなと思って剖良先輩には黙ってました」

「そうなのね。……私、そのことは先週の金曜日に初めて噂で聞いて、ヤミ子に確認したら本当だった」


 剖良先輩はそのまま彼女らが1回生の時の12月に起きた事件のことも教えてくれて、その時はヤミ子先輩に彼氏ができたという噂は嘘だったが今回は本人が肯定している以上事実と考えざるを得ないとのことだった。



「私はヤミ子に好きだって言ってはっきり断られたから、もうヤミ子と恋人になるのは諦めてるの。だけどヤミ子は柳沢君の彼女になったからこれからは彼と付き合うのに忙しくなって、私と遊んだりご飯食べてくれたりしなくなるんじゃないかって不安で。恋人になれなくてもヤミ子は私に生きる気力を与えてくれてたから、あの子と普段から一緒にいられなくなるのが怖くて……」

「うーん、その気持ちは僕もよく分かりますよ」


 剖良先輩は同性の親友であるヤミ子先輩に告白して断られ、その後は単なる親友同士に戻って今に至っていた。


 先輩は愛が深くてもヘテロの友人にしつこく迫るような人ではないのでヤミ子先輩に彼氏ができたこと自体は許容できるが、その結果として自分と一緒にいる時間が減ってしまうのは辛いのだろう。


 性的指向の違いで恋人になれないのは仕方ないことだが、だからといって剖良先輩がヤミ子先輩を好きな気持ちは簡単に忘れられるものではない。


 仮に剖良先輩がレズビアンでなかったとしても、思いを寄せている男性の友人が他の女性と付き合って疎遠になるという状況を想像すれば結局は同じことが言えると思う。



「ただ、恋人ができたから必ずしも同性の友人と疎遠になるとは限らないんじゃないですか? 僕の男友達にも彼女がいる人はいますけどそれでも男同士で十分遊んでますし、昼ご飯も一緒に行きますよ。柳沢君は学年も違いますし、状況はそこまで変わらないのでは?」


 関可大学の文学部に彼女がいる2回生の林庄一郎君は僕の親友だが、放課後や土日にはよく彼女とデートをしていても普段はしばしば僕を含む男友達と遊んでいる。


 林君の彼女は学外の人なので簡単に比較はできないがヤミ子先輩と柳沢君は同じ医学部でも学年が違うので、日常的に学内でイチャイチャするのはそもそも不可能ではないかと思った。


「それは確かに言えてると思う。実際夏休み明けの9月からもヤミ子との関係はそんなに変わってなくて、だからヤミ子が柳沢君と付き合い始めたことも全然気づかなかったの。だからそのことは私の杞憂きゆうだと思うんだけど、でもね……」


 先輩はそこまで話すと再び目に涙を浮かべて、



「柳沢君って男の子でしょ。それもヤミ子と同い年だからまだ22歳。高校生とあんまり変わらない年齢よね」


 ものすごく辛そうな表情で言った。



「え? まあ、それはそうですよね」


 先輩の言葉の意味が理解できず適当に合いの手を入れると、



「だから今の柳沢君は性欲のかたまりだと思うの。どうせすぐにヤミ子と2人きりになってヤミ子の服を脱がせてそのまま押し倒して、それで……」


 剖良先輩は早口でそう言って両目から滂沱ぼうだの涙を流し始めた。



「ちょ、ちょっと、先輩?」

「ヤミ子の綺麗な胸が好き放題されて口の中に舌まで入れられて、それで柳沢君のあれがヤミ子の中にインサートされて、それで、それで、ディスチャージするんでしょ!?」

「ストップ! 先輩、流石に下品です!!」


 普段の先輩なら恥ずかしくてとても口にできないような言葉が連発されており、僕は周囲に誰もいないにも関わらず慌てて先輩を制止した。



「……ごめん、そういう想像をするとどうしても気持ち悪くなっちゃって。だってヤミ子が男の子にけがされるなんて……」

「先輩のお気持ちは理解できますけど、男女がお付き合いするっていうのは基本的にそういうことですよ。中学生とか高校生ならともかく大学生にもなれば余計そうなります。そればかりは我慢するしかないと思います」


