眼鏡と工芸茶

 往事渺茫 5






 わざわざ確認する必要もなかった。






 アズマが一仕事終えた帰り、家に近付くにつれ通行人の噂話の声が大きくなる。


 マフィアが揉め事起こしたらしいよ。やっぱ市内でも香港は物騒だよね。市内だからじゃないの。撃たれたとか?血ぃ、すごいって。警察きてる?あの道路通行止め。外国の子かな?死んじゃったみたい。



 ──外国の子かな?死んじゃったみたい。



 ドクンと心臓が脈打ちアズマはわずかに歩調を早める。わずかに、にとどめ、走り出すことはしなかった。


 もう…遅い気がしていたから。


 角を曲がる。街の喧騒がうるさい。裏通り、1本抜けて、2本抜けて、通行止め。一般人には無名で、そうでない・・・・・者には有名な路地。

 人だかりの間から覗き込んだ。血溜まりの中からちょうど誰かが運ばれていくところ。


 わざわざ確認する必要もなかった。



「…………トキ



 アズマの呟きは、誰の耳にも届きはせず。

 周囲の人間が何やら口々に話している。聞けば、どうやら売人が持っていた阿片アヘンを巡って争いになった、と。


 驚きはしなかった。悲しいというのも違うように思えた。いずれこうなることがわかっていた、そんなあきらめにも似た感情が、湿度の高いベタついた空気と共にアズマまとわり付く。


「…………なんでだよ」


 なんでもなにも、今更だ。全部今更だった。また。


 道の端、物陰に隠れて落ちている、レンズの割れたトキの黒縁眼鏡を見付ける。アズマはそれを拾い上げてその場を去った。

‘知り合いだ’と声を上げて駆け寄ることもできた。けれど、トキが望んでいない気がした。自宅に戻り、金と煙草と上着だけ持って再び玄関を出る。鍵はポストに入れた。キチンと手順を踏んで借りた家でもない、住人が居なくなればすぐに次がやってくる。


 行くあてはないな。行きたい所も。というより、全部どうでもいい。紫煙をくゆらせつつアズマはフラフラと街を歩いた。吸い切ったら続けて1本、それも吸い切ったら再び1本。無くなったら新しく買えばいい。何十本吸っても怒られないんだから。


 道路のあちこちに飛び出すネオンの看板。電飾の光がやたらと眩しく目に染みて、少し、視界がボヤけた。






 ◇◇◇◇◇◆◆◆◆◆






「それから、なんもヤル気が無くなった俺はなんとなぁく裏社会に足を踏み入れました。そのままズルズルやってたらラッキーな事にご存知【黑龍】にスカウトされました。あとはこの前話した通りです。おしまい」


 そう締め括ると、アズマは穏やかに笑った。テーブルに伏して話を聞いていたイツキに向かって首を傾ける。


「面白かった?」

「面白い…かは、わかんないけど、アズマのこと知れて良かった」

「えっ!?ほんとに!?」


 声の調子を弾ませるアズマ


 イツキは頷いて、アズマが掛けている黒縁眼鏡を見詰めた。そんな前からその眼鏡使ってるんだ───あれ?今までの話を聞いていて、生まれた違和感に上体を起こすイツキ。もしや。


アズマって目ぇ悪くないの?」

「ん?悪くないよ。これ素通し」


 言われてみれば、老眼にしては若いし近眼にしては目捷めばしこい。レンズ、度が入ってなかったのか…意外な事実にイツキはプッと吹き出し、今までの眼鏡の印象なんだったの?と破顔。

 アズマイツキの笑顔に嬉しそうな表情をしたが、ふと黒縁のフレームに指を添えた。


「外したほうがいいかな」

「なんで?大事じゃん。似合ってるし」


 大事ではあるが。昔を引き摺り過ぎているような感じもした。


眼鏡それアズマだよ」


 イツキが軽く微笑む。笑顔、連チャン。今日は2回もレアイベントが発生…運を使い果たしたんじゃないかとアズマは思った。


「ていうか眼鏡メガネアズマ?」

「一応ね、本体は身体こっちなのよ」


 ふぅんと頬杖をつくイツキの湯呑が空になっているのを目にとめたアズマは、新しいのいる?と訊ねる。


「うん。ありがと」

「何がいい?」

アズマのオススメ」

「任して」


 席を立って台所へ向かうアズマだが、気配を感じて振り返ると後ろからイツキが付いてきていた。


「どした?」

「え?どうもしない、来ただけ」


 アズマの質問にキョトンとするイツキ。恐らく本当になんの意図もない、励まそうとか慰めようとか、全く何も無く。来ただけ。


 アズマは楽しそうに笑って、とっておき使っちゃお!と言うと食器棚から豪勢な装飾の缶を引っ張り出した。イツキが、ならもっと早くそれ淹れてよとボヤく。


「こーゆーのは、あとから出すから良いんだって。見た目も味わうやつだし」

「あ、花茶だ。可愛い」

「でしょ?前、イツキが茶屋で気になってる感じだったからさぁ… ……」




 いつもの午後、【東風】店内に響く仲の良さそうな話し声。昼下りのあたたかな風が、柔らかく部屋を抜けていった。

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