2話
その日は千夏にとって、おそらく一生記憶に刻まれる日になった。
とても辛くて、苦しかったはずの日が、大事な人と想いを交わすことが出来た幸せな日に上書きされたのだから。
朝起きて、隣に温もりがあるのを感じた。
彼の、ハジメの寝顔を見る。昨晩、溢れる程だと感じた想いは、
少し落ち着いた、穏やかな、くすぐったいような気持ち。
寝ているハジメの髪に手を伸ばして触れる。朝は毛先が少し癖がつくんだなと思って、それを知っているのが自分だけだという事にすら、幸せを感じる。
友人達の中にも、もう彼氏との朝を迎えたと言う話を嬉しそうにしてる子も居た。
その時は羨ましそうにしながら、内心ふーんと思いながら聞いていたものだったが、あぁ、何だか誰かに話さずにいられないようなこの多幸感は、確かに。そう思わずにいられなかった。
恋人になって、キスをした。寄り添うようにして寝て、夜を明かした。
それだけでこんなにも満たされているのに、まだ
寝ぼけた頭でそんな事を考えて、千夏は赤面する。
呼吸を整えて、モゾモゾしている間に、ハジメもまた寝ぼけたように目を開き、千夏を見て、おはよう、と言った。
おはよう。そう千夏も言葉に出す。
これはまずいな、と思った。
どうも昨日までの千夏と今ここにいる千夏では、もう違うモノになってしまったらしかった。
ただ、朝の挨拶を交わしただけで、こんなにも息が苦しくなるほど、ハジメが――――。
そんな風にいっぱいいっぱいだった心は、何気なく、当たり前のように顔を近づけて、優しく唇を触れさせてきたハジメによって完全にショートした。
哀しみと同様に、幸せも溢れすぎると飽和する事を知った。もちろん、そんな飽和は決して嫌なものではなかったけれど。
何だかだらしなくニヤついて笑ってしまっていた気がする。流石に恥ずかしかった。
元気になった身体が、空腹を主張する。
聞こえてないかな、そんな事にも赤面していると、ハジメのお腹も鳴って二人で笑う。
少しのやり取りの後、千夏は外に着替えとかを買いに行くことにした。
◇◆
コンビニでも勿論揃うのだが、ハジメの家の近くのコンビニの向かいには、日用品なども売っている大型の薬局もあった。
ちょうど店が開く時間だったので、そちらにも顔を出してみる。まだ店の中はレジのおばさんしか居なかった。
服は昨日寝て起きたままで少し皺になってしまっているけれど、それは仕方ない。でも下着は替えてしまいたい、そう思って各コーナーを物色していく。
色々見ていくうちに、完全にお泊りセットのようになった。いや、もうお泊り済なのだけど。
歯ブラシとか、化粧品とか、ちょっとシャワーとか浴びたいと思って、旅行用に小分けされたシャンプーやトリートメントも売っていたのでかごに入れていく。
これらが、一時的にでもハジメの家に置かれる事を思うと、何とも言えないふわりとした気持ちになった。
レジを通る時、買ったものと千夏の格好をちらっと見られて、何だか微笑まれた気がしたのもまた、むず痒い。
歩いてハジメの家に戻る。
新築の家ばかりで昔から住んでいる人が少ないせいか、近所付き合いはあまり無いらしいが、何となくすれ違う人とはにこやかに会釈をしつつ、扉の鍵を開けてハジメの家に入っていく。
バターの匂いと、何だろう、それに混じってとりあえず美味しそうな匂いが漂っていた。
「……えっと、ただいま、ちょっと着替えてもいいかな?」
朝ごはんの用意をしてくれているハジメに、感謝しながら、そう聞くと、
「おかえり、千夏。いいよ、二階の、僕の部屋じゃない方を好きに使って……美穂の、妹の部屋だったんだけど、綺麗にはしてあるからさ」
ハジメが優しく出迎えてくれる。
「あ……うん、使わせてもらうね…………えへへ、それともここで着替えて欲しい?」
妹の部屋だった、という意味に少し言葉に詰まって、その気持ちを覆い隠すように買ってきた袋で身体を隠しながら聞いてみる。
慣れないことをしたかも、きっと耳が赤くなってる。
「……うんって言いそうになるけど良いの?」
それを見たからなのか、仕返しのようにハジメが意地悪な事を言ってきた。正直、見たいなら良いよって言いたくなってしまうけれど。
「……まだ、ダメ」
そう言って、千夏は階段を駆け上がった。これ以上は心臓が保たない。
本当にびっくりする。
彼氏彼女らしいことをしたことはないけれど、決して初めての彼氏という訳ではないのに。
いつから自分はこんな純情な少女になってしまったというのか。
部屋の中は、確かにキレイに整えられていた。
学習机とベッドはそのままに、活発な子だったのか、沢山の写真が壁に設置されたボードに貼られていた。
ふと真ん中の写真に目を留める。
今より少し幼いハジメと、その隣にハジメに腕を絡ませるようにしてピースサインをする少女が居た。
「めちゃくちゃ可愛い子……美穂ちゃん、か」
ごめんね、お部屋、少しだけ借りるね、そう言って、千夏は着替え始める。
後でしたいことができた。ハジメにお願いしようと思いながら。
◇◆
(え……? これはちょっと幸せが過ぎるというか)
下に降りると、温かい珈琲にミルクが用意されていた。
そして、食卓にはトーストに、オムレツやハム、サラダまで。
(やばいんですけど、日曜日の朝って感じのご飯を作ってくれる彼氏……)
内心そう呟いていると、ハジメが照れたような顔で言った。
「結構休日の朝食っぽいよね? 食べよっか」
「うん、本当ありがとう!」
普通のご飯ではあったけれど、でも、きっと千夏は今後もこの日食べた味を、匂いを忘れない気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます