4-5

「おれ、千歳ちゃん戻ってきたら帰るね。もう終わりそうだし」

 教室で光は和洋にそう言った。

「ああ。俺は日誌つけてからそのまま部活出るよ」

「頑張るねえ」

「走るのが好きなんだよ」

「昔から陸上部?」

「そうだよ。かけっこで一番とって、それから走るのが好きになった」

「かっこいいなあ〜」

 やめてくれ。そんなキラキラした瞳で俺を見ないでくれ。そう和洋は願った。

 自分はゲイじゃないからお前に振り向くことはない。もうこういうのはやめよう。これは必ず言わなければならないことだった。だが––––それを言って光が去ったら、当然千歳も去ってしまう。だから、言わない。恋のライバルを自分の恋のために繋ぎ止める。俺は最低な人間だ––––それが光も同じなら、あるいは千歳も同じなら、この三角形は最低だ。

 それでも千歳のことが好きな気持ちは本当で、純粋なつもりだった。そしてそれを言うなら光の想いも、そして千歳の想いも純粋なのだろう。その純粋な想いのために計算高く恋のライバルを自分の方に繋ぎ止める……最低で純粋な三角関係––––それが自分たちの関係性だった。

 いつか限界が来るのではないだろうか。

 和洋はいつもそう思っていた。

 それでも、千歳への想いはもちろんだが、光を放ってはおけない。どうしても、放ってはおけなかった。

「走るのが好きになったきっかけってなんかあるの?」

 光の質問に、和洋はちょっと考える。

「小学校のとき、運動会で、リレーで一番になったら、親がすごい喜んでくれた」

「へえ〜いい親御さんだね」

「そのころうちでいろいろあったから、俺が一等取ったのがすごい気晴らしというか、とにかくすごい喜んでくれて」

「ふーん。人生いろいろ」

「お前はどうなんだよ」

 と質問して、しまった、と思った。

 母親が死んでほっとした––––などといった感想を抱いた人物にする質問ではなかった。和洋は後悔した。

 しかし光は特に何も気にも止めず説明し始めた。

「おれは母子家庭で、おれがちっちゃいころに離婚して、他に親戚もいなかったから母一人子一人の生活でしたよ」

「そうか」

 それだけでいい、もうこの話はやめよう、そう言いかけたが光は更に続ける。

「おれはちっちゃいころから母親のことが嫌いでさ。好きじゃないとかじゃなくて」

「……」

「っていうか、母親の愚痴とか周りに言っても、女手一つで育ててくれてるんだから感謝しろみたいな反応しかなくて、誰もおれの話聞いてくれないみたいな。だからそうね、母親単体がいやだったわけでもちょっとないんだけど」

「……」

「でも母親、外面はよかったんだよね。だから『お前は恵まれてるよ』なんて割と言われたセリフでさ。あ、別に虐待されてたーとかそういうんじゃないの。ただとにかく、おれの話を聞いてくれない感じっていうか」

「……」

「ただまあ、結局、母親の稼ぎで生活できてたのは間違いないわけだし? 結局高校の学費だって出してくれたんだし。だからそろそろこの葛藤とやらともおさらばしたいものなんだけど。まあ、おさらばできそうなのをおれがこだわっちゃってるんだろうなトラウマチックに」

「おさらばできそうなのか?」

 自分のことを心配してくれていることがわかる口調だった。光は、うん、とうなずいた。

「君尋さんが助けてくれたから。おれ、中学出たら自分で稼ぎたいと思って、それで一人暮らし始めたんだよね。それがまあなかなか快適な生活だったんだけど、その母親が事故って死んじゃって、おれ、学校行けなくなっちゃうところを君尋さんが後見人になってくれてさ。それでいまここにいてさ。ほんとに感謝してる。君尋さんがいなかったら」

