第7話雲水の本音

「師匠、お話しとは?」


 家の中へ入り、土を固めた床へ直接腰を下ろした呂望リョボウは、目の前で胡座をかく雲水と向き合い、瞳で合図を送る。


 一瞬、床からヒヤリとした感触が、彼から“興奮”という会話を妨げる感情を、一気に奪い去ってくれた。


 が、しかし。


 誰もいないとはいえ、矢張りまだ大声で会話の遣り取りをしようという気分にならない。


 いつ何時大切な情報が漏れるかもしれないという不安が、彼の胸の内にあるようで、なかなかスムーズに会話を取ることが出来なかった。


 そんな彼等が住む家は、木材で枠を作り、その中に泥を入れては突き固めを繰り返して作られた壁と、その上に同じように土を固めて乾かした煉瓦を置いただけの屋根で構成されているという、簡素な作りとなっている。


 集落へ下りれば、こうした家が敷地内に10軒はある。


だが、ここは山の中故に、雲水達が住むここ家1軒しかなかった。


 逆を言えば、そんな場所に家を建てたからこそ、誰にも言えない悩みや重要な情報を持つ者達が、こぞって訪問するのである。


 故に、周りから見て一見寂れた雰囲気が漂っていたにしても、呂望(リョボウ)や雲水にとっては細やかながら幸せな日々を過ごせるという、とても大切な場所イエであった。


 その幸せな時が、雲水がこれからもたらす情報によっては、手放さないといけないと思うと、このまま口を開かなければいいと思う。


 呂望リョボウは、自分の胸の中にはこんな浅はかな考えがまだあるのだなと感じるとともに、何処か虚しさを覚えた。


 案の定、彼が予想した通りの言葉が、雲水の口から発せられる。


 それは、暫く動きがなかった殷城の最新情報であった。

 そしてその情報がこの後呂望リョボウの弱気な考えを一変させるものとは、この時は思いもしなかった。


呂望リョボウ


 いつもは穏やかな口調で話す雲水も、今は厳しい表情を浮かべて彼を見ている。


「殷城で動きがあったようだ」

「動きですか?」


 呂望リョボウは“イン”という言葉に不快を示したものの、強く反応して、雲水の話に耳を傾ける。


「殷城に囚われていた姫昌キショウ様が、近々釈放されるようだ」

姫昌キショウ様……

確か、紂王と妲己が催した酒池肉林を嗜めて恨みを買い、7年もの間軟禁されていたと伺っております」

「そうだ。

殷城周辺を探っている友人からの情報だから、間違いはない」


“だから、安心しなさい”と、雲水に優しく諭された呂望リョボウは、自分の表情がそんなに強張っていたのかと思いながら、ゆっくりと解いていった。


 しかし、まだ彼の心の中には心配なことがあり……


「師匠、姫昌キショウ様を軟禁状態から解放して下さるのは、喜ばしいことですが……」

「ですが?」


 雲水はおうむ返しに訊ね、呂望リョボウの胸の奥に潜む言葉をじっと待つ。


「話に依れば、姫昌キショウ様は軟禁生活の中、卜占ボクセンを熱心に勉強なさっていたとのこと。

釈放された暁には、それらを駆使して、物事の有事の際に大いに役立ててもらいたいと私は考えている」


卜占ボクセンとは、殷でも戦いをする際に使用していた秘術と、人伝に聞いております。

その秘術を姫昌キショウ様もお使いになられていたとは初耳です」


 呂望リョボウは静かな口調の中に、好奇心を織り混ぜて、姫昌キショウというまだ見ぬ人物に思いを馳せたが

「ですが、私はあまり文字が読めないので、どのようにお手伝いをしたらよいのか……」

と、憂いを見せて本音をさらけ出した。


 呂望リョボウにとって“卜占ボクセン”というものは、結果次第では一種の兵器になりうると思っている。


 この当時、まだ文字があまり普及しておらず、今のように口から発した言葉を、紙類などに記して保存する事が不可能な時代である。


 それに文字といっても、平仮名・片仮名・漢字というものではなく、甲骨文字と呼ばれる絵文字にも似た文字で、現在使用している文字が持つ意味とは異なることが多かった。


 よって、主に使われているのは、卜占ボクセンといった神との会話を残す為の文字である。


 ただ、例外としてここにいる雲水や呂望リョボウ達は、少ない年数とはいえ仙界に昇り、簡単な文章ぐらいはようにと、勉強していた。


 それ故、呂望リョボウがここから離れ、西岐サイキの王の姫昌キショウの配下になっても、殷を打倒する力にはなるはずと、雲水は考えているようである。


 そして、それを目の前で困惑し、俯き加減の呂望リョボウに何とかして伝えたいと思っていた。


呂望リョボウ、お前の記憶力は天下一品だ。

それは、人一倍興味を持っているからこそ、出来る技なんだよ。

