7 気分は謎だらけ
教室説明は無事に終わり、最後に質疑応答までやってくれた上で佐川先生は10時からの動物実験に備えて教員室に戻った。
僕と解川先輩はお礼を言って教員室を去り、そのまま廊下を歩いて学生研究員の待機室に入った。
各教室には学生研究員専用の部屋が設けられていることは知っていたが実際に入るのは初めてだった。
小さな部屋の中には引き出しの付いた机が壁沿いに並び、白衣を置いておけるロッカーも常設されている。
部屋の一角のドアは実験室に直結していて、白衣に着替えた後はすぐに作業に移れるようになっていた。
「今から免疫染色について教えるから、ここで白衣に着替えて」
解川先輩はそう指示すると自らもバッグを机に置き、羽織っていた薄手のパーカーを脱いだ。
白衣は上着の上から着るものではないしちゃんと下に厚手のシャツを着ているのだが、美人の先輩が目の前で着替える姿には若干の衝撃を受けた。
僕も別の机に肩掛けのカバンを置き、中から取り出した白衣に着替えた。
薄手のジャケットは男性用と印字されたシールが貼ってあるロッカーに片付け、忘れないうちに名札も白衣の胸ポケットに取り付ける。
「準備できました」
振り向いてそう伝えると解川先輩は軽く頷いて、
「ちゃんと準備してくれてて良かった」
と言った。
そのまま実験室に誘導されるのかと思ったが、解川先輩はおもむろに傍らの丸椅子に腰かけ、
「作業は10時から始めれば十分だから、ちょっと休憩しましょう」
少しリラックスした表情で僕に小休止する旨を伝えた。
「ええ、分かりました……」
腕時計に目を向けると確かに今は9時45分の少し前で、15分ほどの余裕はあるようだった。
僕も緊張をいくらか緩めることにして先輩からやや離れた低めの椅子に座った。
「佐川先生の教室説明だけど、内容はよく分かった?」
「とても分かりやすかったです。解剖学教室って名前ですけど肉眼解剖学を扱うのはほとんど学生相手の講義だけで、普段は組織学的な研究がメインなんですね」
丸椅子に腰かけた先輩に尋ねられ、僕は普通に感想を答えた。
説明された中で最も意外だったことを伝えると解川先輩はこくこくと頷いた。
解剖学教室というと常日頃から人体の解剖について研究していそうだが、解剖学という学問は医学の中でも最古の部類に入るだけあり現代では新たな研究テーマはあまり残っていないという。
普段の研究ではマクロな解剖学よりもミクロな組織学を扱っている先生がほとんどであり、この教室でも学生研究でご献体の解剖を行うことはないらしい。
ハードな解剖実習には少し前まで3か月もの長丁場で取り組んでいただけに、率直に言って嬉しい誤算だと思った。
組織学という用語も世間にはあまり馴染みがないが、そもそも組織とは生物の細胞が集合体として機能するものを指す。
一つ一つの細胞が集合して
生物はいくつもの器官が協調して働くことによって生命を維持しているから、人体を学ぶには器官に注目するマクロな視点と組織や細胞に注目するミクロな視点の両方が必要になる。
要するに組織学とは生物の細胞を見て色々やる学問で、ヒトやマウスなどの組織を用いてプレパラートを作成して光学顕微鏡や電子顕微鏡で一つ一つの細胞を見ていく。
解剖学と組織学は表裏一体のものなので、この大学でも2つの科目はどちらも解剖学教室が教えている。
繰り返すように解剖学は1回生の間に履修済みだがこれは正確には解剖学教室が教える科目を履修済みという意味で、科目としては発生学、解剖学、組織学の3つを習ったことになる。
大昔は医学生も2回生の最後までほとんど医学を学ばなかったらしいが近年では全体的にカリキュラムが前倒しされており、この大学のように1回生で解剖実習までやってしまう所もある。
教養教育は充実していた方がいいのか良くないのかは僕には判断しかねるが、こういった変化には時代の要請もあるのだろうとは推測できた。
「先生が一番伝えたかったことを理解してくれてるみたいだから、私からこれ以上説明することはなさそう。意外とセンスあるかも」
「え、そうですか……?」
解川先輩にいきなり褒められ、僕はますます昨日のあの態度がよく分からなくなった。
それから解川先輩はしばらく無言になり、かと思えば何かを決意したような表情になって、
「浮いた時間で聞きたいことがあるんだけど、いい?」
と尋ねながらキャスター付きの丸椅子ごと僕に身を乗り出した。
「へっ?」
意味不明な展開の連続に、僕はおかしな声を上げてしまった。
僕の返答を待たず解川先輩は口を開いた。
「今日会った時に言いたかったんだけど、昨日はあまり話せなくてごめん。私、結構人見知りする方だからヤミ子みたいに初対面の人とスムーズに話せないの」
昨日の態度について釈明され、僕は疑問の一つが氷解していく気がした。
女子医学生には女子校出身の子も多く、初対面の男子学生と上手く話せない人は少なからずいる。
解川先輩は僕に対してネガティブな感情があった訳ではなく初対面の男子学生が相手だと誰でもああいう感じになるのだろう。
「いえ、全然気にしてないです! 今日は朝から親切にしてくださって、むしろ打ち解けられて安心しました」
深く頭を下げて僕からも素直な気持ちを伝えた。
「良かった。で、ここからが本題なんだけど」
えっ? それメインの話じゃないの?
でも、確かに聞きたいことがあるって……
解川先輩はさらに僕に接近すると、
「白神君は、ヤミ子のことをどう思ってるの?」
と、これまでで最も真剣な表情で尋ねた。
「……?」
言うまでもなく僕は先輩の意図が掴めず沈黙していた。
「気を遣わなくていいから、正直に答えて」
先輩は表情を崩さず、息を飲んで僕の返答を待っている。
「どう思ってるって言われても、そもそも昨日会ったばかりなので……」
こう言うしかない。
「じゃあ聞くけど、ヤミ子をかわいいと思ったでしょ?」
会話のドッジボールってこういう感じなのかな?
「いや、まあ、美人だと思います……」
これは嘘ではないが、それを聞いてどうしたいのだろう。
「確かにヤミ子は魅力的。それで、白神君はヤミ子と付き合いたいと思う?」
これもう分かんないな。
「いや、そんなことは今から判断できることじゃないですし、そもそも彼女欲しいと思ってませんから」
どうしようもないので僕は事実と本音を同時に伝えた。
ヤミ子先輩がどうとか以前に、生活費に苦労しているような医学生に彼女を作る余裕はない。
「そうなのね。……ごめん、変なこと聞いて」
変なこと聞いてる自覚あったんだ。
「私はヤミ子の一番の親友だからちょっと気になっただけ。今の話は気にしないで」
「は、はい。分かりました」
親友に変な虫が付かないか心配している女の子、という風に受け止めるべきなのだろうけど……
僕には何というか、解川先輩のキャラクターの一面が掴めてきていた。
「そろそろ10時になるから実験室に移動しましょう。準備はいい?」
「もちろんです。よろしくお願いします」
この空気から早く抜け出したくて、僕は手短に返答すると椅子から立ち上がった。
先輩に誘導されるまま歩いて僕は各種の試薬が並ぶ実験室へと足を踏み入れる。
不思議な先輩と打ち解けたのか、余計に謎が深まったのかは今の僕にはさっぱり分からない。
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