24 白い砂

 夜の墓地は想像以上に暗闇だった。当たり前だ、夜に墓参りに来る人なんていない。石壁の向こうの街灯の光を頼りに、一歩一歩進む。じゃり、じゃり、と砂を踏む音がする。それすらもうるさく聞こえるほど、石壁の内側はしんとしていた。僕はポケットにスマートフォンを入れていたことを思い出し、ライトを点灯させた。明るさを最小限にしながら、足元を照らす。


 昨日とは道の見え方が違った。崇浩さんが眠る墓はどれだっただろうと、不安に駆られる。背伸びをして先生がいるはずの方角に向くが、先生の姿はやはりここからは見えなかった。いざそのときになったら、ちゃんとここから合図は見えるのだろうか。わからないが、僕はまず墓の前にたどり着かなければ。


 通路に沿って規則正しくならぶ墓の列を慎重に確認しながら、おそらくこの列だったろうと思いつつ、ひとつずつ墓に掘られた字をライトで照らして確かめていく。伊東、杉浦、橘。四つめの墓に、昨日見た「長谷川」という苗字が彫られていた。僕はその前に立ち止まり、正面に立ってじっくりと見すえる。墓に供えられた花は昼間よりもさらに萎れ、花瓶(と言うのかわからないが、花が生けられている銀色のくびれた容器)から力なく枝垂れていた。僕は墓前にしゃがんで、先生の合図を待つことにした。




 それからしばらく、息を潜めて待つ時間が刻々と過ぎていった。石壁の向こうからは、ときどき人々の楽しそうな声が聞こえてくる。幼い女の子と男の子の声、夫婦と思われる壮年の男女の声、家族の声、恋人の声。提灯の揺れる小さな灯火を思い出した。



 墓の根元には、蓋として置かれている家紋が刻まれた石がある。この石の奥に、崇浩さんの骨がある。いや、先生からしてみれば、崇浩さんが『いる』。誰からも求められずに生き長らえている僕が、死んでなお求められている崇浩さんの骨を盗むなんて、なんて馬鹿げた話だろうと思った。



「崇浩さん」



 僕は誰にも聞こえない、小さな声で墓に話しかけた。聞こえるのは遠くからの祭囃子だけで、もちろん、墓からは返事がない。



 僕のこの命を、崇浩さんにあげられたらいいのに。そうしたら、僕は死に、崇浩さんは生き返って、先生はこのうえなく喜ぶはずなのに。先生も僕も、そんなことはできないとわかってしまっている。だから、だから、せめて骨だけでも。



「こんなことをして、すみません。でも、僕は先生が大切だから」



 そう。生きているからこそ、人を大切にできるのだ。人のそばで歩いていけるのだ。たとえ足が痛んでも、心が痛んでも。自分の隣を誰も歩いてくれなくても、自分が隣を歩きたいと思う人のそばに歩み寄ればいいのだ。




 夜空を見上げる。墓地は暗く周りに光がないからか、満天の星が頭の上にひろがっていた。小さな星も大きな星も、瞬く星も煌々と輝く星も、お互い寄り添うようにして光り輝いている。涙が出そうだった。すん、と鼻をひとつすすった、そのときだった。



「天来くん」



 先生の潜められた声が石壁の向こうから届いた。どくん、と心臓が跳ねる。おそらく、これが合図だ。僕は墓の台座の上に置かれた小物をしずかにどけて、台座の石を横へずりずりと引きずるように動かす。それは思っていたよりも軽く、簡単にどけることができた。スマートフォンのライトで墓の根元を照らすと、そこにはぽっかりと暗い穴が空いていた。この穴に手を入れるのか、と一瞬怖気づいたが、次の瞬間には右手を突っこんでいた。怖がっている場合じゃない、急がなければ。おとといの昼間に納骨されたときの崇浩さんの骨壷は、薄い褪せた水色をしていたはずだ。


 手が穴のなかで何度か空ぶったあと、小指にコツンと硬いものが当たった。その方向に手を伸ばすと、手のひらくらいの大きさの円筒形のものがあった。夜とはいえまだまだ気温が高いのに、それはひんやりと冷たかった。僕は慎重にそれをつかみ、穴の壁にぶつからないように穴の外へとりだした。



 暗いなか目を凝らして確認する。それはおととい見たものと同じ、水色の骨壷だった。手におさまる骨壷を見て、「想像していたよりも小さいな」とぼんやりと思った。しばらく、両手の冷たさを感じながら、街灯の漏れ入る光を反射する褪せた水色を見つめていた。


 そうだ、先生。先生に知らせないと。



「先生」



 僕がちいさな声で呼ぶと、先生がすぐさま墓地の出入口からこちらへ駆け寄ってくる。出入口からさしこむ外灯の光のなかに、先生の華奢な影がぼんやりと浮かぶ。その影はこちらにどんどん向かってくる。僕は立ち上がり、先生に場所を教えようと手をあげて待つ。先生は、墓のあいだを縫って、僕の目の前までたどり着いた。暗闇だからか、先生の吐息が震えているのがよく聞こえる。



「先生、これ……」



 僕は右手で先生の前に骨壷を差し出した。左手のスマートフォンのライトをもういちど点けると、先生の表情がうかがえた。彼女はその大きな目をさらに見開き、唇をぐっとつぐんでいる。



 先生はゆっくりと僕から骨壷を受け取り、蓋を震える手で開けた。開ける瞬間、カタカタ、と縁が当たって音が鳴った。




 骨壷のなかには、白い砂のようなものが納められていた。ところどころ、歪な形の白い石のようなものが砂のなかに埋まっている。茶色いヒビが入っており、指でつかみあげればパキン、と音をたてて崩れてしまうのではないだろうか。その歪なかたちの石が、唯一これらが人間の骨なのかもしれないと思わせるものだった。それ以外は、僕からみればただの白く細かい砂だった。



 僕はスマートフォンのライトで骨壷の中身を照らしながら、先生の表情を横目でうかがう。先生の目は赤くなっており、目尻にはライトの光を反射するくらい涙が溜まっていた。震える手で先生は骨壷の蓋を閉め、両手で持った骨壷を自身の胸にぎゅっと抱き締めた。



「崇浩……」



 先生は絞り出すようにそうつぶやいた。いままでいちども聞いたことのない先生の声だった。僕を天来くんと呼ぶそれとはまったく違う、か細い、想いが擦り潰されたような声。ああ、僕と屋上で出会ったあのときから、先生はこのときを、この白い砂を求めていたのだ。先生の震える息遣いが、しずかな墓地に響く。僕は台座を元の場所に戻し、先生のそばに立ち尽くしていた。




 どのくらいそうしていただろうか。先生は骨壷を抱き締めたまま動かなかったし、僕はその先生を見守ることしかできなかった。なんと声をかければいいのか、十七年間、競技場のタータンの上を走り続けてきただけの僕にはわからなかった。



 スマートフォンのあかりを落とし、ゆっくり、先生の肩に手を伸ばす。先生は僕の手を振り払うことも、拒むこともない。僕は骨壷を抱く先生を、そのまま抱き締めた。ずるいことは、自分でもわかっていた。でも、それでも、いま先生を抱き締められるのは僕だけなのだから。先生の震える背中が、愛しく感じた。先生、僕じゃダメですか。問うように、先生が壊れないように、優しく、力強く抱き締めた。


 その時間は、一瞬にして凍りついた。



「誰かおるんか?」


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