第25話

 魔力に圧されて苦しかった。

 薄れゆく意識の中で、エスクード侯爵がナイフを持ってカインに近寄っていくのが見えた。

 侯爵の目には涙が浮かんでいた。

 ロメオも苦しくて涙がこぼれていたが、エスクード侯爵のそれは自分のそれとは違うものだと、小さなロメオは感じていた。

 さっきできたばかりの友達。初めて会った従兄弟。大好きな伯母様の大事な息子。

 その彼が命を終えようとしている。

 アバルト侯爵の腕がきつくロメオを抱きしめたのを感じた。きっとこれから起こる出来事を見せまいとして、ロメオの目を覆いたいが、体がうまく動かないのだろう。

 だからロメオは全てを見ていた。

 しっかりとそのブルーグレーの瞳で、目の前を見据えていた。目を閉じてはいけないと思った。

 人が死ぬのを見たことはなかった。動物が死ぬ姿でさえない。死とは最も遠いところでロメオは生きてきた。

 しかし、死は今まさに自分の身に迫り、自分たちに死をもたらそうとしている小さな命もまた、彼の父親の手で終えようとしていたのだ。

 エスクード侯爵がカインに近づき、ナイフを振り上げる。伯母様の叫び声が間近で聞こえた。

 全てがゆっくりだった。

 見届けなければいけない。友達として、従兄弟として、彼に命を奪われる者として。

 ロメオは重く苦しい圧力の中で、無意識に魔力を集中させて、刈り取られそうになる意識をつなぎ止め、目を見開いて見つめていた。

 カインの体から見た事もない真っ黒な魔力の塊が吹き出して、エスクード侯爵の体を縛り上げたその時。


「いいえ。公子。公子が悪いわけではありません」


 柔らかく、暖かい、キラキラと美しい魔力を感じた直後、舌足らずだけど優しい声が聞こえた。

 途端、庭園を圧し潰さんばかりに溢れていた魔力が嘘のように消え去り、ロメオは体の自由を取り戻した。

 息を大きく吸い込む。久しぶりに息をしたような気がしたが、時間にするとほんの数十秒程度だったと、後で父に教えられた。

 父のアバルト侯爵も伯母上も、力尽きたように倒れているが、小刻みに体が規則的に動いてる。

 息をしている――よかった。

 エスクード侯爵は夫人に駆け寄り、悲鳴のような声で夫人の名を呼びながら抱き上げていた。

 カインはジルダに手を握られると、崩れ落ちるように膝をついた。

 焦点の合わない目でジルダを見つめると、母を求める子供のようにジルダに抱き着いて、意識を失った。


 あの時の事をカインはよく覚えていないらしい事は、エスクード侯爵から聞かされていた。

 だが、魔力暴走を起こしたことはちゃんと覚えていて、ジルダに救われたことも記憶し、理解していた。

 彼女の優しさに惹かれていたこと、婚約を喜んで承諾したことも聞いていた。

 ロメオの目にも、あの冬の日までは、カインはジルダに恋心さえ抱いているようにさえ見えていた。

 子供だったからと言われるとそれまでかもしれない。

 それでもロメオには、どこか寂しそうに見えていたカインが、やっと見つけた安らげる場所だったのではないかと思わずにいられなかった。

 カインの幸せを喜び――そしてジルダがいてくれれば二度とあのような苦しみに身を潰される事はない。

 2つの感情が入り乱れるのは当然の事だろう。

 だからこそロメオはジルダを大切に思っているし、大事にしたいと思っている。

 なぜカインにはこんな簡単な事が理解できないのだろう。


「ジルダが僕を助けたのだって打算だったんだ」

 カインは冷めた茶を一息に飲むと、部屋の隅に控えていた女中に新しい茶を用意するよう合図した。

「何を言ってるんだ。7歳の女の子だぞ?」

 ロメオが心底呆れた顔でカインを見たが、カインは自虐気味に歪んだ微笑みを浮かべた。

「7歳とて言われれば人も殺す。大方、父親のシトロン伯爵にでも命じられたんだろ」

「カイン……君ってやつは……」

 ロメオは言葉を飲み込んだ。一体、何があの優しかった親友をここまで変えてしまったのかと、困惑すらしていた。

 これまでのカインは、ジルダを疎んじてはいたものの、ここまで悪様に言うことはなかった。

 だからロメオもティン=クェンも、態度を諌めることはあっても、口論にまで発展することはなかったと言うのに。

 

「――母上がお亡くなりになる時に呼んだのは僕ではなくジルダだった」

 カインは、少しだけ躊躇った後、これまで親友に打ち明けてこなかったあの日の出来事を、初めて口にした。

「伯母上が……?」

「母上は僕をお嫌いになっていた。僕が近くに行くとあからさまに嫌悪に満ちた顔で僕を見ていた。だが、ジルダとは親しかったようで、いよいよという時にジルダをお呼びになっていたよ」

 初めて聞く事実にロメオは言葉が出なかった。

 だが、衝撃の後にすぐに答えに行き着いた。

 だとしたらカインの言うことは全て整合する。何と言うことだ――

 

「君……君は何も知らないのか?知らされていないのか?」

 ようやく絞り出した声は酷く掠れていた。

「何のことだ」

 苛立ちが込められた声が、ロメオの耳をざらりと撫でた。

「伯母上は――」

 言いかけて、ロメオは息を呑んだ。

 カインが知らないと言う事は、敢えて話していないのだ。それには理由があるのだろう――侯爵は、オレリオ伯父様はそういう人だから。なら、僕が言ってしまう事は間違いだ。

「なんだ、また母上の自慢話か?息子の僕より甥の君や他人のジルダの方が母上を知ってるなんて笑い話だよ」

 カインの嘲笑がロメオの胸を悲しく抉ったが、ロメオはただ俯いて膝の上に置いた拳を握りしめるだけだった。

「図星か」

 カインはロメオに蔑むような視線を向けると、女中が新しく入れた茶を受け取り、一口飲み込んだ。

 今度はいつもの花の香りのする甘い茶だ。

 カインは、その味に誰かを思い浮かべたが、それが誰かはわからなかった。その代わり、苛立ちがほんの少しおさまった気がした。

「ジルダは母上と仲が良かったことを僕に一言も言わなかった。僕が母上に会えなくて寂しいと打ち明けた時も、ジルダは僕の母に教えを仰ぎ、共に時間を過ごしていた――僕には打ち明けずに。僕の気持ちを知っていながら、騙していたんだ。そして今のジルダを見ろよ。見た目こそ違えどまるで母上のようだ」

 自分に向ける表情は冷たく、嫌悪こそ浮かべないものの、事あるごとにカインに貴族としての振る舞いをしろと咎める。かつての母上のように――

「ジルダは母上を慕っていた。母上のようになりたいとも言っていた。僕と結婚して侯爵夫人となって、自分を馬鹿にした家族や社交界を見返したいんだ」

「いい加減にしないか。君は誤解している。ジルダはそんな人じゃない事は君が一番わかっているんじゃないのか」

 もう一度絞り出すように発したロメオの言葉にカインは、ふと何かを思い出しそうになった気がした。

 しかし、すぐにその感覚を振り払い、「ともかく、ジルダは僕を愛してなんかいない。それに――」とロメオを見つめた。

「ジルダでは僕との間に子を作る事はできないのは、君にもわかっているだろ」

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