呂望リョボウなら、文字など簡単に覚える事が出来よう」


 雲水は先程よりも穏やかになった瞳を、まだ迷っている呂望リョボウに向け、優しく諭す。


 いつもならこの行動で、彼の心は晴れていくのだが、今回ばかりは余計な勘が働いたようで

「師匠、まさかこの私を西岐サイキへ向かわせようと考えているのではないでしょうか?」

と、思うところを正直にぶつけた。


 こうなったら、呂望リョボウには何を言っても通じない。


 長きに渡り、呂望リョボウと寝食を共にしてきた雲水だからこそ、そのくらい承知の上である。


 雲水はそんな彼を宥めようと、一旦は口を開こうとして思い止まり、“ここは一つ話題を変えよう”と考え

「時に呂望」

と、不貞腐れている呂望リョボウに、少々強めの口調で問いかけた。


 その声がきっかけで、雲水をチラリと見る呂望リョボウ


 彼がまだ拗ねていることなど、師匠ウンスイにはお見通しである。


 呼ばれた呂望リョボウは“はい”と一言返事をし、もう一度雲水ウンスイへと瞳を向けた。


「集落へ出向いた時のお前の口調は、こんなに畏まる言い方ではないそうだな?」

「!?」

「もっとこう……

上から目線で言うらしいが?」

「し、師匠、何処かで見ていたのですか?」


 雲水ウンスイの質問に、顔が青冷めていく呂望リョボウ


 ここでの生活は楽しい反面、師匠である彼には慣れない敬語を使わないといけない。


vその点、集落では誰も自分の本性等知らない-そこまで知らなくてもいい-からこそ、ついここでは使わない年寄りめいた口調を好んで使うのだ。


 無論、師匠の前で使用するのは恥ずかしいという思いもあるが、あの口調が自分に安らぎを与えてくれるのだと自負している。


 その思いは、雲水ウンスイに届いていたようで、今もこれからも否定するつもりはないらしい。


 そして、肯定したという事は少なからず、“ここから独り立ちしてみなさい”という意見にも相当する。


 彼の態度から、呂望リョボウはそう読み取っていた。


 「わしは……本当は行きとうない。

戦で次々と亡くなる人々を目の前にして、何も出来ぬわしに、西岐サイキの長である姫昌キショウ様に会うのが怖くて、今一歩足を踏み出せぬ」

「確かに人が死んでいくのを見るのは辛いな。まして、同じ姿をした者が動物ではあまりない“憎悪”という感情のモトで人を殺めていくのは、辛いというよりも理解し難い」


 雲水ウンスイは、初めて呂望リョボウの本音を聞いた気がして、思わず本音で返してしまった。


 しかし、そうは言っても彼には殷の王である紂王チュウオウを倒してもらわねばならない。


 何故なら、呂望(リョボウ)の親類や仲間を死に追いやったのは、他ならぬ紂王チュウオウなのだから。


 実は、呂望リョボウにはまだ言い出せないでいる。


 落ち着いて判断出来るまでという考えが雲水ウンスイにはあったし、呂望リョボウも昔の事件コトには極力触れたくないという態度を見せていたが故に、いつしか話題にさえのぼらなくなった。


 だからこそ、まだ苦しんでいる人達に。


 いや、たった一人の感情の赴くままに、人の命が消えていく事実を変える為に、今一度立ち上がってほしいのである。


(さて、憎悪といった感情が薄れている彼に、どう姫昌キショウ殿に合わせ、奮い立たせるか……

そもそも、私よりも長い時間を一人で過ごさせるわけにはいかない)


 雲水ウンスイは、新たに広がった目の前の壁をどう取り払うか考えに考え……


 意を決して、紂王チュウオウ悪事や彼に荷担しているもの達の存在、しかしながらそれは自らの意志で手を貸しているのではないことも、雲水ウンスイが知っている限りの知識を教えようと決めた。


呂望リョボウ、今から話す内容はお前が聞きたがらない内容コトばかりだ。

でも、まずはお前が……お前の大切な人々が何故消えていかねばならなかった発端を、少しでいいから知ってほしい。

ここから旅立つか否かは、その後に考えよう」


 雲水ウンスイは、出来るだけ呂望リョボウの気持ちを傷つけないよう、言葉を一つ一つ選びながら、長年抱いた思いを伝える。


 呂望リョボウは、そんな彼の思い遣りにも似た言葉から、何かを託したいのだと覚り

「分かりました」

と、返事をして口を閉ざした。


 雲水ウンスイはいつもの優しい笑顔を見せ、自分に確かめるかのようにゆっくりと語り出す。


 その内容が、遠い未来で何の変哲もない、ただの娯楽モノガタリになることなど知らずに。





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