 壬生川さんとお付き合いし始めたのにまだ手をつないだことすらない僕が言うのも申し訳ないが、大学生にもなった男女が恋人同士になって清い関係で終わるということは基本的にあり得ないと思う。



「だから先輩は考えても仕方がないことを想像したり悩んだりするんじゃなくて、もっと前向きな解決策を考えてみてはどうですか? そもそもこの世の中に魅力的な女性はヤミ子先輩1人じゃないんですから他に出会いを探すのもいいと思いますよ。インターネットの危険性には当然注意すべきですけど、今時は先輩と同じような女性と知り合えるアプリも色々あるそうですし」


 ヘテロの親友に告白して断られその後に同じゲイの男性と恋仲になることができたヤッ君先輩のことを思い出しつつ、僕は剖良先輩にそう助言した。


 そもそも私立医大の狭い学内にレズビアンでなおかつ剖良先輩にとって魅力的な女性がいる可能性は限りなく低いので、先輩はレズビアン専用のいわゆるマッチングアプリを使ってみるべきではないかと思った。



「ありがとう。塔也君の言うことはもっともだと思うから、私もヤミ子のことで悩むのはやめてちゃんとした方法で出会いを探してみる。早く気持ちを落ち着けないと今月の塔也君への指導もまともにできないし」

「お気遣い頂いてありがとうございます。僕のことはそこまで心配されなくていいので、まずはご自身のことを最優先にしてくださいね」


 冷静にそう言うと剖良先輩は椅子に座ったまま微笑みを浮かべた。


 その笑顔にもやはりどこか影が差していて、先輩が精神的に落ち着くまでにはまだまだ相当な苦難が続きそうだと思った。



 話し終えた時には既に17時30分を過ぎていて、この時間からでは先輩も研究作業に入れないので今日はこのまま解散することになった。


 何もできなかった分はメッセージアプリで教育資料を送ってフォローして頂けるらしく、今後も指導が不十分になった時はオンラインの手続きで補ってくれるとのことだった。



 剖良先輩と2人で研究棟を出てから僕は先輩を阪急皆月市駅まで送ることにした。


「今日は本当にごめんね。せっかく来て貰ったのに相談に乗って貰っただけになっちゃった」

「いえいえ、僕と先輩の仲ですから気にしないでください」


 いつもより狭い歩幅で歩きながら言った先輩に、僕は彼女の顔を見ずに答えた。



「私は本当にヤミ子のことが好きだったから、あの子と同じぐらい好きな人を見つけられるかはまだ分からない。でも仮に好きな人を見つけられたとしたら、その人に失礼にならないような恋愛をしたいと思う」

「……いい考えだと思います」


 先輩はこれから新しい出会いを探すことになるが、その理由がヤミ子先輩に失恋したからであったとしても新しく出会った人をヤミ子先輩の代わりにすることは相手にとって失礼になる。


 ヤミ子先輩への愛が深すぎただけに先輩にとってそれを意識することは難しくなるだろうが、少なくとも先輩自身が自分を律している姿勢には安心できた。



「じゃあ、明日からまたよろしくね」

「はい、よろしくお願いします。……あと、先輩」

「どうしたの?」


 阪急皆月市駅へと続く横断歩道の前で僕は剖良先輩を一瞬呼び止めると、



「今が辛くても、絶対に自分を傷つけるような真似はしないでください。それだけは本当にお願いします」


 これから電車に乗る先輩に向けて静かにそう言った。



「……ええ、もちろん」


 剖良先輩は短く答えると、そのまま右手を上げて駅へと歩いていった。


 先輩の目の前には暗雲が立ち込めていると思わざるを得なかった。

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