 と、そこで光は口ごもった。なんだ? なにが言いたい? まさか、自殺とか––––。

 だがやがて光は微笑んで続けた。

「ほんと、君尋さんがいなかったらどうなってたかわかんないよおれ。だから君尋さんのためにちゃんと卒業して、おれはおれで働かなきゃって思ってるんだ」と、そこで光はカバンを持って立ち上がった。「ちょっと喋りすぎちゃった。おれもう帰るね」

「え?」

「バイト遅刻するわけにはいかないもんね」

 だったら学級委員になんかならなければよかった、そう言いそうになって和洋は自分を制した。

「ああ」

「あれ? 光くん帰るの?」

 そのとき千歳が現れたので和洋はほっとした。

「あとは俺がやっとくから、お前らもう帰っていいよ」

「ほんと? じゃ、帰ろうか」

「そうだね。じゃ会長、また明日ね〜」

 そして二人は去っていった。

 教室に一人残され、和洋はいつになく饒舌だった光の話を反芻していた。

『ただとにかく、おれの話を聞いてくれない感じっていうか』

 そうか、と、和洋は呟いた。

「あいつ、兄貴に似てるんだ」


 薄暗くなってきた初夏の夕方を千歳と光は歩いていた。

「仕事間に合うといいねえ」

 千歳の言葉に、光は、大丈夫、と返した。

「駅からすぐのとこなの。だから余裕だよ」

「それならいいんだけど。でもあんまり無理しないでね。どうしても無理ならあたしと萬屋くんがやるから」

「いやあ〜それならなんのために立候補したのかわかんないし」

 なんのために立候補したの?

 愚問だった。そんなのは、恋しい人と一緒にいたいから以外にどんな回答があるというのだろう。そして自分が立候補したのは、その恋路を邪魔するため。

 心の中で千歳はため息を吐く。ちょっといやな性格になってしまっている。光への想いは純粋なつもりだが、その割には随分汚らしい心のような気がする。それとも、巷でいうところの三角関係とは少し形が違うとはいえ、三角関係なんてそんなものなのだろうか。あるいは恋をするということは気持ちの悪いことをすることなのだろうか。この二年間のただ楽しいだけだった片想いが千歳は懐かしかった。そのころみたいにただ“好き”だけがそこにあればいいのに、と思う。

「あ」

 と、急に変な声を出した光を千歳は怪訝に思った。

「どうしたの?」

「あの、朝の、さっきの、あの」

「ん?」

 と、前方を見ると、今朝の三人組がこっちに近づいてくる。

 光は身構え、千歳は戦闘体勢に入った。リベンジなんて意味ないよ、と言いたげに。

「あ、あの」

 と、一人の男––––今朝、光を殴ろうとした男が小走りで千歳に駆け寄った。

「なに?」

「え、えっとその、あのう」

 朝とは違いずいぶん弱々しい。

「いやーごめんね今朝は」と、連れの男が言った。「こいつ先週振られちゃってさ。それでむしゃくしゃしてたのよ。ほんとごめんね」

「それで?」

「それでさ、こいつが、君のこと惚れちゃったみたいで。付き合ってあげてほしいんだよね」

 男はもじもじしている。

 千歳はしばらく呆気に取られていたが、やがて興味がないといったことをまるで隠そうともせずに答えた。

「せっかくですけど、ごめんなさい」

 男はうなだれた。

「どうしてもダメ……?」

「あたし好きな人いるの。だから悪いけど」

「……」

 はあ、とため息を吐き、男はがっくりした。

「結構、マジなんだけど」

「殴られたいの?」

「はい!」

 笑顔でそう言った男を千歳は無視することにした。

「そういうわけだからあたしにはもう関わらないでくださいね。行こ光くん」

「あ、うん」

 やがて歩き出した二人だったが––––男が声をかける。

「あの」

「なに?」

「その好きな人って––––」

 こんな質問をしても自分が惨めになるだけだ、そうは思ったが、どうしてもはっきりさせたかった。

「今朝の、眼鏡のやつ?」

 無視をして、千歳たちは彼らから去っていく。


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