第180話 ソウルフード
アトラスくんとの絶望な話し合いは終わる。
最終的に、もはやアトラスくんは戦力外通告を受けた。
そりゃあそうだ。少なくともレベル30以上はないといけない今後のイベントの難易度に対して、彼のレベルは5。
生まれたての子鹿並みに弱い。たとえば俺が少しでも力を込めて小突けば、それだけで骨が折れるだろう。
そんな奴にヒロインたちの運命は任せられない。
その上、好感度もまともにあげていないときた。
これではレベルが高かろうとまともにイベントは発生しない。
ゆえに、半ば強制的に俺が頑張るしかなかった。
まさか1も2のイベントも俺ひとりで解決しないといけないとは……。
さすがにキツすぎんか? いけるか?
これまでなんとか頑張ってはきた。本来ありえない、シリーズが重なっているこの世界だからこそ、最後には上手くまとめられるかもしれない。
今はそれを信じるばかりだ。
どちらにせよ俺に運命は変えられない。
ひとまず、気を引き締めて目の前のイベントに集中することにした。
▼
数日後。
とうとう竜の里へ向かう日がやってきた。
準備を済ませた俺が、ククと共に港までやってくる。
港には大きな船があった。
「王都のそばにこんな広い港があったのか……」
興味がなくて知らなかった。
ゲームだとたしかに海に面してはいたが、それにしたって俺の好奇心よ。
ここ数ヶ月の思い出は、イベントとダンジョンとの往復ですべて費やした。
残りは授業くらいだ。
「こんにちはルナセリア公子様。お待ちしておりました」
港へ足を踏み入れてすぐに、着物姿のツクヨが俺のそばに歩み寄る。
彼女はなんだか気配が希薄だ。気配を消すのが上手い。
竜の里なんて神秘な場所にいたくらいだ、もしかすると特殊な経験を積んでいる可能性はある。
そうでなくとも未来を見通す巫女だ。いろいろあるんだろう。
その辺りはわりとどうでもいい。それより、
「こんにちは、ツクヨさま。ツクヨさまたちが乗ってきた船って、もしかしてあれですか?」
遠くにあるひときわ大きな船を指差す。
彼女はにっこりと笑みを浮かべて頷いた。
「はい。あちらが竜の里で造られた船ですね。なかなか大きいでしょう? それなりに自慢の逸品です」
「ええ。最初はびっくりしました。船首に竜のシンボルが見えたのでまさかとは思いましたが、すごいですね」
「それほどでもありません。竜の里がある島は周りが海に囲まれていますので。船は必須です」
「へぇ……それはそれは」
不便そうだなぁと思う。
前世でいう田舎みたいなもんかな?
「海鮮料理にご期待ください。新鮮な魚を振る舞いますよ。ただし、生魚などが苦手な場合は言ってくださいね。しっかりと焼くので」
「……え? 生魚が出るんですか?」
それって刺身のことか? 懐かしくてやや前のめりに聞いてしまう。
ツクヨは俺の迫力に驚きながらも答えてくれる。
「は、はい……我が里では日ごろから食べられる料理です。ルナセリア公子様は、もしかして刺身——生魚に抵抗ありませんか?」
「全然まったくありませんね。むしろ食べたくてしょうがないくらいです!」
何を隠そう、前世で俺が好きな食べ物のひとつが刺身だ。
というか日本人の大半は寿司や魚が大好きなはず。言わばソウルフード。
まさかこの異世界で食べられるとは思ってもいなかった。
王都では焼き魚しか出てこない。生で食べるものは見たことがない。
それだけに諦めていたが、竜の里は日本みたいな場所なのかな? 行くのが面倒だと思っていたが、刺身のためだと思うと気分もあがる。
内心でおおはしゃぎしていた。
「意外でした……竜の里の民以外は、生魚を嫌う傾向にあるのに」
無理もない。生魚を食べる習慣のない人間からしたら、魚を生で食べるのは肉を生で食べる行為に等しい。
寄生虫のせいだ。そのせいで鮮度が悪いと確実に腹を下す。痛い思いをした者は大勢いただろう。
だが、俺は知っている。前世の記憶を持っているから知っている。
鮮度さえしっかりしていれば、寄生虫さえなんとかできれば、魚は生が一番上手いことを。
……って、待てよ?
ここにきて一番大事なものを忘れていた。
「あ、ツクヨさん。ひとつ質問いいですか? その刺身に関して」
「はい、なんでしょう。移動しながら聞きますよ」
彼女と揃って船のほうへ歩き出す。
歩きながら俺は質問を続けた。
「刺身には醤油を使うんですか?」
——そう。醤油だ。これがないと刺身の魅力は半減する。
生魚はまだしも、醤油はどうだ? あるのか? この異世界に。
祈るように彼女の答えを待つ。すると彼女はあっさりと答えた。
「ありますよ。詳しいんですね、ルナセリア公子様はこちらの文化に」
「それほどでもありません!」
返事を返しながらテンションが爆上がりする。
——勝った。圧倒的に勝った。醤油と刺身があるなら、竜の一匹くらい狩ってやるとも。任せてほしい。
しばらくのあいだ、俺の思考は醤油と刺身ですべて埋まった。
そのせいで気付くのに遅れた。
背後から忍び寄る影に——。
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